第8話 人生はかくも容易に変わりうる(その2)




 どうにも理解できない状況に陥りすぎると、逆に人は冷静になれるらしい。

 冷や汗は相変わらず止まらないが、こんな状況にもかかわらず周囲の観察を怠らないのは、もしかすると毎日の業務で諸々を観察する癖がついてしまったからかもしれない。だとすれば今の仕事も中々にバカにできないな、などと刃を向けられながらも伊澄は現実逃避した。

 何がどうなったのか。状況はさっぱり理解できていないが、少なくとも伊澄がいるのは自宅でもなければ往来のど真ん中でもないことだけは理解できた。

 天井からぶら下がる派手なシャンデリア。精密な細工が施された石造りの柱と壁に、足元には真っ赤なカーペット。これがあるお陰で落下のダメージは幾分軽減された。そうでなければ尻肉はきっと四等分されていたに違いない。伊澄は毛足の長いカーペットに感謝した。

 伊澄が居るのは何処かの王城のようだった。彼を取り囲んでいるのはおそらく兵士であり、更にその奥には数名の白い鎧をつけた男たちが居た。中には頬に生々しい傷を持った者も居て、如何にも戦いを生業としていそうだった。生で見るのは初めてだが、彼らの姿を見た伊澄の脳裏に「騎士」という単語が過った。


「&#%$*#+&?」


 そうやって現実逃避を続けていた伊澄に対し、目の前の兵士がにらみつけながら話しかけてきた。だが彼から発せられた言葉に聞き覚えはなく、故に何を喋っているのか理解できない。


「え、えっと、きゃんゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」

「&#%$*#+&##$っっっ!!」

「ひぃ、ごめんなさいっ!!」


 伊澄お得意の愛想笑いを浮かべながら下手くそな英語で話しかけてみるが、逆に意味不明な言葉で怒鳴りつけられ即座に謝罪した。

 しかし当然そんな伊澄の謝罪も通じるはずもなく、怒鳴りつけた正面の強面は伊澄の喉元に刃を押し付ける。

 刃先がかすかに伊澄の喉を傷つける。微かな痛みに顔をしかめながらも伊澄は喉の表皮に熱を感じ、それが自身が流した血によるものだと気づいた。その途端、伊澄の背におびただしい程の汗が吹き出て、上げたままの両腕が震えた。


(こ、このままじゃ――)


 殺される。槍を前にしても伊澄にとってそれはあまりにも非現実的であったが、痛みを伴えば流石に現実を直視せざるを得ない。

 逃げるか? そんな考えが浮かぶ。しかしどうやって? その自問に対する解はない。

 伊澄が取れる選択肢はあまりに少なく、故にただ手を上げて無抵抗をアピールしつつ相手が落ち着くのを待つしか無いという酷く消極的な結論に至り、それを実行しようとした。

 だがそれに待ったが掛かった。


「&%$%&&*@っっっ!!」


 声が聞こえたのは伊澄の後ろからだ。小柄な伊澄よりも更に小柄なために彼の背に隠れていたが、伊澄と共にアスファルトへダイブした女性がスッと前へと進み出た。視線は鋭く、幼さのあった顔立ちからは今はそのような雰囲気は感じ取れない。彼女は堂々とした足取りで槍を構えた兵士へ近づいていった。


「あ、危ないですよ! 下がって――」


 伊澄はハッとして警告を叫び、自身に突きつけられた槍のことなど忘れたように再度女性の前へと躍り出ようとした。

 しかしすぐにそんな必要が無かったことに気づかされた。


「え――」


 女性が前へと進み出た途端、槍を突きつけていた兵士の顎が外れそうなくらいに下がり、驚嘆したのが伊澄には分かった。

 その兵士を女性がねめつけ、何事かを発する。するとすぐにその兵士は槍を放り出しその場にひざまずいた。彼だけではない。伊澄を取り囲んでいた兵士たちおよび騎士たちもまた同じようにひざまずき、彼女に向かって恭しく頭を垂れたのだった。


「な、何が……?」


 伊澄はその光景に言葉を失った。そんな彼の方を女性は振り向き、眉尻を下げて申し訳なさそうな顔を向けた。眼の前で水色の髪が舞いシャンプーのような香りが漂ってくる。それが彼女が頭を下げたからだと一瞬の間を置いて伊澄は理解した。


「@&#$%*&#……」


 言葉は分からない。だが彼女の表情や雰囲気から何か謝罪のようなものを述べているのだと伊澄は理解した。しかしながら正確な言葉が分かるわけでもなく、謝罪としても何に対して彼女がそうしたのかもよく分からない。だから伊澄は「は、はぁ……」と曖昧な返答をするしか無かった。

 困惑した伊澄を女性は見上げた。そして指で近づいてこいというような仕草をし、伊澄は兵士たちの眼を気にしながら近づいた。先程は何やら喚いていた彼らだったが今はただ黙って頭を垂れていて、それが逆に不気味に思えた。

