第7話 人生はかくも容易に変わりうる(その1)




 伊澄の頭脳は過去最大級の混乱の中にあった。

 眠気は一瞬で足元に叩きつけられ、なのに寝起きでも早々に活動を開始することが常であるはずの頭は完全にフリーズ。視線も完全に固定され、居るはずのない女性の寝姿をただ見ているだけとなった。


「……はっ!?」


 そのままたっぷりと五分は凝視し続けてようやく伊澄の頭脳は活動を再開した。右手は女性の胸に置かれたままであることにもやっと気づき、慌てて離すもその拍子にベッドから後ろ向きに転げ落ちた。


「~っっ……!」


 無言のまま、強かに打ち付けた後頭部を押さえて伊澄は悶絶した。だがその状態でも女性を起こさないようにという配慮なのかひたすらに口をつぐんでただ体を震わせて痛みを堪える。

 そして激痛に顔をしかめながら何とか身を起こし、伊澄は恐る恐る女性の顔を覗き込んだ。

 長いまつげに、寝ていてもわかる端正な顔立ち。色白で微かに開いて寝息を立てる唇はとても柔らかそうだ。寝顔であるがためにはっきりと分からないが、年齢は自分と同じくらいだろうか、と伊澄は思った。

 そして彼女を見つめていて、とても目を引いたのがその髪色だった。

 セミロングの髪は根本から毛先まで均一な薄い水色をしていて、染色では出せないような自然さを感じさせた。容姿からして日本人ではなさそうであることは明白だが、しかし伊澄が知る限りこのような色の髪を持つ人種はいない。

 布団の裾から覗く衣服は白い簡素なドレスらしいものだ。まるで何処かのお嬢様のようで、顔立ちは十分成熟しているようでもあるが、しかし布団の中で体を丸めて眠る様子も相まって何処か幼さも見て取れた。


「……えーっと」


 そう観察していると伊澄も徐々に落ち着きを取り戻してくる。そしてとりあえず、と伊澄は額に指を当てて昨晩の記憶を探り始めた。

 昨晩はゲームセンターに立ち寄り、通り雨に打たれ、雨宿りの最中に白咲・ソフィアに会った。そのまま二人揃ってだいぶ深酒をしたが、それでもアパートにキチンと帰り着いたし、ここは自分の部屋であることは、飾り尽くされたノイエ・ヴェルトのプラモデルたちが証明してくれている。部屋を間違えたなどということはないだろう。もし、この寝ている彼女が同じようにノイエ・ヴェルトのマニアであるならばぜひともお友達になりたいくらいである。しかし同程度のマニアがアパートの隣の部屋に住んでいる確率など天文学的な数字であろうことは伊澄自身もよく理解している。

 アパートに帰った後はそのまま服を脱ぎ散らかし、ベッドに倒れ込んでそのまま眠りへと落ちていった。伊澄の脳はそれをはっきりと覚えているし、現にスーツは床の上でしわくちゃのまま転がっている。そして、その時にはベッドには――当たり前だが――誰も寝てなどいなかった。

 つまりは。


「……誰?」


 そういう結論しか導き出すことができないのである。そもそも、伊澄にとってまともな女性の知人などソフィアくらいのものだ。故に深く考えずとも、この寝息を立てる可憐な女性が伊澄の知り合いでないことは明白であった。

 ならば彼女は何者か。


「泥棒……にしては間抜けすぎるよな」


 盗みの現場で住人にこっそり添い寝など、いったいどんなプレイだ、と一人でツッコミを入れる。何処の国の人間かは知らないが、まさか彼女の国ではそうした試みが一般的なのだろうか。

 そんな馬鹿な、とくだらない妄想に歯止めを掛ける。しかしそうなると伊澄にはこの女性がどうして自分のベッドにいるのか全く分からない。


「ん……うぅん……」


 一人で悩んでいた伊澄だったが、女性が寝言を漏らしたことで改めて注意をそちらに向けた。

 寝返りを打ち、長い水色の髪が揺れる。ふわりと空気の抵抗を受けながらゆっくりと髪が舞い降りていく。

 そして――長く尖った耳が露わになった。


「え……?」


 思わず伊澄は眼を疑った。寝ぼけているのか、と眼をゴシゴシと擦りマジマジと見つめる。だが何度見ても耳は特徴的な形をしていて、そしてそれは伊澄の知る人類にはないものだ。

