第17話 思いはたゆたい、道に迷う(その2)




「それじゃ伊澄の除隊に、乾杯っ!!」


 しわがれた大声がバーに響き渡り、ジョッキ同士がぶつかり合う音がそこかしこで響いた。

 ドワーフやエルフ、人族など様々な人種が油で汚れた作業服姿のまま椅子に座り、高々と掲げられたジョッキの中身がまたたく間に消えていく。そして「ダン!」と勢いよく空になったジョッキが一斉にテーブルに叩きつけられ、歓声と拍手、それと楽しげな笑い声が上がっていった。

 伊澄もまた自身の顔ほどもある大きなジョッキを一気に飲み干していった。口元に白い泡ひげをつけ、それを乱暴に手の甲で拭うとやや赤らんだ顔でペコペコと、感謝の意を込めて頭を下げて回った。


「すみません、忙しいのに集まってもらって……」

「なーに! 良いってことよっ!」

「他の連中ならいざしらず、伊澄だからなっ!! 仲間の旅立ちを見送るってのは当然だ。だから礼なんていらねぇよ!」

「酒も飲めるしなっ!!」


 ガハハハ、と豪快な笑い声が響き伊澄も嬉しそうに顔をほころばせた。

 バルダー内に設置されたバーに集まったのは皆、整備など日々ノイエ・ヴェルトに携わっている部署の面々だった。

 伊澄としてはこの一ヶ月以上の間、非常に世話になったとの思いが強い。なので除隊の挨拶に向かったのだが、そこで伊澄が整備班長に除隊を告げると即座に送別会の開催が決まったのだ。

 当日で、それも実施までに一時間程度しかなかったにもかかわらずあっという間に話は広がり、こうして数十人もの人たちが集まってくれた。伊澄としては感謝しかない。


「ほら、飲め飲め! ここは俺らのおごりなんだから遠慮なんてしてんじゃねぇ!」


 バーカウンターに座っている伊澄の元に次々とボトルを持った連中がやってきて注いでいく。まるで披露宴の新郎である。ただそれと違うのは、伊澄がそれに応えるようにどんどんと酒を飲み干していくことか。

 明日のことなど考えず、頭を空っぽにしてただ酒を楽しみ、仲間と掛け合い、笑い、歌い、そして決まって最後には「元気でやれよ!」と固い握手を交わして別れていく。

 伊澄は大人数での宴席が得意ではない。だが楽しかった。こんなに楽しいお酒を飲むのは、いつぶりだろうか。自身も含めて笑いが絶えない席は始めてではないだろうか。色んな酒が注がれていくが、そのどれもが美味く、そして、苦かった。

 そうして杯を重ねることどれくらいか。ひとしきり彼らと別れを惜しみながらも笑い合い、一巡したところでようやく伊澄は解放された。

 胃の中は酒でタプタプ。集まった彼らもいい感じにアルコールが回って、それぞれのテーブルを少人数で囲みながら笑い合っているし、中にはすでに酔いつぶれてイタズラされている者もいた。

 そんな彼らの姿を眺めながら伊澄は席を離れてカウンターに移動し、もたれかかった。頭の中がふわふわしていい気分。休憩がてらグラスに残った、溶けた氷でかなり薄くなったウイスキーを傾けた。


(幸せものだな、僕は)


 自分の都合で辞めるというのに、こんなにも集まってくれて。それも長年勤めたベテランでもなく、ただこの一ヶ月程度を共に過ごしただけだというのに。彼らの情の深さに伊澄は改めて感謝を抱いた。


「なんだなんだ、グラスが空っぽじゃねぇか」


 一息ついていた伊澄の所にやってきたのは、この会を発起してくれた整備班長だった。ゴツゴツとした大きな手のせいで小さく見えるグラスを持ち、伊澄の隣にドカッと腰を下ろすとカウンターの奥に向かって大声を張り上げた。


「おい、マチルダ! ここにある一番上等できっついヤツをコイツに注いでやってくれ!! ついでに俺のもな!」

「あいよ。ちょいとお待ち」


 伊澄たちとは反対側のカウンターで酒を作っていたマチルダと呼ばれた女性バーテンダーがタバコを咥えたまま返事をした。振り返れば、荒っぽい口調から受ける印象とは違いスラリとした美人だ。見事にバーテンダーの衣装を着こなしていて、切れ長な目で棚を眺めると、手際よくグラスに氷、酒と注いでいき、コトリと伊澄たちの前に並べた。


「はい、どうぞ。リクエスト通りいっちばん美味くて強い酒だ。

 伊澄と言ったっけ? アンタのはアタシの奢りだから遠慮なく飲んどくれ」

「いいんですか?」

「いいのさ。気に入ったヤツがここを旅立つ時に一杯奢るってのがアタシの趣味なのさ」

「ありがとうございます。でも……ここに来るのは僕、初めてですよ?」

「アンタがどういう人間かは、連中を見てれば分かるさ。この頑固オヤジどもが気に入ってるんなら奢るに値するかどうかなんて火を見るより明らかだからね。ささ、飲まないならアタシが飲んじまうよ?」

「それじゃ……」


 伊澄は頭を下げてグラスを掴み、口元に運ぶ。芳醇な香りが鼻孔をくすぐってくる。グイ、と一口含めば強烈なアルコールが喉を焼き、だがそれも一瞬だけでその後には清涼感が広がって濃厚な香りが鼻に抜けていった。


