【短編】まだらな二人(from 幻石)
「はいどうも~」
「私とらこと!」
「俺がナイト!」
「二人合わせて『トラコナイト』! どうぞよろしくお願いします!」
「なあとらこ」
「どしたの急に」
「俺さ、横浜あたりにいる業が深いカップルのモノマネやりたい」
「業が深い? なにそれ」
「やってみればわかるって」
「ん~もう! しょうがないなあ! 一回だけだよ!」
透明なシュリンクを剥がして、マルボロのスーパーライトを取り出した。程なくして楽屋が紫煙に包まれる。
「おい」
年かさの男がいきなり俺のタバコをひったくり、もみ消した。強い衝撃で目から星が飛び出る。
「狭い楽屋なんやぞお前! けむいやろが! 外でやれ!」
観客を一人もくすりともさせられないくせに、先輩というだけで無駄に態度が大きい、パーマをかけたボクサーのようなこの男が俺は大嫌いだった。
「さーせんした」
俺は冷たくそう言うと、相方の清水を手招きして楽屋を出た。
「トンガリさん、気が立ってるね」
「毎日毎日あれだけ滑ってりゃ、ああもなるか」
いつものことだが、清水の気の利かせ方は独特で、だからクズな男によくつきまとわれる。簡単にヤれそうだと思われているのだろう。少しは賢く見えるだろうと思ってかけさせた黒縁眼鏡は絶妙な芋っぽさを生み出していて、未成年だと偽っても誰も気づかないかもしれないと思った。
「一緒に帰る必要なくない?」
「どうせ帰る場所一緒だろうが」
「ま、そだけどさ」
清水は低い声でそう言った。漫才をやっている時の甲高い声しか聞いていない連中に聞かせてやりたかった。理由? ただなんとなく。
薄っぺらいパンプスをぱたぱたと言わせながら、清水は淡々と俺について行く。剃るのを忘れた無精髭が急に気になって、俺は顎をなぞった。ちくちくと痛いが、思ったほどは伸びていなかった。
午後十時を過ぎた平日の地下鉄は制約のない静寂に包まれていて好きだ。ここにいると何をしても許されるかもしれないという錯覚に陥る。実際、車両の隅ではカップルが熱いくちづけを交わしている。清水はスマホの向こうにいるアニメ絵の男子に夢中だ。なんでもアイドルを育てているらしい。俺に甲斐性があればもっと面白いゲームをやるようになるのか、と言ったら笑いながら頭をはたいてきた。今思い出すと目は笑ってなかったし力は強かった気がする。もっと面白いネタで、もっと面白いツッコミをする必要が、俺にはあるのだろう。
青い髪の男を家に住まわせているらしく、清水のスマホにはマンションの一室の背景とともに彼の画像が頻繁に現れる。俺と同じ名前をしたそいつは、どうやら年下という設定らしく、少年っぽい口調の台詞が目についた。当たり前だがこのキャラクターはツッコミなぞできない。当然、ボケのセンスを磨くことはできないだろう。俺はスマホのゲームについて考えることをやめた。
千葉県の北西部に位置する上松戸という衛星都市に俺たちの部屋はある。地下鉄の終点から私鉄に乗り換えて十数分ほどの場所にある、栄えてもひなびてもいない特に取りたてた特徴のない街だった。上松戸の劇場と武蔵船橋のライブハウス、そして今日ネタをやった高井戸台の小劇場の出演が、俺たち「トラコナイト」の主な仕事だった。それだって上松戸の劇場以外はレギュラーではない。月に一度呼ばれればいい方だ。当然、俺も清水もバイトを兼業している。稼ぎは同世代の社会人と比べれば笑われるくらいに少ないし、フリーターの中でも稼いでいないほうだろうと思う。けれど家賃も水道代も電気代もガス代も二人で協力してなんとか払えているし、ここまで大した病気になっていないのが幸いしてどうにか生きている。
部屋に戻ると倒れ込むように服を脱ぐ俺と、とりあえずお湯を沸かそうと電気ケトルに向かう清水。劇場からの帰りはだいたいいつも同じような光景だった。
「ラーメン食べる?」
「いいや」
ぞんざいに畳まれている薄い布団に寝転がって、ワイシャツを脱ぎ捨てた。
