第56話 交差する世界のノイエ・ヴェルト(その5)
『か……勝った……?』
『嘘じゃ、ないよな……?』
『ああ、どこにも……奴はいない……』
『勝ったんだ……! 俺たちは、奴を……倒したんだ!』
口々に呟きが漏れる。誰もが信じられなかった。
だが、お互いが口にしあったことで現実を現実として捉えられるようになり、一人が喜びを示したことをきっかけにその歓喜がまたたく間に全体へ伝播していった。
『やったぞ! 俺たちはやったんだ!』
『すごい……まさか、生き残れたなんて……!』
生き残れたことに涙し、十三年前には歯が立たなかった敵を相手に守りきったという途方もない感情に突き動かされ、喜びを誰もが爆発させた。ノイエ・ヴェルト同士が抱き合い、ボロボロになった腕をぶつけ合う。伝わってくる衝撃が、途方もなく心地よかった。
「……ふぅ」
そんな部下たちの歓声を聞きながらクライヴはシートに体を預け、ヴァッケル・グラーデが消えた場所を見つめ続ける。だが響くのは部下の声だけで、かの獣の咆哮はもう轟かない。
眼を、閉じる。
十三年。長い時間だ。その間、クライヴはずっとその時間に囚われ続けていた。
まぶたを閉じれば当時の絶望がまざまざと思い浮かび、悲鳴と絶叫、敵の咆哮が耳の奥底にこびりついたまま離れなかった。いくつの夜をその声で目覚め、いくつの朝を絶望と共に迎えたか。しかし今、眼を閉じても開いても白き獣の声は聞こえてこなかった。
彼の口角が緩やかに弧を描いた。そこに通信を告げる電子音が響いた。
『クライヴ……無事かの?』
「エレクシア様。はい――生きています」
クライヴの噛みしめるような返事に、スピーカーの奥でエレクシアが微笑んだのが分かった。
『そうか。なれば良かった』
「ええ。ですが……被害も決して少ないとは言えません」
多くが生き残った。しかし一方で命を絶たれた者もいる。
仲間が死ぬのはいつでも慣れない。敵に飲み込まれた仲間の事を想い、クライヴは胸を掴まれるような感覚を抱き、それでもその感情を今だけは飲み込む。
『そう、じゃな……』エレクシアも言葉に詰まった。『慰めにはならんかもしれぬが、せめて民に彼らの名を覚えてもらえるよう国葬として功績を労おうかの』
「ありがとうございます。
……彼らは派手な催しが好きでしたので、きっと喜んでくれるかと」
『だと良いが……
じゃが、それはそれとして――』
「ええ――今はこの歴史的な時をしっかり噛み締めましょう」
おそらくはアルヴヘイムの史上で初めてヴァッケル・グラーデを撃退した瞬間である。これまで一方的にやられるだけであった存在に一矢を報いた。それは確かに人々にとって自信となる。
「もっとも……撃退したのがニヴィールの人間と兵器というのが締まらないところですが」
『なに、そのような事は些事よ。のう、クライヴ? 誰が、というのは重要ではない。大事なのは――今、こうしてワタクシたちがこの地に立っているという事実だけよ』
「そう……ですね。かの敵を打ち倒した事実。今の我々に最も必要なものかもしれませんね」
『うむ。
強大な敵に怯えるだけの時代は終わりじゃ。無論、せねばならぬ事は多いが、それとて時流に乗り損ねこそしなければ自然と片付くじゃろうの。
これで――』
「……エレクシア様?」
突如押し黙ったエレクシアにクライヴが呼びかけた。
そこに返ってきたのは鼻をすする音。かつての想い人を失った過去を知るクライヴは、彼女の心情を慮り、黙して落ち着きを取り戻すのを待った。
『……いや、すまんかったの』
まだ少し鼻声ながらも、エレクシアが謝罪を口にし、クライヴも「いえ」と短く応じた。
『あー、なんの話じゃったかの……? そうそう、敵を倒したことそれこそが真に重要という話じゃったな』
「はい。とはいえ、伊澄たちが加勢してくれたこともまた事実。礼は尽くさねばならないでしょう」
『じゃな。本来は、彼らに戦いに参加する責務など無いどころか、見捨てられてもおかしくなかったからのう。最低限、あの機体の修理金程度は補償するとして――』
「個人への謝礼も必要でしょう。フェルミ殿は金銭と、エレクシア様から直々にお礼をお伝えすればよいでしょうが……」
『伊澄には、のう……どれだけ礼を尽くしても感謝しきれんしの』
「金銭にはあまり執着を見せないタイプですから難しいところです」
『ワタクシの体の一つでも差し出せば満足してくれるかの?』
声だけしか聞こえないがクライヴには、彼女が人の悪い笑みを浮かべているのが容易に想像できた。その受け答えから、彼女が完全に落ち着きを取り戻している事を知り、安心した笑いが溢れた。