 一歩の距離まで近づくと、今度は女性は伊澄にしゃがむようジェスチャーをした。こうした仕草はどの国でも同じ様なものなんだな、などと思いながら言われた通りにしゃがみ、顔を上げる。

 そこには美しい女性の顔がすぐ目の前にあった。


「……っ」

「+&%*#$」


 美人の顔というものは時としてハンマーよりも強い攻撃力を持つらしい事を改めて思い出した。伊澄は思わず大きく仰け反り、しかしそれも女性が彼の頭をガッチリと掴んだことで叶わない。


「*@&%##&……」


 何かを女性がつぶやいた。彼女は伊澄を上目使いで見上げ、一度視線を外すと頬を赤らめた。伊澄は何か猛烈に嫌な予感がして全力で脱出を図るのだが、どういうわけか彼女の腕は細いというのに伊全く抵抗ができない。

 女性は一度ため息をつき、やがて意を決したようにもう一度伊澄を見上げた。

 そして――彼に口づけた。


「っっっっっ!!???」


 伊澄はオーバーヒートした。

 吐息と共に唇から伝わる熱。彼女の舌が伊澄の歯と歯の隙間に割って入る。二つの舌が交わり、唾液が混ざり合う。伊澄の意識が急に熱と興奮で浮かれたものに変わっていく。

 それに混じって、何かが自身の中に染み渡っていくのを伊澄は感じた。それをどう表現すべきか伊澄には分からない。

 意識が広がっていくような、これまで自分の中に無かったものが新たに埋め込まれていくような、そういった感覚だ。或いは、自分の中の「引き出し」が増えているといってもよいかもしれない。


(なんだ、これ……!?)


 増える知識と感覚。作られた頭の引き出しに、新たな知識が無理やり詰め込まれていく。そういった表現が正しいだろうか。

 初めて感じる不思議な経験。意識がフワフワと舞い上がり、やがて落ち着いてくる。

 何処かへ飛んでいっていた意識が結合し、眼の焦点が口づけている女性へと結ばれて、恥ずかしそうな彼女の顔が現れた。

 どうやらこの不思議な感覚は終わりを告げたらしかった。


 しかし次の瞬間、伊澄の意識は再び彼方へと飛ばされていた。

 そこはどこまでも広がる白い世界だ。伊澄の手が、脚が、体が、全てが世界に溶け込み、何処まででも広がっているような解放感に溢れていた。

 心地よさに身を委ねれば、世界は更に広がる。漂うだけで何処へでも行けそうな錯覚。いや、錯覚ではない。現に伊澄の見る世界はまばたき毎に変化し続けていた。

 その世界で伊澄は少女を見つけた。何もない世界でただ一人たたずみ、虚空を見つめ続ける。その少女の後ろ姿を伊澄は上空から眺めていた。


(誰……だ?)


 少女は長い金色の髪をしていて、艷やかなそれには緩やかにウェーブが掛かっていた。刺繍の施された襟元の肌は白い。伊澄は、まるでビスクドールみたいだと思った。

 少女の金色の髪が揺れる。ゆっくりと振り返る。伊澄が見た彼女の口元には微かに笑みが浮かんでいた。だが彼にはそれがどうにも笑みには見えなかった。

 きっと、少女の笑顔を見ればほぼ全員が「笑っている」と判断するだろう。実際、整った顔立ちの少女の笑みは可愛らしいと伊澄も思う。しかし表情は笑っているが、何かが決定的に欠けているとしか感じ取れない。

 ジョイントで繋がらなければ二つのシャフトが連動しない。それと同じように、表情と感情が連動していないのではないか。一旦そう考えてしまうと、少女の姿が酷く不気味なものにしか見えなくなってしまった。

 その時、伊澄は気づいた。少女が伊澄を見つめていることに。機械的に一定のリズムで行われるまばたきが瞳を何度隠しても伊澄を捉えて離さない。そして少女に見つめられたと認識した途端、伊澄もまた少女から眼を離せなくなってしまった。

 彼と彼女が見つめ合う。しかしそこには親しげな感情はない。見つめ合う、それがただの行為としてしか意味を持たない。その間にも伊澄の意識が世界の中で広がり続けていく感覚は続いていた。

 それがどれだけ続いていたか。

 少女の口元が小さく動いた。


「■■■■」


 そして彼女は笑った。或いは嘲笑ったのか。弧を描いていた口元の曲率が変わり、視界にいる少女の姿が急速に遠ざかっていく。暴風に吹き飛ばされたタンポポの綿毛のようにバラバラに伊澄の体が散りながら少女は小さくなっていった。