「うわ……すごい。アルコールが強いのにスッと喉を通って、美味しいです」

「気に入ってくれたかい? なら良かったよ」

「コイツを飲むのが俺も楽しみでな。おい、もう一杯くれ」

「アンタにゃ奢らないよ?」

「分かってるっての。誰がテメェにタカるかってんだ」


 班長はいつの間にか一杯目を飲み干しており、マチルダが呆れながら新たに注いでいた。そして伊澄を見ると顎でしゃくってみせ、その意図に気づいて伊澄はグラスの残りを飲み干すと、また新たな一杯が注がれた。


「コイツは俺からの奢りだ」

「すみません……」

「バカ野郎。そこは『ありがとう』だろうが。ま、別に礼が欲しくて奢るわけじゃねぇがな」


 ぶっきらぼうな言い方。だが伊澄は「そうですね」と苦笑いで応じた。

 そのまま黙り込む二人。いつの間にかマチルダは居なくなり、カウンターには二人きり。班長の方は別に気にはならないようで黙って酒を楽しんでいた。


「あの……」先に口を開いたのは伊澄だった。「今日はありがとうございました。それと……すみません。色々お世話になったのに辞めちゃって」

「んあ? ああ、気にすんな。別にお前が辞めたからって大した影響はねぇよ。まあ……残念ではあるがな」

「……すみません」

「気にすんなって言ったろうが。お前が迷って考えた末に決めたんならそれでいい。外野が口出すことじゃねぇ。それに……こんな所、離れられんのならそれに越したことはねぇからな」

「そう、思いますか?」


 グラスの中の琥珀色の氷を見つめ、伊澄は尋ねた。班長も黙って強面を更にしかめっ面にしていたが、一気に残りを飲み干すと今度は自分で持ってきていた別の酒を注ぎ始めた。


「別に俺だってバルダーここは嫌いじゃねぇ。むしろかなり気に入ってらぁ。給料だってアルヴヘイムにいる頃よりゃよっぽど恵まれてるし、一緒に働く連中もバカばっかだが気にいい連中だからな。中にゃ扱いづれぇ野郎もいるが、そのくらいどうってことねぇ。何より、常に最新のノイエ・ヴェルトを弄くり回せるってのは俺にとっちゃ天国みてぇな場所だ」

「そう、ですね。僕も……そう思います」

「だがな……どう言い繕ったってここは世界のはみ出しモンが集まる場所だ。ニヴィールは愚か、アルヴヘイムでだってロクに陽の当たる場所に出れることはねぇ。

 俺だけじゃなくて、他の連中もそうだ。行き場をなくした末にたどり着いた場所がここでしかなくて、ここを出たらもうどこにも行けやしねぇだろうよ。まあ、なんだかんだ出ていく気もねぇのは確かだがな。

 けどよ――」


 一気にグラスの半分ほど飲み干すと班長は伊澄の方に向き直った。


「伊澄。お前はまだここの空気に染まっちゃいねぇ。お前がここに来た経緯はルシュカクソババァから聞いちゃいる。その話から思うのは、だ。お前は本来ならここにいるべき人間じゃねぇってことだ」

「僕は――」

「まあ、聞け。お前がまだここに未練を残してるってぇのはお前の顔見てりゃ分かる。だが、だ。お前にはニヴィールこっちでの仕事もあるし家族もいる。陽の下を歩けねぇようなことをしたわけでもねぇ。まだまっとう・・・・な人間なんだ。こんなクソみてぇな地の底でモグラみてぇな生活する必要はねぇ。お前は胸を張って、前を見て、時々御天道様を見上げながら進んできゃいいんだ」

「……」

「んな顔してんじゃねぇよ!」


 不格好に歪んだ伊澄の顔。班長はバァンと音を立てて伊澄の背を叩き、彼のグラスを空にさせると自分と同じ酒を注いだ。


「明日からお前はここのことを忘れた生活をする。だが、ここでのことは無かったことになるわけじゃねぇ。もしお前が何かしくじったら思い出せ。んでここに来りゃいい。そうすりゃ俺の部下小間使いとして雇ってやらあ。だから安心して元の生活に戻りやがれ」

「……なんですか、それ」伊澄は班長の不器用な言い草にクスリと笑った。「班長にそんな権限ないでしょう?」

「バァカ野郎。俺を誰だと思ってやがる? 俺がボイコットすりゃここの部隊はまともに動かなくなんだ。ガキ一人雇う手間と俺の機嫌損ねるの、どっちが得かぐらいタヌキババァにもすぐ分かんだろ」


 分厚い胸を叩いてニヤッと班長は笑った。途端に強面が愛嬌のあるものに見えて、伊澄もまたクツクツと喉を鳴らした。

 もう、きっとここに戻れることはないだろう。この一ヶ月の生活が異常だったのだ。だから班長と酒を交わすのもこれが最後。それはたぶん、班長も分かっている。

 それでも、まだここに戻ってきてもよいと言ってくれる。その言葉が伊澄にはたまらなく嬉しかった。


「ありがとうございます、班長。でもガキってのは辞めてくださいよ。もうそんな歳じゃないんですから」

「ナマ言ってんじゃねぇ。俺から見たら誰だってケツの青いガキにしか見えねぇよ。

 ……ちなみに、お前幾つなんだよ?」

「僕ですか? ――二十二ですけど」

「え?」


 伊澄が年齢を口にした瞬間バーにいた全員が振り返り、その場が痛いくらいに静まり返ったのだった。


「……なんで?」


 伊澄が首を傾げるも、誰一人として聞かなかった事にして自身の勘違いを酒でごまかしたのだった。



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