第2話 仄暗い水の底で(その2)
「では久々の再会に乾杯」
ソフィアが手を掲げ、小さく口端を横に広げた。
「別に言うほど久々ってわけでもないだろ」
向かい合う伊澄も、そう悪態をつきながら手にした缶を掲げてぶつける。カン、とどこか間の抜けた音が二人の間に響いた。
二人が再会を喜び合っているのは伊澄の居室だ。とは言っても二人が乗り込んでいるのは単なる貨物船。客船と違って部屋とは名ばかりであり、窓もなくまるで倉庫のように狭苦しい。設備も最低限のベッドと、パソコンをおけばそれだけで埋まってしまうような小さな机だけ。そんな部屋だから、机を挟んで向かい合っていてもふとした瞬間に手がぶつかってしまいそうだ。
伊澄ならまだしも女性にはなかなかに過酷な環境だとは思うのだが、もともと汚部屋での生活を満喫しているソフィアにはあまり関係ないらしい。一切頓着した様子を見せず、ぬるい缶ビールを豪快にあおっていた。
「そうつれないことを言うな。これでも慣れない外国に一人放り出された可愛そうな女性なんだぞ? 心細さを紛らわしてくれたっていいじゃないか」
「よく言うよ」
彼女がそんな
「しっかしなぁ……どんなおじさんと一週間共に過ごさなきゃならないかと思ってたらソフィアだとはね」
「うん、昼間も話したが私にとっても急な話だったんだ。山村主任が急遽入院するハメになってしまってね。突然彼の部下である私に白羽の矢が立ったというわけなのさ」
「そっか。その山村さんには悪いけど、僕もソフィアが一緒でホッとしてるというのが正直なところかな。仕事にしたって気兼ねなくできるし、お前の要領の良さはよく知ってるしさ」
「世辞でもそう言ってくれると嬉しいがこうした現地に来るのは私も初めてでね。せいぜい足を引っ張らないよう頑張るよ」
そう言ってソフィアははにかんだが、当然伊澄は世辞を言ったつもりはない。
今日も出港して早々から明日からの試験に関する諸々を確認していったが、その仕事ぶりには見事なものだったと思う。質問にはすぐに適切な答えが返ってくるし、その後の準備の手際もスムーズに進んだ。
伊澄もこうした場所に行く機会がこれまで多かったわけではないが、だいたいが予定通りにはいかないものだ。持ってきた機材の規格が現地の物と違ってしまっていたり、うまく装置が稼働しなかったり、或いは実際に手を動かしてくれる納入先の作業員がきちんと作業を理解していなかったりで、往々にして時間を想定の倍は費やしてしまうものだ。
だが彼女の準備は完璧で、作業員へのフォローも適切。予定よりも相当に早く試験準備が終わってしまった。夜遅くまで準備に費やすことも覚悟していたのだが逆にこうしてのんびりと二人で酒盛りをする時間までできた。世辞どころか、床に頭を擦り付けて感謝してもいいくらいである。
「ところで、伊澄の方は最近はどうなんだい? 一月前に一緒に飲んだ時はずいぶんと荒れていたけれど」
「ん……まあ、ぼちぼちだよ」
「そうかそうか。相変わらず悩みは尽きなさそうだね」
「ぼちぼちって言ったろ?」
「そうかい? 話したくないなら無理に聞き出そうとは思わないけど」
付き合っていた頃からそうだったが、どうやら彼女には伊澄の悩みはいつだってお見通しらしい。伊澄はふぅ、と息を吐いて缶の中身を一気飲みした。
「……どうしてそう思う?」
「なんとなく――というと以心伝心っぽくていい感じの響きだけど、そう難しい話じゃないよ。前と違ってノイエ・ヴェルトを見る伊澄の目の色が違ってたからね」
「……はぁ」
「図星かな?」
すでに二本目の缶を空にしようとしているソフィアが、薄暗い部屋の中で赤らんだ顔を向けて小さく笑った。その仕草に伊澄はドキリ、とするも何食わぬ顔で二本目の缶を開けた。
「まあ、色々あったんだよ」
「伊澄はマイペースな様で周りに振り回されやすいからね。
あれだけ好きだったノイエ・ヴェルトだ。なのにそれを見る目が変わったってことは伊澄を取り巻く環境が変わったってことだろう?」
