第9話 ここに立つ意味(その3)




 片岡からは定時で帰るよう指示された伊澄だったが、結局その日も残業となってしまった。

 やりかけの仕事を他の課員に引き継いだり、或いは切りの良いところまで自分で進めていたりとあれこれしてる内にすっかりと夜になっていた。最後にはしびれを切らした片岡に怒鳴られて半ば追い出されるように会社を後にし、しかし週末でもないのに伊澄はまっすぐに帰る気になれずにいた。

 珍しく外食をしてみたり、久しぶりにいつものゲームセンターに寄ってみたりもした。しかし一人での外食は居心地が悪くて長居もできず、ノイエ・ヴェルトのゲームをしてみても前みたいに熱中できなかった。

 そうしてたどり着いたのは、大通りから離れた誰もいない公園だ。五分も歩けばクラクションが鳴り響き、華やかなネオンや人々の賑わいで景色も雰囲気も明るい街だというのに、まるで少し離れただけでここは忘れ去られた世界の様に静かだった。

 カシュ、と手にした缶ビールが音を立てる。その音は夜の帳の中を進んでいき、やがて伊澄を置いてどこかへ消えた。

 公園の、もう何年もメンテナンスされていない古びたブランコに座るとギィと悲鳴を上げた。ビールを一口飲み、ただぼぅっと植え込みの奥にある民家の灯りを見つめる。その姿は帰るべき家を失ったサラリーマンのようであった。


「……」


 そして実際に伊澄はそのような心境だった。天職だと思ったバルダーを離れ、新生重工にも当分出社できない。ノイエ・ヴェルトに触れることもできないのだ。

 あれほど冷めたと思っていたノイエ・ヴェルト熱だが、いつでも眼にすることができる場所からいざ本当に離れるとなると途端に寂しさが募る。

 もちろん町中でも建設現場などでノイエ・ヴェルトを眼にすることはできる。だがそれらは如何にも時代に取り残されてしまった感じが強く、常に世の最先端の機体を眼にしてきた伊澄にとって慰めにもならない。


「……はぁ」


 一気にビールを飲み干してみるも、出てくるのはため息ばかり。いつも忙しく、休みの日を渇望していた伊澄だが、こうして突然休みを与えられると何もやる気が起きなかった。明日からどうやって過ごそうか、何を楽しみに生きていこうかと考えながら公園でいつまでもぼんやりとしていると、気づいた時には伊澄の足元に空き缶が幾つも転がっていた。


「……帰ろ」


 腕時計を見ると時刻はもうすぐ十時になろうとしていた。このままここに居ても仕方がない。今日の事はショックではあったが、酒を飲んで寝ればきっと明日には気も持ち直しているに違いない。そう信じて、やっと伊澄は立ち上がりうつむいたまま公園を出ていった。


「ん? あれ、アンタ……」


 そうした矢先にそんな声が聞こえた。声に釣られて顔を上げる。

 と、伊澄は思わず「あ……」と声を上げた。


「久しぶりじゃん。元気にしてた?」


 たった数日聞いただけなのに、妙に耳に馴染む声。

 少し前にシルヴェリア王国から共に脱出した少女。

 明星・ユカリがそこに立っていた。






 結局伊澄はそのまま再び公園へと舞い戻った。同じ様にブランコに腰掛け、しかし今度は隣にユカリが座っている。彼女はショートパンツとパーカーというラフな出で立ちで、足元にはリュックサックが転がっている。


「もぐもぐ……どうした? 食わねぇの? 自慢じゃねぇけど結構美味いんだぜ?」


 そしてユカリは持参した洋菓子を次々と頬張っていた。頬をぷっくりと膨らませている様は、さながらリスだ。普段は鋭い目つきで、不良のような雰囲気をまとう彼女だが菓子を食べているその様子は如何にも幸せそうで幼くさえ見える。彼女からもらったケーキを手に持ったままその様子を眺めていると、伊澄もつい顔がほころんでくる。


「ほら、食えよ? あ、ひょっとしてケーキ嫌いだったか?」

「ああ、ごめん。食べるよ。大丈夫、ケーキは嫌いじゃないから」


 そう伝えるとユカリは「そうか?」と言いながらまた自分の手元のケーキに集中し始めた。どうやら相当に彼女は洋菓子の類が好きらしい。意外な一面を見ちゃったな、と伊澄は彼女に気づかれないよう小さく笑った。

 そうして手元の自分のケーキを睨みつける。伊澄としても別にケーキは嫌いではないが、今お供として飲んでいるのは苦いビールである。同じ麦から作られているから合わないこともないのかもしれないが、常識が邪魔して甘いケーキに中々手を付けられずにいた。