ずいぶん前、一度気になって役所のホームページで生活保護の給金額を調べたら俺らの月給より多かったという笑えない冗談をお笑い仲間にしたらみんなそうだと笑った。笑えなかった。必死に人を笑かそうとして、最低賃金ぎりぎりのバイトで消耗している人間より医者から何かの証明書を貰ってそれを免罪符みたいに振り回しながらちゃっかり生活保護の申請が出来る人間の方が金がある。きっと頭がいいからだろう。おかしな世の中だと思っているがみんなそこまで考えていない。考えていないからこうなっているんだと思うとやりきれなかった。別に金が欲しくてやっているわけじゃない。でも生活が苦しくて笑いに目を向けられないのは本意ではない。当たり前だ。何が楽しくて霞を食いながら人を笑わせようとしているんだ。そんなの無理に決まっている。
満ち足りていなければ、人は心から笑うことが出来ない。大学生時代に図書館で手に取った本に書いてあったことが、未だに俺の中に残っていて、笑いの大海原に鋼の碇を下ろしている。だから俺は何がなんでもお笑いで稼ぎたくて、うまく稼げない現状にいらいらしていた。
「拓ちゃん」
ホームなのに散々滑り倒した舞台を逃げるようにして出て行った俺を、清水の淡泊な声が追いかける。
「いくらなんでも、今日はちょっと酷くなかった?」
「わかってるよ」
振り返った先にいた清水は、きっ、と俺を睨みつけるような強い視線を送る。
そこまで悪かったとは思っていない。どちらかと言えば客と一つ前のピン芸人のせいだと思っている。
「わかってない。最近酷いよ。ツッコミのタイミングが少しずつ遅くなってる」
「それお前が言えんのかよ。お前が変なタイミングでボケるからだろ」
「私は拓ちゃんの台本通りにやってるよ」
出た。
台本通りにやってる。清水の常套句だ。台本通りにやればそれでいいと思っている。だが当然ながらそんな生やさしい世界ではない。いくら説明したらわかるのか。
「台本通りって、お前そればっかりじゃねえか」
清水は口をつぐんだ。
しまった。面倒なことになった。
「ごめん」
「うん、大丈夫」
明らかに怒ってるだろ。
とツッコミを入れると本当に怒るからやらない。
その後は結局無言で、再び俺たちが会話を始めたのは次の日の夕方になってからだった。
「おう、小島、とらこちゃん、お疲れ。飲みつき合ってくれんか?」
そう言って無理矢理高井戸台の劇場から俺たちを連れだし、あれよあれよという間もなく常連だというこぢんまりとした焼鳥屋の汚い机に俺たちは座っている。
一応同じ事務所の先輩――とはいえ俺は面白いと思ったはただの一度もないのだが――である「トンガリガリガリ君」はピンで漫談をやるタイプの芸人で、俺たち以上に泣かず飛ばずで、レギュラーの劇場でももうすぐ最年長になろうとしていた。
「で、なんすかトンガリさん、また金の無心ですか?」
「なんやいきなり失礼やなお前も」
レモンサワー、ハイボール、発泡酒が順々に運ばれていく。かろうじて茶色が混ざっていると認識できるくらいの薄い炭酸をおいしそうに飲み干したトンガリさんは、上機嫌でそうツッコんだ。先週つかみかかってきた人間と同一人物とは思えないくらい柔和な雰囲気に逆に気圧された。
どん、とジョッキを置く鈍い音を俺たちがはっきりと聞いたその時、トンガリさんは続けた。
「俺、芸人やめることになったわ」
俺と清水は顔を見合わせた。
今更かよ、という呆れと嘘だろ、という驚きの混じった俺の顔が芋くさい黒縁眼鏡のレンズに映っていたので、わざとふざけた表情に作り替えた。
「何か、お仕事されるんですか?」
清水はそんな俺の葛藤などまるで知らず(そりゃ他人なのだから当たり前なのだが)、無神経に話を続けさせようとしている。
「ん、高校んときの友達に不動産屋がおってな、俺こんな顔やん? 一緒に家賃取り立てて欲しいっていいよんねん」
「それ時給いくらっすか?」
何もわかってない馬鹿な後輩を演じるのに必死である意味劇場より緊張している。
「アホかお前、時給ちゃうぞ、二十万、月給や」
その瞬間、周りの空気が急にガラスになったかと思った。全く同じタイミングで清水が固まったのが見えた。