「ふふ……それは止めておいた方が宜しいかと。伊澄の性格を鑑みれば、冗談でもそういう言動は逆に嫌われる元かと思いますので。
せっかく修復した仲をまたこじらせたいですか?」
『やれやれ、あれだけ気を揉んだ問題が片付いたというのにそれは困るの。なれば別の謝礼を考えるとしよう』
「それが良いでしょう。それに――」
『うむ、そうじゃ。伊澄には彼女がおるし、彼女にも心よりの礼をせねばいかぬな――』
動力源を失ったエーテリアは、巨木の幹を背にして静かに佇んでいた。明るい月夜に照らされ、その役目を終えたように静かにその身を休めていたが、不意に機体の中心部がガタガタと揺れた。
モーターが回転する小さな音が夜空に響き、ハッチ部分が上から下へ動こうとする。だがどこか熱で焼き付いてしまったのか、小刻みに揺れるだけで一向に下がっていかない。
僅かに空いた隙間。そこにニュッと手のひらが伸びる。縁に手を掛けて「よっ」と押し下げると一気に下に下り、そこから伊澄の顔が覗いた。
コクピット内に溜まっていた熱が逃げていき、サウナ状態がまたたく間に解消される。ずっしりとした重さの残る体に力を入れて外に出ていけば、涼しさが体の熱を冷ましていき、その心地よさに伊澄は眼を閉じた。
「……ユカリもおいでよ。すごく気持ちいいよ」
そう言って微笑みながら振り返る。そしてコクピットの中に手を差し伸べ、その手のひらをもう一方の手がしっかりと掴んだ。
「――ぃよっと」
「足元に気をつけて。ユカリなら大丈夫だろうけど」
伊澄に手を引かれてユカリもまた外へ出た。汗ばんだ額を風が撫で、伊澄と同じ様に眼を閉じて風の流れを受け止める。両腕を左右に広げ、頭の中ではなく全身で今いる世界の息吹を感じ取った。
「今度こそ終わった……ってことで良いんだよな?」
「うん……終わったよ」
ユカリに向かってうなずき、空を見上げると伊澄は空を指さした。ユカリも伊澄の隣で仰ぎ見る。するとその頬が緩み、「うわぁ……」と年相応の感嘆が上がった。
「すげぇ……」
そこに見慣れた夜空は無かった。アルヴヘイムを覆っている薄いベールは雨雲ごと薙ぎ払われて、ぽっかり空いたそのスペースからは星空が広がっていた。
きらめく星たち。ユカリは初めてみる美しい夜空に魅入られ、伊澄もまた、もう見ることはないだろうと思われたその姿を感慨深く見つめた。
「なぁ……アタシらの世界でもこんなに星が広がってんのか?」
「うん。……もうずいぶん昔の話になっちゃったけどね」
「マジかよ。くっそ、羨ましいなぁ……大人の奴らはクソッタレばっかだと思ってたけどよ、こんな世界知ってんのならますます腹立ってしょうがねぇ」
「いつか分からないけど、きっとニヴィールでもまたきっと見られるようになるよ」
「そうかぁ?」
「そうだよ。もし、そうならなかったら……ううん、どっちにしても僕はノイエ・ヴェルトと一緒に宇宙に行く。宇宙に行って、もっと綺麗な星空を見るんだ」
「それが……伊澄さんの夢、か?」
「夢、というよりは目標かな? それが可能なノイエ・ヴェルトなんて夢のまた夢だと思ってたけど――」伊澄はエーテリアを見下ろした。「――コイツならきっと、そう遠くない未来に僕を連れて行ってくれそうな気がするしね」
「そっか……うん、伊澄さんならきっとできると思うぜ」
「ありがとう。その時は宇宙でユカリが作ってくれたケーキで一緒にお祝いしなきゃね」
伊澄はいたずらっぽく笑ってユカリにウインクしてみせた。ユカリは少し眼を丸くして伊澄を見上げ、楽しそうに笑った。
「んじゃアタシも頑張らねーとな。サイッコーに美味ぇケーキをお見舞いしてやるよ」
ユカリはそう伝えてはにかみながら伊澄の背中を強く叩くと、視線をまた星空に移した。
「――あ」
夜空が再び紫のベールに包まれていく。星空が薄れていき、輝きが失われる。代わってオーロラが揺らめき始めるが、二人にとってその美しさは星々のきらめきには遠く及ばなかった。
けれどもその瞳に輝きはしっかりと残っている。またいつか、この眼でもう一度。
今度は、二人が過ごすもう一つの世界で。
「――帰ろっか」
「だな――」
伊澄はユカリの肩を抱き寄せ、ユカリもまた安心するかのように彼の肩に寄りかかる。
そのまま二人は、迎えが来るまでの間、夜空を見上げ続けていたのだった。
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