第3部 たどり着いた場所

第1話 仄暗い水の底で(その1)





「お先でーす」

「うーい。お疲れさんでーす」


 青い作業服姿の社員がカバンを持って居室を出ていく。それに対してまばらな返事が飛び交い、カタカタとキーボードを叩く音は鳴り続けて止まない。


「お疲れ様でした」


 伊澄もまた手を動かしながら帰宅する先輩社員に声を掛けた。週末の金曜日で、時刻はすでに六時を回ろうとしている。だが伊澄が席を立つ様子はなく、彼の机の傍には栄養バーの入ったビニル袋が転がっていた。

 栄養バーを取り出すと黒い乾燥したそれをかじる。視線は正面のモニターから動かさない。口元をなでて考え込み、しばらくそうした後にまた勢いよくキーを叩き始めた。


「よ、お疲れさん、伊澄。今日も遅くまで残業か?」


 彼の傍に比較的仲の良い先輩が近寄ってきてコーヒー缶をコトリと傍らに置いた。どうやら彼はこれから帰宅するようで、カバンを肩に掛けていた。


「ええ、まあ。あ、コーヒーありがとうございます」

「なに、後輩を労うのは先輩の仕事ってやつだよ。

 んで、いいのか? ここんとこ、週末は真っ先に会社飛び出してたってのに」

「ああ……いえ、それはもう大丈夫になったので」


 伊澄の日常は、また以前に戻っていた。

 バルダーに赴くこともなく、仕事をして帰って寝るだけの生活。単調な日々は週末でも変わらない。

 変わったのは唯一つ。伊澄は、ノイエ・ヴェルトのことを以前ほど楽しめなくなっていた。

 ノイエ・ヴェルトに関連する書籍を読んでも、動画を見ても。飾ってある模型を手にとってみてもワクワクしない。毎週末に通っていたゲームセンターからも足が遠ざかっている。

 理由は分かっている。きっと、本物に触れてしまったからだ。

 今でも目を閉じても思い出せる。シルヴェリア王国やバルダーで出会ったあの流麗なデザイン。遥かに優れたシステムに武装。瞼の裏にはそれらが焼き付いていて離れないし、両手のひらと足の裏にはレバーやペダルの感触が残っている。

 それに比べてあまりにも自分たちが作っている物は劣っていた。実物だけではない。ゲームの中の機体でさえきっとあれらには届かない。以前はあんなにもキラキラして見えていた工場に並ぶ出荷待ちの機体がひどく色あせて見えて、工場に足を運ぶ機会も減っていた。


(それに……)


 機体を見ればまたバルダーのことを思い出す。もうあそこは自分には手の届かない場所だ。自分の選択とはいえノイエ・ヴェルトを見れば恋しさが募る。ならば目にするのは必要最小限でいい。

 机上で設計していれば、どうせ機体の全容など目にする機会はないのだから。


「なんだ、そうなのか。毎週嬉しそうに飛び出してってたから、てっきりノイエ・ヴェルトの新作ゲームでもしに行ってんのかと思ってたよ。それか――」先輩は伊澄の耳元で囁いた。「彼女でもできたんかとな」

「はは、まさか」


 伊澄は笑ってごまかした。だが言い得て妙と言うべきか。ある意味では恋人に会いに行っていたようなものかもしれない。


「まあ、なんと言いますか。週末にやってたイベントが終わっただけです」

「なぁんだ、そっか」

「てか先輩も知ってるでしょ? 女の子よりも僕はノイエ・ヴェルト一筋ですから」

「へーへー。お前は相変わらずだな。それで、イベント終わったから今度は仕事に邁進ってか?」

「そんな高尚な心がけじゃないですよ。ただ来週から出張ですからね」伊澄は机上に散らかる書類を横目で見た。「それまでに今の仕事をできるだけ片付けておきたくて……じゃないと帰ってきた時にまた課長にどやされてしまいますし」

「そういやそうだったな。タイに水陸型の海上輸送と現地試運転の立ち会いだったっけ? わざわざ船に乗って一緒に行くこともねぇのに。飛行機で行って現地で待ってりゃいいんじゃねぇの?」