刹那、俺たちは示し合わせたかのように平静を取り戻す。
「月二十万!」
「ギャラ何本分?」
「言わすなアホ」
「てか、トンガリさん、それ、正社員ですよね」
「お、とらこちゃん賢いな。せや、このご時世で念願の正社員やねん」
念願。
どの口でいうてんすか。
ツッコミを入れたい気持ちと、それを言ったらおしまいだという理性がぶつかり音を立てた。
「おう、どうした小島、ええ飲みっぷりやないか! おばちゃん、生中おかわり!」
発泡酒だけどね、と居酒屋の女将はからからと笑いながら、空になった俺のジョッキを下げた。
「じゃあアレですか、最近滑り倒しなのは就職先見つけたからなんすか?」
清水の顔が一瞬こわばり、足にヒールの先が突き刺さる。でも俺は気にしなかった。
どうせこいつは芸人を辞める。あと何回も顔を合わせないうちにただの中年のおっさんになるのだ。もう知ったことではない。
だが、トンガリさんが俺に見せた表情は、先ほどまでとほぼ変わらず、柔和のままだった。
「――やっぱり小島には気づかれとったんか」
思い出した。中学生だったか、人生ゲームで運命の決算マスをすれすれのルーレットですり抜け、上がりが見えてる奴の顔とおんなじなんだ。だから、妙に焦らされるのだ。
「あんなあ、これいうのお前らだけや。事務所にも秘密にしてんねんけど――俺、結婚すんねん」
「えっ」
息を吸うのが精一杯の俺の横で、清水は鋭い声をあげた。
太くて無骨な指には似合わない、繊細な細いシルバーのリングを、トンガリさんはゆっくりと薬指にはめた。
「彼女とな、もう七年になんねん。劇場っちゅうんは先輩後輩ほとんど関係あらへんから、ギャラいうたらお前らとほとんど変わらん。――小島、これがどういう意味なんかお前ようわかるやろ?」
文字通り尖った顔で睨むように見つめるトンガリさんは、けれどいつものような凄みはもう消えていた。
「嫁さん食わすために、芸人辞めるんですか?」
俺の口調に、俺が一番ビビっていた。あまりにも、あまりにも平静を保てすぎた。
いつもの俺だったら、手に持っていたジョッキでトンガリさんの脳天をがっつり殴っていたような気がする。というか絶対そうしていただろう。いい加減にしろよ、とか、芸人なめやがって、とかふざけんじゃねえよみたいな感じの言葉を吐き捨てるように並べて。
だが不思議なことに、俺の中に一切そんな感情はなく、むしろ、どこか胸がすうっとするような安堵と、その脇に目をそらしたいほど醜悪な感情がともに芽生えていて、その場で頭を掻きむしりたくなった。清水はうつむいていて表情がよく見えない。
「おう。食えんと暮らせんからな」
一瞬、場が無言になる。
「それにな、もう潮時やってん」
朗らかな笑みを浮かべたトンガリさんは、もう芸人の顔をしていなかった。
「小島、ちょっともう一軒ええか?」
清水をタクシーで見送り、俺は仕方なくトンガリさんの誘いにのることにした。清水に聞かれたくない話がしたいのは、なんとなくわかった。
高井戸台の夜はそれほど遅くはない。午後十時を過ぎてしまえば、自然と店は限られる。薄暗い駅前のバーでトンガリさんはウィスキーのロックを頼み、俺はモスコミュールを頼んだ。
「お前、俺の芸おもろいと思ったことないやろ?」
開口一番、トンガリさんはそう言った。詰問する形ではなく、柔らかな笑みを浮かべているのが逆に気味が悪かった。
俺が戸惑っていると、トンガリさんはからからと笑った。
「いや、わかってんねん。お前は俺の芸ごときで満足するような奴ちゃうし、自分の笑いもっとるやん。中身のない誉め言葉でケツ持ちしてくる奴より、なんも言わんお前の目のほうが俺は励みになったし――正直、ずっと怖かったんや」
「トンガリさん」
「小島。俺の言葉なんかと思わず、頼むから今から話すことよう聞いてくれんか?」
彼の瞳にはバーの間接照明が写っている。しかし、清水の前にいたときに見せていた柔らかい幸せそうな表情はすでになく、芸をやる前によくする張りつめた表情へと変わっていた。
「俺な、お前見てて思うねん、今ちょうど分かれ道やって」
