(7/9)猫にコンドーム(〇版)

「そういえば古田さん、髪黒くしたの、課長に何か言われたんですか?」

 会議が終わって終業の鐘が鳴ったとき、星野さんが少し遠慮がちに聞いてきた。

「いや、全く。ちょっと訳あって黒くしたの。変かな?」

「いえ、ちょっと気になっただけです。私、古田さんの髪の色、素敵だなと思ってたんですけど私には染める勇気がないから……」

 へえ、そんなこと思ってたんだ。

「星野さんならどんな髪型でも似合いそうだけどね」

「そう思います? 私、ちょっと髪を切ってみたくて……」

 そういえば髪の短い彼女を見たことがない。

「ああ、いいんじゃない? 男どもがちょっとうるさいとは思うけどね」

「ですよね。髪切ったからって失恋したわけじゃないのに」

 星野さんはころころと笑った。そんな面白いことを言った記憶はないけれど。

「古田さんの毒舌、私好きですよ」

 そよ風のような笑みを浮かべて、彼女は帰り支度を始める。そういえば今日は金曜日だし、珍しく仕事が綺麗に片づいた。

「さて、と。私これから飲み会なんで、お先に失礼します」

 あたしもそれを聞いて、帰り支度をした。

 髪は黒く伸びていき、肌は徐々に白くなっていた。それも復讐といえば嘘にならないだろう。あたしの行動の動機は復讐しかない。千歳大に入ったのも女子校時代の彼氏を千歳大の女に取られたからだし、役所に入ったのはもっと根源的な復讐を遂げるためだ。だから今更、これくらいの復讐くらいするに決まっているし、簡単にできてしまうだろう。

 峰岸紗英は、りっぱなお嬢様を地で行く見た目をしていた。肌は不健康ラインぎりぎりになるくらいの白さ、もったりとした一重まぶたがチャームポイント、それ以外はできすぎているといってもよかった。髪先はゆるくカールしているのは毛質なのかどうかわからなかったので、丁寧にこてを使ってウェーブさせてみたりした。

 徐々に、なんだか古田良子から遠ざかっているような気がした。でもそれでよかった。べつに今までのあたしが数年間変わらなかっただけで、たとえば峰岸紗英に似せるのだってあたしの自由で間違いないはずだ。佐々木優しか、文句を言う相手はいない。

 それで、あたしは復讐をしたつもりだった。精神科の予約を入れて、久しぶりだとおばちゃんに言われて気づいたが、優が電話にでていなかった。なんだか妙な気配がした。

 その夜。

 東海道新幹線で男が刃物を持って暴れ、騒ぎになった。

 男は隣の席の女性を刺した後、後方の席の女性を刺そうとしたが、そこで反対側にいた男に取り押さえられ、激高した犯人は男を滅多刺しにした。彼はそれに耐え、犯人を組み伏せつづけた。

 犯人は緊急停車した駅で鹿島県警察に現行犯逮捕された。乗客のうち、最初に刺された女性が軽傷、そして犯人を組み伏せた男は、そのまま犯人におおい被さって死亡した。


 死んだ男は、佐々木優という名前だった。


 スマホで目にした時は疲れ目かと思った。だからとっさにラジオのニュース番組をつけた。同じニュースをやっている。アナウンサーは間違いなく、「ささきすぐる」と言った。優を勇敢な男だとか、千歳県警の元刑事だったこととかそんな話をしていた。

 それは、あたしが棘を突き刺した優とは違うように聞こえた。けれど、優であることに間違いはなかった。

 こんにゃくにナイフは刺さるのだろうか。いや、刺さったのだ、実際。刺さって、棘じゃないところから血を流して、それでも優は無差別殺人犯を取り押さえたのだ。


 おれは捨て石みたいな存在なんだと思う。


 優は突然、自分の役割を達成した。尊い命として犠牲になった。

 同時に、あたしを捨てた。

 あの時そばにいてやったじゃん。

 いてほしいって、あたし言ったじゃん。

 あたしは捨て石に、捨てられたんだ。

 全部、何もかも、捨てられてしまったんだ。

「ばか野郎」

 尊い命に何の意味がある。尊いことにどれだけの価値がある。社会としての尊さがどれほどあろうと、マコーレーの詩に出てくる橋上のホラティウスが何を言おうと、許せなかった。許せるようなところがなかった。だって猫にコンドームをかぶせているだけじゃないか。その場では無事でもきっとすぐに破れてしまって使い物にならなくなる、そんな薄い存在に佐々木優は成り下がってしまった。

 成り下がらせて、しまった。

 あたしが、させてしまったんだ。

 止められたかもしれない。

 止められたかもしれなかったのに。

「最っ低!」

 スマホを壁にたたきつけた。あいにく耐衝撃性のカバーがびよん、と壁に張り付いて何も損害はない。ベッドに倒れ込んで、全力で枕を殴った。マイクロビーズの枕はあたしの拳をむなしく吸い込んでいく。

 くそ、くそ、くそくそ。

「ばかにしやがって!」

 止められるのはあたしだけだった。

 あの家には積層された孤独が横たわっていた。

 花を手向けた時もひとりだった。

「クレセント」にいる時も、いつもひとりだった。

 あたしが強く抱きしめていたら、もしかしたら死ななくて済んだかもしれない。棘に怯えたし、孤独にも怯えた。底冷えのするノクターンを聴かなければよかった。深淵なんて覗き見ない方がいいにきまっている。あたしの深淵だって、毒々しいほどにワルツなんだから。

