第16話 思いはたゆたい、道に迷う(その1)
「辞める?」
革張りの椅子をギシリ、と鳴らし、メガネを掛け直しながらルシュカは振り返る。そこには、眉間に深いシワを寄せた伊澄が立っていた。
「はい……申し訳ないですが……」
「伊澄は……本当にそれでいいのか?」
偶然ルシュカの部屋に居合わせたマリアが尋ねると眉間のシワが深くなる。それが彼の煩悶を表していた。だが、それでも伊澄は一度眼をつむって深々と息を吐き出すと改めて大きくうなずいた。
「……はい。もう決めましたから……」
「大好きなノイエ・ヴェルトに乗ることもできなくなるんだぞ? 好き勝手に弄くり回すことだってできなくなる」
「分かってます。でも……」迷いを示すように伊澄の声が途切れるも、やはり彼の返事は変わらない。「決めましたから……」
「理由はやっぱりこの間の任務かなぁ?」
ルシュカの質問に伊澄は小さく「はい」と答えた。
「大好きなノイエ・ヴェルトとはいえ、実際に殺し合いをするのが怖くなったのかい?」
「そういうわけじゃ――いえ、やっぱりそうかもしれません」
「この間みたいな戦闘はそうそうあるもんじゃないし、伊澄くんの腕前なら滅多なことで墜ちることもないと思うけどね」
「……正直、自分が死ぬことはあまり怖くないんです」
「なら何故?」
「なんででしょう……上手く言葉にできないんですけど」
伊澄は困ったように眉尻を下げながらも言葉を探し、絞り出した。
「なんだか、このままここにいちゃダメっていうか、許せないというか……人が死ぬのが当たり前で、それは戦場に出る以上はごく当たり前の話ではあってそれをダメだって否定する権利もつもりもないんですけど、やっぱり認められないっていうか……すみません、よく分からないですよね」
「言わんとすることは分かるさ。でもって言わせてもらうなら、ここはそういう場所だよね? それを伊澄くんも承知の上で入ったんじゃなかったっけ?」
「はい、分かった上でバルダーにお世話になることを決めました。でも……たぶん分かったつもりだったんです。
ノイエ・ヴェルトに乗れるのは楽しいですし、バルダーの皆さんもいい人ばかりだと本気で思ってます。ですけど、戦うってことは、戦場に出るってことは、その……」
「人を殺すってことだと。そして伊澄くんにはその覚悟が無かったってことでいいのかなぁ?」
伊澄はうなずいた。
「はい……ルシュカさんの言うとおりです。頭では分かってても、ちゃんとそれを理解できてませんでした。
僕は……なるべくなら誰かを殺したくない。死ぬところも見たくない、です……でもいつかそうしてしまうかもしれません。そして、僕がそうしなくったって誰かがそうしてしまいます」
「こないだの私みたいに、ね」
ルシュカが笑い、対照的に伊澄は渋面を強めた。
「……それが仕事だとしても、それがああいった場所では正しいことだとしても……僕には耐えられそうにないです。すみません、このご時世に甘いこと言ってるとは自分でも思うんですけど……」
「伊澄……」
「マリアさんも、色々よくしてもらってすみません。でも……」
「私は、その……どうこう言える立場にない。認めるのはドクターだし――」
「別にいいんじゃなぁい?」
「ドクター!?」
「でも――」
ルシュカは机に頬杖をつきながら口端を吊り上げた。ニヤケ面の奥で濁った碧い瞳が伊澄を捉えた。
「それが君が
「? それはどういう……」
「ふっふふーん、いいねぇ伊澄くーんは」
「ふぇ?」
「だぁーってぇ、ふざけてみても真面目に考えてくれるんだからさぁ。どっかの誰かとは大違い。昔はマリアだって大真面目に付き合ってくれてたのにさぁあ。なのにこんなに擦れちゃって……おばさんはとーっても悲しいねぇ」
「私がこんな性格になったのは誰のせいだと思ってるんですか……」マリアがため息をついて呆れた。「まあ私のことはいいんです。つまり、ドクターは意味もなくそれっぽい意味深なことを言ってみたってだけ。そういう解釈で良いですね、ドクター?」
