【短編】ルビーの指環(from きらきら)
「あの、ここ喫煙席ですよね」
「はい、そうですが」
「灰皿をいただけますか」
「失礼いたしました。ただいまお持ちします」
学生だろうか、若いウエイターは必要以上に腰を折り曲げて深々と頭を下げた。彩度の低い店内に、白いシャツと黒いベストが嫌に目立つから、そんなことより早く灰皿を持ってきてくれと言いそうになってやめた。俺にだってそんな時期はあったのだ。
古びた喫茶店は、ひなびた外見とは裏腹に多くの客で賑わっていた。この街が海に近いということ、今日が小中学校の夏休みの初日であることが関係しているのだろうか。制服を着ていないからわかりにくいが、確かにやたらと若い顔が多いような気がする。
俺は取り出していたライターを握りながら、ウエイターが慇懃に差し出したアルミ製の灰皿を受け取った。喫煙席とはいえ、こうまで未成年客が多いと吸いづらい。せっかくもらった灰皿だが、連れがくるまでもうしばらく我慢しよう。俺はライターから手を離した。
奥の小綺麗なコンポからは「デイ・ドリーム・ビリーヴァー」を忌野清志郎——いや、タイマーズのボーカルは、確か忌野清志郎本人ではなく、よく似た別人だったかも知れない——が歌っている。そう言えば、未知子と別れたのは、彼が死んだという知らせが全国を駆けめぐってから、半年くらい過ぎた頃だったと思う。あれから大震災が起き、街は砂に埋もれ、その砂がようやく綺麗になったくらいの日々が過ぎ去った。東北と違ってこちらは話題にもされなければ被害があったことすらほとんど知られていないから、おそらく彼も知らないだろう。
恋人が去って悲嘆にくれる彼の歌声はいつの間にか消え、寺尾聰の「ルビーの指環」が流れ始めた。俺は思わず窓の外を覗こうとして、くもりガラスだということに気づく。つくづく、歌詞と情景が繋がっていくのが気味が悪いと思った。さっぱりと冷房の利いた店内は、昔のことを回想するのにちょうどよい。
未知子と出会ったのは、連日酷暑が続く、ある夏の日だった。大気に内包される水分子が人体に及ぼす影響は凄まじいものがある。それだけで、日本が世界一暑い国であるということを証明するかのようで、俺はハナから仕事を諦めていた。ガラス張りの喫煙スペースに入る気にもなれないから、煙草のマークがきっちりと書かれているだけの、小さなひなびた喫茶店に入った。
空調は期待していたほどには利いておらず、額に汗が滲んだ。何を頼んだのかはよく覚えていない。なにしろ、席に座ったとたん、女給が転んで俺に氷水を浴びせたからだ。
それが、俺と未知子との出会いだった。
彼女は切れ長の目に腫れぼったい一重まぶた、コーヒー牛乳みたいな浅黒い肌と少しうすい唇が印象的で、そして絶望的に愛想が悪かった。彼女は気が動転したのか、俺に言葉もかけず店の奥に引っ込んでしまった。その後、大きなタオルと店主であろう中年のでっぷりした男が出てきた。男は手慣れた様子で謝り、お代はいただかない旨、何か注文する場合はそれもサービスすると言った。少し努力の方向が間違っているようには感じたが、幸い急いでいるわけではなく、まして服が乾くまでここにいる必要があるような気がしたので、俺は例を言って、少し腹が減ったような気がしたのでミックスサンドを頼んだ。店主はありがとうございますありがとうございますと二回お礼を言って、すぐに奥に引っ込んだ。その間も彼女は黙って俺の身体を拭いていた。俺はもういいよと言った。確かそんな感じだったと思う。
ミックスサンドが思ったより美味かったのと、どこかずれた感覚の店主が面白かったのと、彼女が気になったので俺は仕事のついでにその喫茶店に時折足を運びはじめた。そのうち彼女の名前が未知子だということや、意外に着痩せする身体をしていること、彼女がまだ大学生であることなどを知った。
無口で無愛想な割に、未知子は男に馴れていた。知らず知らずのうちに俺は彼女の深淵に引き込まれ、見た目からはあまり想像できないような細く鋭い、硝子のような声をした彼女と男女の仲になるのにそれほど時間はかからなかったと思う。本当にいつの間にか、俺と未知子は同じ部屋に棲み始めた。きっかけが何であったか覚えていないし、思い出したくもない。夏の暑いうちにすべては始まり、そして俺はいつのまにか、無言で彼女を抱いていた。ただそれだけなのだけれど、それ以上に何かがあったはずだと詰め寄られるだろうが、覚えていないのだし、思いだそうにも思い出せるようなものでもないのだ。男女関係のみならず、人間関係というのは得てしてそういうものではないだろうか。