 ――おかえり


 口元がそう動いたかは分からない。けれども伊澄は、少女がそう言ったのだと理解した。

 その時には、伊澄の意識はまた何処か遠くへと飛ばされてしまっていたのだった。






 意識が戻る。

 伊澄の目の前にはまだ目を閉じたままの女性が口づけていた。

 ずいぶんと長い時間口づけている。それとも、まだ時間は殆ど経過していないのか。

 とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。伊澄とて男であり性欲が無いわけではなく女性に興味が無いわけでもないが、公衆の面前でキスをするほど肝が座っているわけではない。瞬く間に頭の中を駆け抜けた光景によって逆に落ち着きを取り戻した伊澄は、女性を傷つけないように優しく肩に手を掛けて引き剥がそうとした。

 それに反応してか、ゆっくりと女性のまぶたが開いていく。碧色の瞳が顕になっていく。

 彼女の頬はまだ赤く熱を持ち、伊澄の頬を包むその両手のひらはいつしか温かいものになっていた。

 しかし――口づけする彼女の瞳に熱情は無かった。とても冷ややかだった。それこそ無機質を見ているような、一切の感情の灯らない眼がすぐそばで伊澄を見つめていた。少なくとも、伊澄はそう感じ取ってしまった。


「きゃっ!!」


 気がつけば、彼女を突き飛ばしていた。

 悲鳴を上げて女性は地面に転がり、伊澄もまたその反動で転げて尻餅をついた。


「エレクシア様っ!!」


 騎士の叫び声と尻から脳天へ突き抜けた痛みで伊澄は我に返った。

 ハッと息を飲み、目の前では腰の辺りを押さえて顔をしかめている女性の姿。なんてことをしてしまったんだ。伊澄は自分の行為に驚き、慌てて駆け寄る。


「ご、ごめんなさいっ! 大丈夫ですかっ!?」

「いたたた……ええ、大丈夫です」


 騎士に手を引かれて立ち上がる女性に向かって、伊澄は土下座で何度も何度も頭を床に叩きつけた。頭を下げていても騎士たちから厳しい視線がビシビシと突き刺さるのが分かり、恐縮したまま頭を上げることができない。


「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

「あの、伊澄様? ワタクシは大丈夫ですので……

 言葉も分からずに突然……その、唇を奪われれば伊澄様が驚かれるのも当然ですし、それ以上の謝罪は不要ですよ?」

「でも……」

「怪我もしておりませんし、どうか伊澄様、ワタクシからのお願いですので頭を上げてください。でなければお話もできません。ワタクシは伊澄様とはお話したい、いいえ、お話しなければならないことがたくさんありますから」


 穏やかな口調でそう言われ、伊澄は恐る恐る顔を上げた。女性の顔には怒りはなく、むしろ困惑の方が勝っていた。

 これ以上の謝罪は逆に迷惑か。そう察した伊澄はバツが悪そうにしながら立ち上がると、女性の表情が緩んだのが分かった。


「良かったです。さあ、それでは客室にご案内します。お詫びとお話はそちらで致しましょう」

「話、ですか?」

「はい。ここが何処なのか、どうして伊澄様をここへ連れてきたのか。そもそもワタクシの自己紹介もしておりませんし、ね?」


 茶目っ気をたっぷり含ませ、女性は伊澄にウインクをしてみせる。その可愛らしさに伊澄は気恥ずかしくなって視線をそらして頬を掻いた。


(先程の……)


 あの眼はなんだったのだろうか。まるで見間違いのように正面の女性の瞳は人懐っこく、そして可愛らしい。あるいは本当に自分の勘違いだったのかもしれない。だとすれば、ますます申し訳ない。伊澄は反省し、ため息をつく。

 ――と、ここまで来て伊澄は気づいた。


「あ、あれ……!? 言葉が分かる……!?」

「ふふ、ようやく気づかれましたね?」

「なんで――」


 伊澄が目を丸くし、対する女性はいたずらが成功した時と同じ笑顔を向けた。理由を尋ねようとし、ところがその問いが伊澄の口から出ていくことはなかった。


「伊澄様?」


 グラリと傾く伊澄の視界。グニャリと視界が歪み、やがて襲ってくる猛烈な頭痛。


「く、ぅぅ……!」


 脳に血管が走っていることが、脈打つことで理解できる。ドクンと鼓動の度に痛みが走り、伊澄は頭を押さえ膝を突いた。


「伊澄様っ!?」

「あた、まが……割れ……」


 ドロリと鼻から血が流れ出す。剥き出しにした両目は血走り、零れた涙は赤く染まっていた。そして一際大きく鼓動が弾んだのと同時に、襲いかかってきた痛みに耐えきれず伊澄はその場に倒れた。

 彼を呼ぶ女性の声。必死に叫び、医師を呼ぶよう指示を飛ばす。いつもの伊澄ならば無理をしてでも「大丈夫」と伝えるのだが、この時ばかりは何もできずそのまま意識を失ってしまったのだった。



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