「分かれ道」
「おう。芸人として生き残るか、あきらめてカタギの道をいくかの分かれ道や」
「なんすかそれ」
思えば、清水を除けば、芸人仲間で一番話をしているのはトンガリさんかもしれなかった。他の先輩も後輩も、別の芸人の悪口ばかりで、当然俺がいないところでは俺の悪口も言ってることがバレバレで、飲みに行くのがめんどくさくなってきて最近はほとんど行ってなかった。でも、この人は絶望的に面白くない代わりに、他の芸人の悪口をほとんど言わなかった。だからそれなりで扱われているのだと今気づいた。
「今のネタ、小島が書いてんねやろ?」
「はい」
その話は何度かしていた。確認したかったのだろう。
「正直な、とらこちゃんがついてきてへんぞ、最近のお前のネタ」
「ですよね」
「わかってんのか。わかってんなら話は早い」
真剣すぎる表情が怖くてさっきからトンガリさんを直視できなかった。
「お前にある道は二つ。小島をやめるか、芸人をやめるか、そのどっちかや」
「どういう意味っすか」
俺は煙草を吸い始めた。トンガリさんは煙草が好きではない。けれど、もういいような気がしていた。それに、一服しないともう聞いていられなかった。
「まだ俺にかっこつけんのか。ええわ言うたる。――とらこちゃんに合わせたネタを作るか、あきらめてとらこちゃんと結婚するかのどっちかやって言うてんねん」
俺と清水が事実上のそういう関係で、同棲もしているというのはこの業界ではすでに周知の事実だし、見に来る客もわかっているほど隠してはいない。けれど、面と向かって言われたのはそう多くない。だから俺は多分情けない顔をしたんだと思う。トンガリさんは、
「すまんかった」
とひとことだけ謝った。
「俺が清水を捨てるという選択肢はないんすか?」
ここ最近、一番考えていることだった。
「アホ。あるわけないやろ!」
トンガリさんは険しい顔をした。
「お前な、とらこちゃんみたいな女がこの世にごまんといるみたいな顔してるけどな、あんなええ女ぜんっぜんおらへんよ。なあ、ほんでよおそんなこと言えんな」
「でも、俺と清水が合ってないんだったら、その組み合わせを変えようって普通考えません?」
「やから、その考えがアホやいうてんの。お前の芸はとらこちゃんあってのもんや。自分の生活見直してみい。とらこちゃんなしで成り立ってるもんひとっつもないと思うで」
ああ、トンガリさんも多分そうだったんだ。俺は急にものわかりがよくなった気がした。だからこの人は、自分が大好きだった、しょうもない芸を辞めなきゃいけなかったんだ。冷や水を浴びせかけられ、現実で頬を殴られた気分になった。
「俺らって、もうその域にまで入り込んじゃってます?」
「俺にはそう見えるよ。どっちもどっちや。お互いになくてはならん感じになってもうてる。これが悪い女やったら意地でも逃げろっていうんやけど、とらこちゃんそういうんでもないしなあ」
トンガリさんの奥さんはカタギで真面目で、きちんとしているのだ、と俺は根拠もなくそう思った。俺はともかく、清水が赤の他人にそのように見られていることは少し意外だった。
「いや、あいつ意外とメンヘラっすよ」
「そういうことやないねん」
ツッコミが異常に早い。
「とらこちゃんはちゃんと考えてるよ。何も考えてへんのはお前の方や、小島。一回彼女とちゃんと話してみい。お前ら舞台と楽屋以外でろくに会話してへんやろ?」
余計なお世話だよ。
と、いつもの俺ならやはりつかみかかっていたのだろうが、先ほどと同じで何もする気になれず、フィルターのすぐ先まで燃えてしまった煙草をガラスの灰皿に押しつけた。
すでに深夜零時を回り、終電はとうに出ていた。
「最後やからって先輩風吹かさせてもろてホンマ申し訳ないわ」
トンガリさんは一万円札をひょい、と出した。俺は力士よろしく手刀を切って受け取った。アホ、と軽く頭をはたかれる。
「でもな、お前はホンマに才能あると思うねん。俺みたいに中途半端に、道の途中で諦めて欲しくない。とらこちゃんと一緒に頑張りや。できればエムワン目指して欲しいわ」