彼女は大学に通いながら、土日は女給として働き、そして夜は頻繁にどこかへ出かけていたから、実際に部屋にいる時はほとんど寝ていた。それに家賃を払うのは無駄だと思ったのだろう、だから俺の部屋に転がり込んできたのだった。よく考えるとずいぶん身勝手なようにも思えるが、不思議なことに俺はそれが当たり前だと思っていたし、未知子とはやがて結婚して家庭を築くものだとばかり思っていた。それは、愛などという軽い言葉で示されるようなものでも、運命などという仰々しい言葉で表されるようなものでもなく、ただただやがて迎えるであろう現実のひとつの着地点として、淡々とそう思っていた。
仕事が少しずつ落ち着いてきて、俺はなんとなく部屋にいることが増えてきた。そんなときはぼんやりと、未知子とのこの先を想像したりした。彼女とあまり言葉を交わすことはない。けれども、俺たちはつながっていると妙に確信していた。
指環を買おうと思い立った。彼女と出会ってからまだ一年くらいだったが、なぜか俺に迷いはなかった。
彼女の誕生日の一週間前に、宝石店で婚約指環を買った。未知子の誕生石のルビーがはめ込まれていた。薄いピンク色にきらきらと輝くルビーは、それなりの値段がしたはずなのにとても安物のように思えた。けれど、なぜだか自分たちにふさわしいような気がして、なんとなく気に入っていた。
誕生日の当日、高層ビルの高いところに入っているレストランに彼女を呼び、その指環を手渡した。切れ長の目が丸くなり、未知子はいつにもまして無口になった。
そして。
翌日、仕事から帰ると、部屋が空っぽになっていた。
何もなくなった部屋に蝉の鳴き声がこだましていた。お情けで残されたであろう俺の小さな書き物机に乗っていたのは、未知子に渡したはずの、ルビーの指環。
彼女がどこへ行ったのか、何が原因でそんなことになったのか、全く思い至らなかった。身長一六三センチ、体重五七キロのちょっと痩せ形だが胸は大きい、浅黒い肌と日本人離れした顔立ち、三人兄弟の長女で弟たちはまだ中学生だという。そんなカタログに書かれているようなことばかり詳しくなっていたが、実際の未知子は、その名が示すとおり、知るにはあまりにも深すぎて、俺は怖いくらい何も知らなかった。結局、何も知ることが出来ないまま、ルビーの指環だけが音もたてずに残された。
寺尾聰の歌声がひときわ高くなった。今でも街の中で、ルビーの指環をしている人間を探してしまうのは、彼はきちんとルビーの指環を相手にあげることができたことの証拠だ。俺が放ったルビーは未知子に受け取られることなくそのまま捨て置かれ、今でも鞄の底に眠っている。
俺は着々と地道に仕事を進め、いくつかの地方を転々としたが、未知子の手がかりを掴むことは出来なかった。喫茶店の主人も急に雲隠れして困っていると言っていたので、彼女は突然、俺の前だけでなく、自分を構成する自分以外のすべてを捨てたのだろう。誰にだってそうしたいことはあると思うが、実際にやろうと思い立ち、それを完遂させる人間はほとんどいなかったし、少なくとも、俺は未知子しか知らない。だからこそ、最初は必死になって追いかけていたのだが、次第にその気持ちはあせていき、むしろ、大した思い出もない彼女になぜそこまで熱くなってしまったのかということの方が余計に気になった。それについては未だにわからない。
携帯電話が鳴った。
待ち合わせの相手からだ。時間に遅れそう、と冷静な声が電話の向こうから聞こえてくる。遅れるかも知れないと言っていたし想定の範囲内だ。そのために喫茶店で待っている。
寺尾聰の歌声が消え、桑田佳祐の「東京」が流れ始めた。この喫茶店の音楽は誰が選んでいるのだろう。もし今働いているのなら敬意を表したいところだったし、喫茶店を紹介させてくれと頼みにいっていたかも知れないが、なんとなく複雑なことに巻き込まれそうな気がしたのでやめておいた。
先ほども述べたとおり、未知子との思い出などほとんどない。あるのは彼女の身体のなめらかさと冷たさという、感覚だけになってしまっている。俺はそれからも何人かの女性と知り合ったがみな海辺の湿った砂を抱いているような感触がしているような気がして、そのたびに未知子を思い出してしまうのだ。未知子は特段美しかったわけでもない。どこか特に気に入るような出来事があったわけでもない、ただ俺は、どうしてか彼女にルビーの指環を贈るまでに魅入られてしまっただけなのだ。
「お待たせしました」
入り口から、真っ白なジャケットを着た、髪の長い女が入ってきた。待ち合わせの相手だった。やや疲れているのかもったりとした一重まぶたが重そうだ。
俺は鞄の底から、ルビーの指環を箱ごと取り出して、テーブルの上に置いた。
「それが、いわくつきの指環ですか」
彼女は静かにそう言って、箱を開けて指環を眺めた。
「あなたの趣味とは思えないくらい、清楚でかわいらしいですね」
「うるさいなあ」
「はめてみても?」
正気か?