 それでもこのまま突き返すのも悪い。よくよく考えれば、自分だって米と味噌汁と牛乳を同時に楽しめる悪食である。であればビールとケーキという組合せだって問題ないだろう。そう結論づけて一口かぶりついた。


「あ……うま」

「だろ?」


 思わず伊澄が率直な感想を漏らすと、隣のユカリが嬉しそうに笑った。

 その後も伊澄はどんどん口に放り込んでいく。口の中が甘くなる。しかしベッタリとした甘さではない。嫌いじゃない。むしろ大好きな味だ。

 またたく間にケーキ一個を食べきり、最後にビールでわずかに残った口の甘さを洗い流す。ぷはぁ、と豪快に息を吐き出した伊澄の顔は満ち足りていた。さっきまでの鬱屈した気持ちも、一時的かも知れないがどこかへ飛んでいってしまっていた。


「美味しかったよ。ありがとう」

「そりゃ顔見りゃ分かるって。でもシケた顔してたアンタがそこまで元気になんなら、アタシの腕も案外捨てたもんじゃねーな」

「そりゃもう。大満足――って、ユカリの……腕?」

「アタシが作ったんだよ、それ」彼女はニタっと笑った。「バイトしてんだ。表通りにある『レディストリニア』って店でな」


 眼を見張り、ユカリの膝上にあるすでに空になった箱を見つめた。箱の横には流麗な字体で確かに「レディストリニア」と書かれている。伊澄はユカリの顔をマジマジと眺めた。


「……意外だったよ。普段のユカリ見てるとお菓子作りが好きだとはとても思いつかなかったな」

「まーな。アタシだってガラじゃねぇって分かってっけど、昔から菓子は食べるのも作るのも好きなんだよ。

 『レディストリニア』は小せぇ店だし、さほど有名でもねぇけど子供ん時から馴染みだったからさ、バイトするならここが良いなって思っててさ。ま、こんなガラだから接客にゃ出れねぇけど、今じゃほとんどの菓子をアタシと店長てんちょで作ってんだぜ?」

「すごいじゃん。プロの人が作ってるのと変わらなかったよ。いや、もうプロって言っても良いのかな?」

「褒め過ぎだって。アタシはテンチョのレシピ通りに作ってるだけだし」


 そう言いながらもまんざらではなさそうで、ユカリは恥ずかしそうに笑った。シルヴェリア王国の時のどこかトゲトゲした様子は微塵もなく、等身大の少女がそこにいた。それを見て、本当にお菓子が好きなんだな、と思った。


「でも高校生のうちからバイトなんて、偉いね。僕の時はそんなこと全然考えなかったよ」

「アタシは伊澄さんみたいに頭よくねぇからな。勉強もたいして好きじゃねぇし。

 高校卒業したら……家も出たいし、専門学校にも行きたいからさ。だから今のウチから金貯めてんだ」

「すごいね。よく頑張ってると思うよ。

 それじゃあ将来はパティシエになるんだ?」

「ん……まあ、そうしたいと思っちゃいるけど……」ユカリはうつむいて頬を掻いた。「アタシみたいなのが菓子職人だなんて、おかしくねぇかな?」

「どうして? ユカリがしたい事なら別にいいんじゃない? 僕は応援するけど」

「ホントにそう思ってる?」

「ホントに。逆に応援しない理由があれば教えてほしいんだけど?」


 ポツリと漏らしたユカリの不安に、伊澄は首を傾げながら答えていく。すると彼女のやや不安そうだった表情が明るくなっていった。


「だよな。うん、アタシがやりたいことだもんな。ありがと、伊澄さん。正直迷ってたけど、決心がついたぜ」

「そうそう。本気でやりたいことがあるなら迷わずやった方がいいよ。後悔しないためにもね」


 胸に覚えた疼痛を無視して伊澄がもう一度後押しすると、ユカリは嬉しそうに笑う。そうして伊澄の足元に置いてあったビニル袋から伊澄のビールを勝手に取り出すと、カシュッと音を立てて開けた。ポケットからはタバコの箱を取り出し、火を点けると美味しそうに紫煙を吐き出していく。


「こら、未成年」

「固いこと言うなって。どうせ伊澄さんしかいねぇんだし。決意を固めた祝いだと思って見逃してくれよ。それに、本気で菓子職人になるんならもうタバコも辞めねぇといけねぇしな」