 まるで、ファンタジーの世界に出てくるエルフみたいだ。果たして本物だろうか、と初めて見るそれに興味を引かれ、女性に近寄っていく。寝ている女性の顔を上から覗き込むという結構大胆な体勢になっているのだが、伊澄の興味は完全にその耳に注がれてその事に気づかない。


「すごい、本物だ」


 指先でそっと耳の先端を撫でてみる。伝わってくる感触は女性らしい肌触りそのもので、幾ら技術が発達した現代といえども到底作り物には思えなかった。

 伊澄はそうしてマジマジと神秘を観察していたが、ふと彼女の顔に眼を向けると、そこに光るものが見えた。


「涙……?」


 目尻から流れ落ちる一滴の涙。怖い夢でも見ているのだろうか。

 そういえばソフィも昔、同じように寝ながら泣いていることがあったな、と伊澄はかつての恋人との時間を思い出した。当時の彼女は怖い夢を見たから、とだけ教えてくれたが、果たして目の前の女性はどんな夢を見ているのか。

 そうしてなんとはなしに耳をさすりながら女性を見つめていると、女性がゆっくりと身じろぎした。


「……?」


 耳を触られていれば当然ながら女性も眼を覚ます。長いまつげをもったまぶたがゆっくり開かれていって伊澄と目が合う。そこで伊澄はようやく自分が何をしていたのか気づいて顔を真赤にしたのだった。


(ね、寝ている女性に僕はなんてことを……!)


 自分が興味を持つとそれに熱中してしまうのは伊澄の悪癖ではある。だが、知り合いでもない女性に勝手に触れるなど許される事ではない。

 スチームポットと化した顔が一転、不純物たっぷりの氷のように青ざめる。ぎこちない動きで耳から手を離す。その間も女性の視線は伊澄を捉えたままだ。


「……や、やあ?」


 こういう時、どんな顔をすればいいか分からないの。昔見たアニメのセリフが頭をよぎるが、果たして笑えばいいものだろうか。いや、間違いなく違うと思う。

 ともかくも伊澄は女性を刺激しないよう可能な限り友好的な笑みを浮かべて、そして叱られたら全力で土下寝を以て謝罪する所存で声を掛けた。


「……?」


 しかし女性は伊澄を見つめてはいるものの、無反応だった。目と口は半開きのまま、口端からよだれを垂らしてボーッとしていた。


「……も、もしもーし?」


 女性の目の前で手のひらを振ってみる。視線だけが伊澄の動きに合わせて動き、やがて女性は寝ぼけ眼で部屋を緩慢に見渡し始めた。爽やかな朝日差し込む窓を眺め、立ち並ぶノイエ・ヴェルトの模型を見つめ、そして正面に座る曖昧な笑顔の伊澄へと視線が戻ってくる。

 そのまま沈黙すること数秒。

 変化は突然だった。


「……――っ!?」


 半開きの女性のまぶたが一気にグワァっと見開かれる。目玉が飛び出るのではないかというくらいに大きな眼を更に大きくし、驚いたように伊澄の顔を見た。

 ビュンビュン、と擬音がつきそうな勢いで顔を左右に動かして忙しなく部屋中を見渡し、そして窓から差し込む朝日を見てあんぐりと口を開け。

 絶叫した。


「&$%##’&&っ!! ~~っ!! *#+&#%$!!」


 さっぱり何を言っているのか分からない言語を叫んだかと思えば大仰な仕草で水色をした頭を抱える。枕に顔を突っ込んでボスボスと伊澄の布団に小さな拳をめり込ませ、布団を抱きかかえるとそのまま再び大声で悶絶しながらゴロゴロとベッドの上で転がった。

 そしてベッドから落ちた。


「はうっ!?」


 ゴツン、と鈍い音をさせ、先ほどとは別の意味で頭を抱えて女性はうずくまった。


「……だ、大丈夫ですか?」


 伊澄は「下の階の人から怒られないかな?」と思いつつも、女性に声を掛ける。つい日本語で話しかけてしまい、すぐに伝わらないか、と苦手な英語でもう一度話しかけようとするも、よくよく考えたら彼女が叫んでいたのが英語ですらないと気づき、「え、えーっと……」と言いよどんだ。


「……」


 それでも心配する気持ちは伝わったのか、女性は片手で頭を抑えながら無言で手を上げて大丈夫をアピールした。

 女性は涙目のままに顔をあげた。改めて伊澄がその顔を見るとハッと息を飲むほどに美人であった。いや、正しくは美少女という方が近いかもしれない。成人前後といったところか。その容姿が、かつて出会った当初のソフィアと重なり伊澄の心が音を立てて跳ねた。