「そうも行かないんです。出荷直前に試験トラブルがあったみたいで、輸送中にも船上で追加の海水試験をしないといけなくて……」

「納期が迫ってるとはいえ相変わらず無茶するなぁ、ウチの会社も」


 呆れる先輩社員だが、伊澄はそれには応じず苦笑いを浮かべた。


「まあ何事もないと思いますけど。

 それに共同研究先の技術者の方も寄港先で合流しますから。トラブル内容はそっちの管轄ですし、僕がするのはせいぜい性能評価と部品の追加手配くらいですよ」

「そっか。ま、なにはともあれ気をつけてけよ」


 最後に伊澄の肩を叩き、先輩社員は手を振って会社を出ていく。その後ろ姿を伊澄は愛想笑いで見送っていたが、やがて彼の姿が見えなくなると背もたれに体を預けてため息をつくと、モニターに旅程表を表示させた。


「二週間、いや一週間くらいかな……」


 横浜港を出発し、一度香港で荷を下ろしてからタイへ向かう海路だったはず。伊澄は船が寄港する香港までは航空機で向かい、そこから乗船する予定となっている。新生重工と共研先である富士光化工機の技術者とはそこで合流する手はずだ。

 ともかくも、来週から一週間はずっとノイエ・ヴェルトを見続けることになる。それを考えると少し気が重くなるようだった。

 だが考えても仕方のないこと。これも仕事だ。この程度、割り切らなければ。

 伊澄は残っていた栄養バーを一気に口に押し込むと、再びパソコンに向かいキーボードを叩き始めたのだった。




 そして十日後。




 予定通り伊澄は香港に向かい、そこで寄港していた貨物船に乗船していた。

 船長と船員たちと拙い英語でなんとか挨拶を交わし、割り当てられた船室に荷物を置くと早速作業服に着替える。息をつく暇もなくノートとモバイルPCを立ち上げると、すぐにデッキに向かった。

 今回輸送されているノイエ・ヴェルトは全部で十機。いずれもが水陸両用型のノイエ・ヴェルトで、また高温多湿の環境下でも十全に性能が発揮でき、水中での駆動性を向上させたマイナーチェンジ機だ。加えて、このバージョンからは水中での稼働時間を延長するための新たなシステムが組み込まれていて、そのシステムが富士光化工機との共同研究の成果であり、同時にトラブルの原因でもあった。

 デッキにたどり着くと簡素なシートに覆われただけのノイエ・ヴェルトが姿を現す。灰色のシートの下で船の外に広がる真っ青な海と空に似たオーシャンブルーの機体が覗いていて、伊澄は香港の太陽で滲んだ汗を拭った。


「――特に異常は無し。こっちで準備する必要な機材も一通り揃ってる、と」


 持参したチェックシートの項目をチェックし終え、蒸し暑いシートの下で機体を見上げる。耐水圧性のために太っちょな機体が、似ても似つかないのにバルダーの機体と重なる。伊澄は噴き出した汗を首にかけたタオルで拭き、ため息をついて外に出た。


「後は、富士光の人を待つだけ、と」


 タブレット端末に記載された技術者の名前を確認する。山村・功。伊澄よりも一回り年上の中堅技術者だ。どんな人だろうか、気さくな人だといいな、とコミュニケーションがあまり得意でない伊澄はそう思った。


「――よっと」


 そうして底抜けに青い空を忌々しげに睨んでいた伊澄の耳に声が届いた。視界の端には人影。遅れてドシン、と重そうな何かをデッキに下ろす音がした。伊澄はそちらを振り向く。

 そして彼の口がポカンと開いていった。

 そこに居たのは中年の男性技術者――ではなく、一人の細身の女性だ。足元にはいかにも重量感のある大きなケースが置かれ、更にもう一つの同じくらい大きいケースを軽々と肩に担いでいた。

 だが伊澄が驚いたのはそこではない。いや、十分に驚くべきところではあるがそれ以上に驚いたのは――


「やはり君だったか、伊澄。名前を見た時からそうだろうと思ってはいたんだが、なかなかどうして。こんなところで仕事を共にするとは私たちもつくづく縁があるものだな」


 ――かつての恋人であり現親友でもある白咲・ソフィアが、いたずらっぽい笑みを浮かべて立っていたからである。




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