「いや、そこまで無理っすよ」
「そう思っとったらいつまでたってもこっから上がられへんよ。そんならはよ結婚していいオヤジにでもなり。お前にはそれしかないで。んじゃ、達者で暮らせよ。マリンちゃんによろしくな」
トンガリさんは酒に強い。あれだけ飲んでも顔に全く出ないし、足取りも確かで、そこですらもうすでに差が付いているように思えた。情けなかった。本当に、情けなかった。
その翌日、「トンガリガリガリ君」という名の芸人は退職し、俺たち「トラコナイト」はその穴埋めとして高井戸台の劇場のレギュラーに昇格したことを淡々と報告するメールが、「マリンちゃん」こと小田マネージャーから来た。
「あれ、トンガリさんの最後の舞台だったんだね」
「それならやる前にそうと言ってくれよ……」
ほんの少しも、全くそう思っていないはずだったのに、俺はなぜか泣きたくなって、泣いた。もう俺を支配しているのは俺ではなく「小島騎士(ナイト)」という芸人で、「トンガリガリガリ君」の死を悼んでいるというただそれだけのことなのだ。俺の意志とは多分関係ない。そう思いたかった。
背中が暖かかった。清水のくせに何気を利かせてんだ。そんなボケ面白くもなんともない。だけどその手は死ぬほど暖かくて、ただただ俺はしばらく泣いた。
「なあ、清水」
「ん」
「俺、芸人向いてるかな?」
「んー、向いてないと思う」
「そこ向いてるって言えよ普通に」
「いや、向いてないよ。拓ちゃんは芸人に向いてない」
清水の言葉がやけに優しかった。
「トンガリさんも、拓ちゃんも同じくらい芸人に向いてないと思う私。人間すぎるよ」
そうか。
あの夜、清水が考えていたことが少しわかった。
「私の方がずっと芸人向いてるって思う」
「は?」
俺は思わず清水を見た。眼鏡をはずしたせいで、腫れぼったい一重瞼が重たそうだったが視線は真剣だった。
「でも私、拓ちゃんとじゃないと漫才できない」
「それ向いてねえんだよ」
「じゃあそうかも」
「ぶれぶれじゃねえか」
そうツッコミおわらないうちに、清水は急に俺に飛びかかって押し倒した。意味が分からない。奇行癖は大学時代からあったけれど、それが年々酷くなっている気がする。
「どう、元気出た? 騎士(ナイト)さん」
ボケなのかどうかすらよくわからないが、多分元気にはなったのだろうと思う、結果として。知らんけど。
「小島くん、ちょっといいかな」
塾長に呼ばれて、質問に対応していた俺は女子高生に「ごめん」と言って事務室(実質の塾長室)に入った。
「ごめんね対応中のところ」
「いえいえ。どうされました?」
塾長がこれだけ急に呼ぶとなると大体話の内容は決まっている。嫌な予感がした。
そんな心配をよそに、塾長は塾の親会社のロゴが入った浅葱色の封筒を取り出し、俺に手渡した。
「よく考えてくれ」
中に何が入っているかは予想がついた。このバイトも気がつけば四年目。周りの大学生とはだいぶ年が離れてきたし、たまに来る社員も年下のことが増えた。現場経験は誰よりもあるし、二流とはいえそこそこ有名な大学を卒業している。
「いい加減、君も自分の年齢を考えたらどうだ、なんて言うのは俺がおっさんになったからなんだろうな」
塾長はそんなことを言って、小さくため息をついた。四十代もそろそろ半ばに近づいて、息子を自分の塾に入れたい、などと冗談が言えるような人生を送っているこの人は、そうとは思えないくらい本当に俺に優しかった。
「ご配慮ありがとうございます」
「ともかく、よく考えてくれ。やっと本社から貰ってきた切符だから」
けれど、俺はそれに二つ返事で答えられるほど有能ではなかった。
「すみません、今すぐ答えられないです」
「それはそうだと思う」
あれ、俺この話したっけ、と塾長は軽く天井を見つめた。
「俺もさ、君くらいの年齢の時、ふらふらしてたんだよ。小説書いてさ、同人誌を売るイベントなんかに出てさ、今もやってるじゃない? ああいう冴えないこと普通にやっててさ、親から借りた軽自動車で寝たりしながら全国飛び回ってたの」