 気がついたときには、夜の繁華街のはずれへ飛び出していた。

「待ってたよ」

「クレセント」の入り口の前で麻紀さんは立っていた。

 札には「CLOSED」の文字がかかっている。

「入りな」

 扉をあけて、いつも通りの照明の中、麻紀さんはシェイカーを手にした。

 しゃかしゃかと、シェイカーを振る音だけが深夜のバーに響く。時間外だからだろう、ライトの数は半分くらいしかない。

「落ち着いた? って、そんなわけないか」

 麻紀さんの声が少し枯れていることに気づいた。よく見ればまぶたが少し赤い。

 注がれたバラライカは、本物で。一口飲むと、すっきりと透き通った味と、ウォッカの熱い刺激が広がった。次から、ゆっくり本物を作ってもらおう。

 吐いた息はふるえていた。というか、手もふるえていた。

 あたしは全身で事実を拒否していた。

「優、さ。あたしのこと振ったんだよね」

「うん、聞いた。だからそういうかっこしてんでしょ」

「あ、バレてる」

「それさ、わりと本気で怒ると思うよ」

 麻紀さんはウォッカをショットグラスに注いでいる。

「広島に移住した両親に会いに行くって、言ってた」

 かん、という高い音と、かちっ、というライターの着火音が続いた。

 あたしはカウンターの内側に、ぶ厚い茶封筒が置いてあることに気づいた。角型2号。A4サイズの書類が大量に詰められている。

「一昨日、完成したって置いていったの。良子ちゃんが来たら、って」

 視線に気づいた麻紀さんは、封筒をあたしの前に置いた。

 綴じひもを解いて、中身を覗く。

 百枚ほどに綴られた『猫にコンドーム』があった。作者欄には「宮本崩」と入っていて、「崩」の横に手書きで小さく「くずる」と入っている。


 猫にコンドーム【ねこに――】

 雄猫のペニスには棘があり、たとえコンドームを使ったとしても破れてしまい使用ができない。転じて、余計なこと、意味のない備えの例え。


 名前がないものに名前をつけるということは古くから呪術的でありどこか犯罪の雰囲気を纏うものだ。だから本当はこの小説にも名前を付けたくはない。誰も呪う必要がないからである。けれどそうすれば他の名もなき詩たちに埋もれてしまうような凡庸な文章であることは確かなのだ。だから僕はありもしない格言をタイトルにしてそこに「無意味」という意味を持たせた。

 これはある意味では小説ではないのかもしれない。しかし日記だって小説になりうるしまして恋文ならなおさらだ。つまり僕は実にありふれているけれどもこれを「小説」と呼びあまつさえ誰かに読んでもらうことをはばからない。


「ごめんね、あたし先読んじゃったそれ」

 麻紀さんのはなをすする音が聞こえた。

「あたし純文学ってよくわかんないし、すぐるくんの文章難しくて全然わかんなかったから、全然違うかもしれないけど、これ多分良子ちゃんのために書いたんだと思うんだ」

 あ、だめだわ、と小さく麻紀さんは鼻をかむ。

 もらっていい、と訊いて、あたしも鼻セレブを使うことにした。おかげで痛くない。

 封筒の底に堅いものがあった。大きさ的に、CDケースだった。取り出してみると、ミスチルの『深海』が入っていた。付箋で「参考文献」と書いてある。

「すぐるくんミスチル好きだったよね」

 そのアルバムさ、一回全部解説してもらったんだけど忘れちゃった、と麻紀さんは充血した目を細めて笑った。

 そんなことも、あたしに話してくれはしなかった。せっかく峰岸紗英もどきになったあたしを、優は見る前に死んでしまった。

 怒って欲しかった。殴って欲しかった。

 本気で。感情をぶつけて欲しかった。

 痛がって、欲しかった、のに。

 あたしはぱらぱらと『猫にコンドーム』をめくっていく。


 生きている実感などは最初からない。けれど有希子がいない世界は色彩も統合も失っていた。あの事故で僕はひととして不能になった。だから慰めようとしたひとびとも最後は諦めて離れていってしまっていた。


 人間というのはひとりで生きるようにはできていないくせに自分の中に石碑を刻みたがる生き物だ。僕はいろいろなひとに助けられそして拒絶された。深海の底に眠るシーラカンスのように僕は社会の中で不要になりつつあることを実感した。水底にも夜が来る。白けたような朝も来る。そしてまた夜が来て朝が来てを延々と繰り返して僕は風化していく。


 ふつうのひとりの人間のように歩むことはもう不可能なのだ。誰かと歩こうとしたところで、最終的には僕の中で「mement mori」と刻まれた石碑が迫ってくる。


 この有希子、というのは峰岸紗英をモデルにしているのだろう。主人公は優自身だ。

「これ、優のことを書いてるのかな」

「多分そうだと思う。知ってる? 通り魔事件のこと」

「うん、この前献花してるとこに会ったから」

「それですぐるくんは刑事になったけど、警察って厳しいし、大変でしょ。しかもそれで紗英さんが戻ってくるわけじゃないってことに突然気がついちゃって、それで刑事を続けられなくなったんだって」

「そうなんだ」

 そんなことすら知らなかった。いや、わかっていたけれど、教えてはくれなかった。

「ああもう、ほんと、純情なんだからさ」

 麻紀さんはいつの間にかハンカチを取り出して目にあてがっている。鼻声でみっともないと思っているのか口を隠しているけれど、そんな必要なんかないと思うのは多分あたしだけだ。

 だからあたしも、同じだけみっともなく泣いた。底冷えするノクターンなんて弾くことができないし、弾きたくもない。だから、読みながら泣くことしかできなかった。

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