 悪びれずヌケヌケとのたまう彼女に伊澄は頭を掻いた。そしてため息をついて自分もすっかり温くなっているビールの蓋を開けた。


「はぁ……今日だけだよ?」

「話がわかるってのはいい男の証拠だぜ、伊澄さん」

「褒めたって何も出ないっての」


 缶をぶつけ合う二人。伊澄もタバコを一本もらい吸い込むと、アルコールも手伝ってか少しふわりとした感覚がやってきた。横目でユカリに視線を向けると、つい口元が緩み目を細めてしまう。


「なんだよ?」

「いや、やりたいことがハッキリしてるっていいなぁって。ちょっと羨ましくてさ。

 今の僕には……したいことがよく分かんなくなってるから、ユカリがちょっとまぶしいよ」

「……ああ、さっき聞いた話かよ」


 ケーキを食べながら聞いた伊澄の身の上話を思い出し、ユカリは我が事のように憤慨してみせた。


「伊澄さんは悪くねーよ。ったく、ひでー話だよな。伊澄さんだって必死に海賊たちと戦ったってのにさ。むしろ表彰されたっておかしくねーだろ。なのになんで罰受けなきゃならねぇんだよ」

「まあウチの会社は事情が特殊だからね」伊澄は苦笑し、視線を落とした。「それに、ノイエ・ヴェルトに乗る時点で罰を受けるのは覚悟してたから。僕は免許も持ってないし、むしろすぐにクビにならなかった時点で寛大だとは思ってるよ」

「なら……なんでそんな落ち込んでんだよ?」

「そんなに落ち込んで見えるかなぁ? これでも顔には出ないタイプのつもりなんだけど」

「ならその勘違いはさっさと正しちまうのをオススメするぜ。公園の前で会った時ゃ、このまま死んじまうんじゃねーかってくらいだったからな」

「そっか……そうだったかもしれないね」


 生ぬるいビールを一気に飲み干す。空のアルミ缶をグシャッと握りつぶすと、ビニル袋に放り込む。そうして太ももに肘をつき、どこともなく視線をさまよわせた。


「もう分からないんだ、僕は」

「……したいことが、か?」

「何をすべきだったのかなって」タバコを一度吸い込み、吐き出す。「罰を受けるのは構わないって思ってた。だけど、僕は僕なりに考えて、覚悟を決めて『正しい』って思ったことをした。法的には間違ってても、誰かを助ける行為それ自体は認めてもらえると期待してたんだ。

 けれどそれすら否定されて、お前の考えは間違いだと言われて……んじゃどうすれば良かったんだろうって」

「……」

「もちろんそれは会社の利益的な面から見た話で、人道的には立派なことをしたって言ってくれはしたんだけどね。自分が正しいと思っても、違う見方もあるって。当たり前の話なんだけど、それを改めて気付かされてさ。

 それじゃ何をどうすれば良かったんだろうとかって考え始めると、ずっと頭の中で色んな考えがグルグルし始めちゃったんだ」


 伊澄は空を見上げた。ここでも紫色のオーロラが揺らめいている。


「辞めたバルダーでもそう。あそこは戦いを生業にしていて、人を殺したり殺されたりするのが当たり前なんだ。それがあそこでは常識で、アルヴヘイムだってそれが『正しい』んだ。人の死っていうのがずっと身近で、でもそれが受け入れられなくて――ううん、違うな、受け入れることが間違っているような気がして……逃げ出したんだ。

 でもそれが本当に『正しかった』のか分からない。あの時バルダーに残るべきだったのか、それとも今みたいに縁を切るのが良かったのか、もう一ヶ月以上経ってるのに未だに分からないんだ」


 オーロラの向こうに広がる星空を幻視する。いつかこの空の向こうに言ってみたいと思っていた。大好きなノイエ・ヴェルトに乗って、星空の中に飛び込んでみたかった。そのために新生重工に入社し、そしてバルダーであれば、或いはシルヴェリア王国であればそれも叶う可能性もあったのに、そのどれも手放してしまった。自分で決めたはずなのに、優柔不断な自分はまだそのことを悩んでいる。

 ため息が漏れる。タバコはすでに根本まで燃えてしまっていて、靴底で踏み消すと袋の中に捨てる。そこまでして伊澄はようやくユカリに愚痴ってしまっていることに気づいた。


「……高校生の女の子に話すようなものじゃなかったね。ごめん、忘れてくれて――」

「アタシはバカだから伊澄さんの話、ちゃんと理解できてんのか分かんね―けどさ」


 頭を掻きながら伊澄は隣のユカリに詫たのだが、彼女も伊澄と同じ様に正面を向いていた。

 ただ一つ、伊澄と違うのはその瞳に迷いはなくて、どこか一点をハッキリ見つめているということ。

 そして彼女は言った。


「別に『正しい』ってことに拘る必要はないんじゃねぇかな?」




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