そんな話は今初めて聞いた、という顔をしていたのだろう、塾長はふふっ、と小さく笑った。
「新人賞って知ってる? 君の世界で言うと事務所付きの養成所が開催するネタ見せコンペみたいなのかな、よく知らないんだけど。そういうのに応募して、最後の最後まで行くこともあったんだ」
俺はだまってうなずく。
「そうするとね、出版社から偵察みたいな、若い編集者がときたま会いに来ることがあって。そういうのって、若手がやってるんだよね、新人に毛が生えたみたいな。だからさ、ずっと書いている間にどんどん歳が離れた編集が来て。ある時、急に惨めになって何も書けなくなっちゃってね。挙句の果てに当時付き合ってた彼女に振られちゃったりしてさ」
それからいろいろあって今ここで君の前にいるんだけど、と一番聞きたかった部分を省略されて思わずツッコミかけた。危ない。
「だから小島くん見てると、どうも他人事とは思えなくてね。本当のことを言うと、俺はどっちを選んでも応援したい。ただ、いずれにせよ君はそれ相応の苦労をすることになるし、その覚悟は今、必要だと思うんだ。だから、よく考えてくれ」
その時の塾長の顔を俺はよく思い出せない。見ていなかったのかもしれない。
「トラコナイト」
「え?」
「俺たちのコンビ名」
あのとき、清水はまだ学生だった。就活用のスーツが死ぬほど似合ってなかったのを笑い飛ばしていたから。
「どういう意味?」
「意味はない。なんとなく。語感」
「なんかさ、石っぽいね。パワーストーンみたいな」
紫色の細い眼鏡がどこか胡散臭く感じる。ブラウスのボタンを外した瞬間に清水のスイッチは完全にオフになった。机に転がっていた湿気たポテコを指にはめて、下品に口でもてあそんでいる。
「はあ」
「なんかエロいな、それ」
「別にエロくしようとしてるわけじゃないって」
「はいはい」
石みたい。言われてみれば確かにそうだ。
「どんな石なんだろうな」
「何が?」
「トラコナイト」
「ああ。とりあえずヒョウ柄じゃない?」
黄色と黒のまだら模様を思い浮かべた。悪くない。
「じゃあ俺が黒でお前が黄色だな」
「なんで?」
「なんとなく」
「お前がトラコで俺はナイト」
「ふふっ、ウケる」
そうして、清水とらこと小島騎士(ナイト)は生まれた。そこから、ネタを作り、事務所の試験に合格して、養成所に入って、なんやかんやいろいろあった。
本当に、いろいろあった。
だから俺は、覚悟を決めた。清水になんて言おう。ああ見えて、意外とひねくれているから、プロポーズしてもはいそうしましょうとはならないだろう。
俺はコンビニで煙草とポテコを買った。
「なあ、清水」
バイトから帰ってきた清水は、俺の表情にきょとんとした顔をする。
「なあに?」
そういえば、こいつは俺と会話するときは必ず俺の目線に合わせようとしているな、と座り込んだ清水をみてふと思った。
「俺たちさ、結構長いことコンビ組んでるよな」
「そうだね」
「で、なんか一緒に暮らしちゃってるじゃん」
「うん」
「でも暮らしは全然よくならないし、毎日かっつかつじゃん」
「そうだね」
「このままじゃダメになると思ってさ」
「うん」
「だから」
「うん」
「もう、やめよう」
「……は?」
無表情で聞いていた清水の目つきが急に鋭くなった。やばい、俺が考えていた展開と違うような気がする。
そして清水は大きくため息をついて、一歩近づいたと思ったら。
目から星が出た。
「いっ!」
「ねえ、拓ちゃん。ひとつ教えて」
真っ赤に腫れた左手で俺の顎を掴む清水。
「これで私がさ、『わかった、後は勝手にやって。さよなら』って言ったらどうするつもりだったの?」
腫れぼったい目は充血して涙でゆがんでいる。
「私がそんなこと言うはずないって思ってたでしょ。ほんとさ、甘ったれだね。いつもそうなんだよ。私がこう考えるだろって考えてて、それで先回りしてわかったみたいな口きいてさ、俺が考えた通りだって顔して! そうやって人のこと馬鹿にして! 今もそうじゃん! 甘ったれんな! 馬鹿にすんじゃねえよ!」