「……ノーコメント」
眼を逸らしてビールをあおる。まさか彼女にアルヴヘイムやバルダーのことを話すわけにはいかないし、話したところで何かが変わるわけでもない。
酒に夢中なフリをする伊澄に、ソフィアは空になった缶を弄びながら憂いをまとった笑みを浮かべた。
「人は時間と共に変わるものだと思う。だから伊澄、君の変化がどうあれ私は否定はしないし、ノイエ・ヴェルトが好きであれ嫌いであれ友人であることに変わりはないよ。私が願うのは、伊澄が後悔しない毎日を過ごすことだけさ」
「後悔をしない、ね……そんなことってあるのかねぇ?」
「あるさ」
あるのならぜひそんな人生送ってみたいものだね。内心でそう伊澄は嘯いたのだが、彼女にしては珍しく語気を強めた答えが返ってきて思わず目をしばたたかせた。
「人生に後悔はつきものだと思うけれど、失敗もたくさんあるけれど、それでも後悔をしないための方法はあるよ」
「へえ……どんな?」
「悩むこと」
ソフィアは噛みしめるように言った。伊澄が逸した顔を正面に戻すと、どこか遠いところを見ているような瞳が映った。
「たくさん、たくさん悩む。いっぱい考えて、いっぱい苦しんで……それで下した決断であればたとえ失敗に終わったとしても後悔だけはしない。私はそう思ってるし、そうあろうとしてるつもりだ」
諭すでもなく、気負うでもない。その口調は、そうあるのが当然であるかのように自然だ。
伊澄は目を細めた。彼女とは一つしか歳が変わらないはずなのに、こうした時はいつも彼女がずっと自分よりも大人のように感じられる。
彼女が生まれた異国での経験がそうさせるのか、それとも優秀な頭脳がそうさせるのか知らない。ただ漫然と悩みに浸かるだけの自分とは違うのだ。きっと自分とは比べ物にならないほどに様々なものが見えているのだ。だからこうしたことを自然と口にすることができるのだろうと思う。
「うん、らしくなく説教臭いことを言ってしまったね。思いのほか疲れてしまっているみたいだから今日はもう部屋に戻るとするよ。明日からの試験、宜しくお願いするね、伊澄」
伊澄の視線を感じたか、彼女は小さくフッと笑うと二人分の空き缶を握って立ち上がった。おやすみ、と手を上げて部屋を出ていこうとする彼女。その背に問いが投げかけられる。
「ソフィア。お前も……後悔したことはあるか?」
「……もちろん。後悔のない人生なんてないからね。さっきのはこの世界で生きるための人生論さ。いつだって後悔してきた私なりの、ね。
まあ、そんな考えもあるんだくらいに思ってくれれば十分だよ。それじゃあ、おやすみ」
錆びついたドアの向こう側に彼女の姿が消える。しばらく伊澄は塗装の剥がれ落ちた扉を見つめていたが、やがてため息とともに天井を仰いだ。
「後悔しない、か……」
振り返ってみても、伊澄の人生に後悔はない。いや、正確には違う。ともすれば後悔ばかりの日々を、諦めることで目を逸らしてきた。そんな気がする。
それは、バルダーを辞めたことにも該当した。口では人の生き死にがどうこう言ってきて、それはそれで本心でもあるのだが、その根底にあるのは違う理由のように思えた。
簡単に人の生死に関わる場所。そんな場所にいると
人を殺した、殺されるのを黙って見ていた。言葉の通じない、暴力の理が支配する
だからバルダーを離れた。取り返しがつかなくなる前に。その決断をするのに自分なりに十分悩み考えたつもりだが、ノイエ・ヴェルトを見る度にバルダーのことを、テュールという機体を思い出して迷いが募るということは、まだ悩むのが足りないということか。
「……苦しいなぁ、人生って」
果たして自分は、本当はどうすべきだったのか。苦い思いがこみ上げてきて、それを残ったビールと一緒に飲み下したのだった。
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