「……――、――――っ」

「はい?」


 目尻を指先で拭うと女性は表情を険しくし、明るくなった外をにらみつけていたが、やがてため息をつき、何かをつぶやいた。声は小さく、伊澄にはさっぱり何を言っているのか分からなかったため思わず聞き直した。


「――え?」


 だが女性は伊澄の疑問には付き合わず、唐突に彼の腕を掴む。伊澄よりも冷たい手のひらのひんやりとした感触が伝わってきて、伊澄は硬直した。


「ちょ、ちょっと!」

「$$&#%っ!!」


 女性は伊澄の腕を引っ張り、突然走り出した。伊澄の制止にも耳を貸す様子はなく、見た目の華奢さに反して引く力は強い。

 決してがっしりしているわけではなく、むしろ細身の部類に入る伊澄だが男性であり、少なくとも目の前の彼女よりは重い。にもかかわらず彼女は伊澄を引きずるようにしてベッドに飛び乗ると窓枠に手を掛けて大きく開け放った。

 ガラリ、と音を立て、爽やかな風が吹き込む。素晴らしい天気である。だが対照的に伊澄の頭の中を、嫌な予感が猛烈な勢いで駆け抜けた。


「や、やめ――」


 そして女性はためらいなく外へと飛び出した。

 伊澄の部屋は二階。引っ張られた伊澄の視界は、連休初日にふさわしい快晴から一気に下降。鈍色の汚れたアスファルトへ瞬く間に近づいていった。


「いやああああああああああああっっっっ!?」


 もはや恥も外聞もない悲鳴を上げ、伊澄と女性は落下していく。終わった。僕の人生はこんなにもあっさりと終わるのだ。まさか見ず知らずの女性の心中につきあわされるなんて。カミサマ、僕がいったいどんな悪いことをしましたか? ゆっくりと近づいていく地面を涙目で見ながら伊澄は神の悪意を嘆いた。

 しかし伊澄が地面に激突することは無かった。

 伊澄と地面の間が突如として光り始める。空中に淡い桃色をした円形の模様が浮かび、その縁は複雑な文字や記号らしきもので彩られている。それらがクルクルと回転し、中心から白い光が溢れた。


「――っ……!」


 あまりのまばゆさに伊澄は眼を閉じ顔を背け、留まることを知らない光の奔流は二人を包み込んでいく。

 そして、穴があるかのように輝きの中に体が沈み込んでいき、やがてその光が消え失せた時、伊澄もまたこの世界から消え去ったのだった。





 しばしの浮遊感と、酒を飲んだ時のような酩酊感に近い感覚が伊澄を支配した。

 世界は白い。まるで溢れる光の一部に自分がなってしまったようだ。上下の感覚さえ失い、抗うことさえ難しい程の猛烈な流れの中に押し込まれ、為す術なく翻弄される。

 やがて光の終端を伊澄は理解した。それが出口だと直感的に理解し、それを証明するように伊澄の全身に五感が戻り始めた。

 再び光が伊澄の視界を塗りつぶしていく。意識を上書きしていく。


「っだぃっ!?」


 そして一際強い浮遊感の後、伊澄はケツを強かに打ち付けた痛みで覚醒した。

 尻が割れた。本気でそう思った。一切の受け身なしにケツを打ち付けるとこうなるのかとどうでもいいことを本気で考えながらゴロゴロと痛みに悶絶した。


「あー……痛かったぁ……」


 痛みに耐えることしばし。伊澄は尻をさすりながらようやく顔を上げた。痛みに涙が溢れ、滲んだ視界。指先で涙を拭い、そしてその視界に飛び込んできたのは――鋭い刃だった。


「……はい?」


 目と鼻の先で槍の刃先がキラリと輝いた。伊澄は反射的にホールドアップし、ゆっくりと視線を刃から上へと上げていく。

 そこにはいかめしい顔をした男が居た。いや、男たち・・が立ち並んでいた。

 モスグリーンを貴重とした兵装らしい服を身に着けた男たちがグルリと取り囲み、全員が伊澄に槍を突き出していた。その表情は一様に険しい。敵意が伊澄に向けられていることは明らかであった。


「ど……どこですか、ここは?」


 伊澄の災難は、まだ終わりそうになかった。



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