奥歯が砕けそうなくらい顎が揺すられる。清水がここまで感情を露わにしたことはなかった。この五年間、ずっと。
「ごめん」
「謝んじゃねえよ!」
顔を投げ飛ばされ、俺は畳に投げ出された。黄色に焼けたイ草がちくちくと頬に刺さった。
「はあ、もう最悪」
倒れた俺の背中を思いっきり踏んづけて、清水は乱暴にそう言った。
「決めた。私もうあんたの言いなりやめる」
何か言葉を期待してそうな顔をしたので俺は黙った。
「何か言え!」
ぐえっ、と蛙みたいな鳴き声を吐いたら、それが妙にウケたらしく、清水はけらけらと笑った。
「ねえ、結婚して」
心臓がびくり、と跳ねた。
それ俺のセリフだぞ。
とツッコミをいれたかったが、できるはずもない。
「お前が芸人やめないなら、考えといてやるよ」
「考えといてやるよ? なんだそのナメた口は! センスのいいとらこ様に夫に選んでいただいて光栄です、笑いも生活もセンス全くないですがよろしくお願いします、だろうが!」
かかとでぐりぐりと背骨をえぐられた。ちょっと気持ちよかった。
「あ、そうだ」
思い出した。何をしようとしたのか、俺は思い出した。
コンビニの袋からポテコを取り出す。
「あ、ポテコじゃん。なつかし」
清水は怒りが収まったのか、いつも通りのふわふわした声を出した。
「ちょっとお前、左手出してみろ」
おもむろに差し出された白くてぷにぷにした左手の薬指に、俺はそっと震える手でポテコをはめた。
「結婚してくれ」
「馬鹿じゃないの?」
清水は笑いをこらえようとしたが無理だったようで、最終的には身体をのけぞらせて笑った。
「捨ててもついてくるから、覚悟しててね」
布団の中のような甘い声で囁かれたから内心すごく怖かった。でもそれ以上に、俺は嬉しかった。やっぱりこいつとでなければ、お笑いも生活も、何もできないようになってしまったのだ。センスはあると思うけれど。
「ねえ、指輪、トラコナイトの指輪だよね」
「そりゃそうだろ。お前が黒で俺が黄色」
「なんで? 逆でしょ」
「お互いの色を交換して常に一緒っていうほうがしっくりくるだろ」
黒と黄色が、お互いを最大限引き出せなければ、この石は輝くことがない。まだらな模様のまま、まがい物のままで終わってしまうだろう。けれど、輝くその一瞬に、ダイヤモンド以上に周りを明るく照らし、朗らかな笑いをもたらすはずだ。
ま、もちろん、作り話だけれど。
「すみません」
塾長に、劇場のチケットを二枚渡して、俺は土下座をした。残念ながらこういうことにはもう慣れている。
「やっぱりそうか。なんとなくわかってたんだけど」
塾長はさみしそうな笑みを浮かべて、チケットを受け取った。
「小島くん、君結構講師の才能あるよ。辞めちゃうなんてもったいないよ。考え直さない? 時給はもう上げられないけどさ」
ふう、と塾長はため息をつく。その様子だと本当に俺を買っていてくれていたんだろうけれど、でも、もう決まってしまったことなのだ。
「いや、社員の道蹴っといてこのままここに居座るわけにはいかないっすよ」
「それは考えすぎじゃないかなあ」
「どのみち、俺、もうすぐ大阪に引っ越すんです。笑いの本場で芸を磨いてきます」
「その彼女さんと?」
「彼女じゃないです、妻です」
そう言い切ることが出来て、なんだかすがすがしかった。
「そうか、夫婦漫才か。楽しそうだなあ」
「なんで、これ、俺らがここでやる最後の舞台なんです」
「なるほどね。授業がなかったら見に行くよ。奥さんと」
しかしチケットならもっといい紙使えばいいのになあ、とぼやく塾長をしり目に、俺は最後の授業へと教室へ向かった。
「で二人はここでキスをして終了」
「なんだそりゃ、意味わかんないし」
「ん~」
「ちょっとまだ舞台の上なんで勘弁してくださいね~」
「なんとも業の深いカップルですわ」
「それお前じゃねえか! もうええわ!」
「どうも、ありがとうございました!」
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