第3話 仄暗い水の底で(その3)
伊澄たちが貨物船に乗り込んで一週間が経とうとしていた。
ソフィアの手際の良さもあって試験は順調そのもの。予定していた試験工程も、途中で多少のトラブルこそあったもののほぼ全てを消化し終え、残すは実際に機体を海中に長時間沈めての各種チェックを残すのみとなっていた。
目的地のタイまで後二日。無事に明日の最終チェックを乗り切ればまる一日予定が空く計算だ。到着後も納品先で試験を継続することも想定していたが、これならば出張を予定より早く切り上げて帰国できそうだ、と伊澄はホッと胸を撫で下ろしていた。
「さて、と……そろそろ寝るかな」
試験レポートを仕上げて日本にいる課長宛てにメールで送付し、モバイルPCを閉じる。部屋の灯りを消し、シトっとしたベッドに横になってカビ臭い毛布を被る。枕の下から響くディーゼルエンジンの低い駆動音にもすっかり慣れ、目を閉じると心地よい眠気が包み込んできた。
程なく伊澄からは寝息が聞こえ始め、しかし船は休むことを知らずゆっくりと進み続ける。時計の針は一定のリズムを刻み、静寂の中に沈む。
そうして時は船と共に進んでいたのだが、夜中に伊澄はふと眼を覚ました。
「ん……まだ二時か」
試験が順調に進んでいるためかあまり頭を悩ませることもなく、肉体的な疲労もない。最近は寝付きも良かったから体が休息を必要としていないのかもしれない。
夜風でも浴びてくるか、と伊澄はベッドから起き上がった。そして立ち上がろうとしたその時、何かが視界の端を横切った。
小さな碧色をしたそれ。ホタルの様に淡い光を放ちながら一度伊澄の周囲を旋回したかと思えば眼の前で揺らめき、ゆっくりと落ちていく。伊澄がその下にそっと手を差し出すとその何かが止まり光が消える。その姿を見て伊澄は眼を見開いた。
緑の髪。木のような手足の小さな生き物。それは妖精だった。シルヴェリア王国でスフィーリアに搭乗してF-LINKシステムに接続した時に、手助けしてもらった子だ。その子が伊澄の手のひらの上で疲れた顔をしてペタンと腰を下ろし、クリっとした眼を向けていた。
「どうしてここに……?」
ここはニヴィールであってアルヴヘイムではない。だから妖精がいるはずはないのにどうして。
戸惑う伊澄に対し妖精はニヘラと笑いかけた。だがその笑顔には力がなく、伊澄に対して外を指差すような仕草を見せると手のひらの上にパタリと倒れてしまった。
「お、おい。大丈夫――」
声を掛ける間もなく妖精が再び光に包まれる。そのまま細かな粒子になると伊澄の周りに風が巻き起こりどこかへと消えていってしまった。
一瞬の出来事。最後まで呆気に取られていたがハッと我に返ると妖精の仕草のことを思い出す。
彼女はどこかを指差していた。だが何を伝えようとしていたのだろうか。
ともかくも外へ出てみよう。ズボンを履き、錆びついて重いドアを押し開けデッキへ駆け上がっていった。
デッキは、当たり前だがとても静かだった。絶え間なく潮風が吹き付けてくる。夏の東南アジアといえども夜風は涼しく心地いい。見上げると雲ひとつなく、紫がかった魔素のオーロラが揺らめいていた。
「これはこれでキレイだけど――」
やっぱり星空の方が好きだ。遠い記憶が思い出されてノスタルジックな気持ちに襲われ、遠く水平線を眺めると海と空の境はなく、まるで吸い込まれてしまいそうだ。だがそのためにここへ来たわけではない。
妖精からのメッセージ。夜中に不意に目を覚ましたこともあってそれを何かしら警告のようなもののと伊澄は受け取っていた。だからか、単なる静寂がどこか不安感を醸し出し始めていた。
伊澄はデッキの一番高いところへ登って三六〇度に広がる海を見回す。しかし何も見えず、ひたすらに黒い海が広がるだけだ。
警告ではなかった? ひょっとしてあの妖精は全く別のことを伝えようとしていて、自分は見当違いのことをしているのかもしれない。そう思うも胸騒ぎは一層強くなっていくばかりだ。
「――そうだ」
伊澄は再び走り出す。向かう先は下のデッキ。照明こそついているが暗い足元で何度か転びそうになりながらも駆け下りていった。
たどり着いたのは、この一週間の大部分を過ごした場所だ。かけられたシートをめくって中に入ると輸送中のノイエ・ヴェルトが膝をついた状態で出迎えた。
足元にあるレバーを引くと音を立ててコクピットが開いていく。迷わずそこに乗り込みシステムを立ち上げる。
狭いコクピットに明かりが灯っていく。明日――というより今日も試験の予定であったからスタンバイモードのままにしていたのですぐに立ち上げが完了した。
「レーダーには……何もないか」
真っ先にレーダーを確認するも付近には何も居ない。当然だ。近くに船舶などの大型物体があれば貨物船側でも把握していて、何らかのリアクションを起こしているはずだ。
やっぱり違うのか。そう思うも、不安は残る。そのままどうしようか逡巡。迷うように何度も手のひらを握ったり閉じたりを繰り返した。
(たくさん悩んで、そして決断する、か……)
ソフィアの言葉がよぎる。だが、万が一自分の想像が当たっているなら迷っている暇も悩んでいる暇もない。でもきっと――
(どうせ後悔するなら――)
やらないよりもやって後悔だ。伊澄は不安を無視して機体を
小型ガスタービンエンジンが回転を始める。甲高い音が静かなデッキ中に響き渡る。おそらく艦橋にいる船員たちに気づかれただろうと思うが、伊澄は気にせず機体を歩行させ、海の方へ近づいていく。そして海中にカメラを向けた。
メインモニターに映るのはやはり真っ黒な海面だ。だがこの機体は当然ながら水中戦を想定しており、特殊なセンサーカメラが備わっている。そのスイッチをオンにすると夜空を映す画像が不鮮明になった。だが変わって水面と水中の様子が画像処理されたものになり、暗かった水面がクリアなものとなった。
そこに、伊澄の予想通りのものがいた。
確認を終えると伊澄はため息を一つ。目を閉じ、やがて開くと携帯端末を取り出して電話をかけた。接続音が流れ、しばらくしてスピーカーから眠たげな声が届く。
「ソフィア」
『……伊澄か? ふわぁ……まだ夜中じゃないか。どうしたんだ、こんな時間に』
「悪い。けど、その眠気を蹴り飛ばして走ってほしいところがあるんだ。それも大至急」
『……何かあったのか?』
伊澄が訳もなくこんな夜半に連絡してくるなどないことだ。伊澄の声色と相まってただならぬ様子を感じ取ったソフィアはすぐに覚醒してその背に緊張が走った。
果たして、蒸し風呂の機体の中で伊澄は額から冷や汗を流し、同時に無理矢理に口端を吊り上げた。
「ああ。とびっきりの招かれざる客がやってきたって船長に伝えてほしい」
『招かれざる客だと?』
「そう」
伊澄の視界の端。不明瞭ながらも微かな光源が揺れるモニターを横目で見て、彼は断言した。
「海賊だ」
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