思わず言いそうになってこらえた。
「君が構わなければ」
「もしかして、呪われます?」
彼女はいたずらっぽくそう言った。
「誰に?」
「未知子さんに」
「いや、呪わないだろ」
あいつが置いていったんだから呪う理由はない。
彼女は指環を右手の薬指にはめて、俺に向かってかざした。
「どう? 似合ってる?」
悔しいことに、そして不本意なことに、指環は彼女の指にしっかりと、最初からそうであったかのようにとけ込んでいた。
「似合ってるって顔してますよ」
柔らかな視線から育ちの良さを感じさせる彼女にすべてを見透かされているような気がして、俺は根負けして首を縦に振った。
「だって、それを君がはめてしまったら……俺は」
「もう諦めてくださいよ」
うつむく俺の顔をのぞき込むように、彼女は姿勢を低くした。夏の日差しには不似合いなくらいに白くきめ細かい肌。もったりとした一重まぶたがぼかす、黒く大きな瞳。未知子とは、ほとんど対照的とも言っていいその容姿。けれども、俺は彼女に会うたびに少しずつ、心が柔らかになっていくような気がしていた。だから、彼女にだけは未知子と指環の話をしたのだった。彼女は俺が捨てられない指環に異様に興味を示した。だから、俺は持ってきたのだった。
「これ、私が預かっちゃっていいですか?」
「どういう意味だ、それ」
「だって、この指環を見るたびに、未知子さんのこと、思い出してしまうんでしょ?」
話の内容とは全く関係ないのではないかと思えるくらい、彼女の顔は綻んでいた。
「思い出せなくなるくらい、この指環を使い込みます。この私が」
「おい」
「だから、未知子さんが投げ捨てたものを、私がお受け取りさせていただきますね」
そうだ。
彼女はときたま、このように変なところで強引になるところがある。こちらの気持ちを察した上で、そんなことをやっているのであれば本当に小憎らしいし、察していなかったのであるならば天然の男たらしなのだろうと思う。
「私は、あなたと一緒になりたいんです」
うまく、言葉が紡げなかった。息は詰まるしのどは渇く。思わず俺は水を飲んだ。
「それ、今言うか」
俺たちは知り合って、せいぜい半年だ。半年は、恋をするには長すぎるが、一緒になるには短すぎる気がする。
「いいじゃないですか、今言いたいんです」
彼女は冷静に強引だった。唇は隙もなく引き締められていて、腫れぼったい一重まぶたは上目遣い気味にこちらを見つめていてとんでもなく色っぽい。
未知子とは別の意味で、強かだなと思う。あの日未知子が受け取るはずだった指環は確かに不相応で、だから受け取ることが出来ずに捨て置かれた。それからかなりの年月が経ち、こうして新しい持ち主が現れ、しっかりとものにしてしまっている。それは指環を買った俺からすると滑稽でもあり、自分の書いた小説を読んでいるような小恥ずかしい気分にもなる。
「ルビーの指環の女は、ここにいますよ」
彼女の不敵な微笑みはくもりガラスに映らない。けれどそこには白くて明るい、柔らかな希望がはっきりと映っていた。
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