「……ルシュカさん」
「まーまー、そう怒んないでって。ほら、可愛い顔が台無しだよ?」
「それは女の子に言ってください」
ルシュカにからかわれたのだと気づいた伊澄は頭を掻く。それを見てルシュカはいっそうケタケタと喉を鳴らして笑い、そしてクルリと椅子を回転させて自分の机に向かうと、手元のパソコンを叩き始めた。
「ま、というわけで、だーよ。辞めるってのは止めないし、別に脅したりはしないから安心しなさいな。とはいえ、ウチを知ってるわけだしぃ? 余計な口外しないよう誓約書を書いてもらうってのと、当分の間は監視対象になるから」
「はい、それは最初に聞かされてましたから。ご迷惑を掛ける以上、異論はないです」
「うん、素直で宜しい! んじゃ後はこっちで処理しとくから。もう帰っていいよー」
パソコンの方を向いたままルシュカは手を振った。なんともあっさりな終わりで伊澄もやや拍子抜けしたが、これ以上この場に残っている意味もない。マリアに改めて「すみません」と謝罪を告げて部屋を出ていった。
残されたマリアは彼の後ろ姿をじっと見つめていたが、やがてその姿が扉の向こうに消えるとため息をついた。なんともスッキリしない顔を浮かべ、金色の髪をかきむしりながら振り返ると、今度はその瞳にルシュカの背中が映る。
「……よかったんですか?」
「んー? なにが?」
「何がって……伊澄です。先日の実戦では確かに動きに鈍さはありましたが、それでも立派に戦いましたし、戦場の空気に慣れれば相当な戦力になります。技術者としての能力は私には判断できませんが、整備班とも良好な関係のようですし、戦場に出ないにしても開発スタッフとして引き留めればバルダーとしても悪い話ではないはずです。ドクターもそのつもりで彼を引き入れたのではないんですか?」
「ふっふーん、入隊に反対してたマリアがそんなこと言うなんてね。彼を相当気に入ったってことかなぁ?」
ルシュカはキーボードを叩く手を止めて振り返り、ニヤニヤと笑ってマリアを見上げる。すると彼女は苦虫を噛み潰したように眉間にしわを寄せ、ルシュカから眼を離した。
「……彼の入隊に反対していたわけではありません。ただ、あの時はあまりにもドクターがあっさりと彼を引き入れることを決めたから」
「はいはい。まぁそういうことにしとこうか」
「ドクター。それよりも――」
「わぁかってるって。けど、心配しなくたっていいよ」
「べ、別に心配してるわけではないですが……何故です?」
「深く考えるだけ無駄ぁってことさ。どうせ――彼は戻ってくるよ」
それは予想、というよりも確固たる自信のある言い方だった。だがどうしてルシュカがそこまで自信を持てるのか、マリアは根拠を見いだせなかった。
ルシュカの確信の元を尋ねようと彼女は口を開こうとした。しかしそれより先にルシュカはまたクルリと椅子を回転させると、口笛で下手くそなリズムを刻みながらキーボードを叩き始めた。それなりに長い付き合いになるマリアには分かった。決してこれ以上ルシュカが真面目に語ることはないだろうと。
(なら今はドクターの言葉を信じるしか、ないか……)
伊澄は貴重な戦力である。マリアはそう信じて疑わない。ただでさえノイエ・ヴェルト隊は人手不足だ。彼が戦場に向いている性格ではないとは分かっているが、それを差し引いてもぜひ引き止めておきたい人物である。その程度にはマリアは伊澄を評価している。
「では、ドクター。失礼します」
「ほーい、おつかれさ~ん」
一礼して、ルシュカのなんとも軽い返答を背に受けながら彼女も部屋を辞した。
とにもかくにも、小隊の編成を再考しなければ。
しばらくこの基地を留守にしている隊長に上申するため、マリアは頭を切り替えて一時的な再編案を練りながら自室へと向かっていったのだった。
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