第6話 とあるエンジニアの憂鬱(その5)
「それじゃーな、ソフィア。気をつけて帰れよ」
「そっくりそのまま返してやろう。お前こそ、そのフラフラした足取りで側溝に落ちるんじゃないぞ?」
「そこまでドジじゃねーって」
からかいを含んだソフィアの声に、伊澄はケラケラと笑って応えた。
二人が店を出た時には既に時刻は日付をまたいでいた。激しく降っていた雨も今は止み、雲はどこかへと過ぎ去ってしまっていた。
伊澄はソフィアに手を振って分かれるとやや千鳥足でアパートへと向かった。季節は春も後半だが夏はまだ遠い。激しい雨が振ったということは寒冷前線だったのだろうか。少し肌寒い。
そこかしこに水たまりができている。それに気をつけなきゃ、と思っていると壊れた街灯のせいで見えなかったすぐ足元の水たまりを踏み抜いてしまい、靴の中がびっしょりと濡れた。伊澄はその感触に僅かに顔をしかめるが、すぐにどうでもいいか、と思い直して子供のように、ペチャペチャと意図的に水たまりの上を踏み鳴らしながら家路を歩く。
道路のあちこちで舗装が崩れたままで、水たまりが到るところにある。早く補修しろよ、と思わないでもないが、まだまだ第三次大戦の傷跡や世界的な不況などが原因でそこまで予算が回っていないのだろう。
伊澄が住むのは首都圏だから、これでもマシな方である。地元の田舎だと車が走行するだけでもタイヤを傷めてしまいそうな大きな穴が結構な頻度であるし、テロなどで破壊されたビルが何年もそのままの状態になっていることだって珍しくない。
伊澄は空を見上げた。そこには街の明かりに照らされて反射する紫色をした何かが、まるでオーロラのように揺らめいていた。
「……子供の頃は、たぶんまだ星が見えたんだよな」
いわゆる「瑠璃色の黄昏」が発生したのが二〇五〇年。伊澄がまだ九歳の時だ。だから伊澄自身はこの紫のベールに覆われる前の夜空を見ているはず。
「どんなふうだったっけな……?」
人生の半分以上を星のない夜空の下で生きている。だから忘れていても別におかしい事ではないし、たぶんもう大多数の人が夜空がかつてどんな風だったか忘れてしまっているだろう。
きっと、夜空を見上げる事がなくなってしまったから。
瑠璃色の黄昏のせいで世界は変わってしまった。大気圏外を回っていた人工衛星は全て機能不全に陥って、それまで人類が享受していた科学技術の恩恵は大ダメージを受けた。
世界のパワーバランスは崩壊して中国の自治区で発生した内戦を皮切りに世界は統率を失った。次いで発生したインドとパキスタンの紛争は第三次世界大戦に早変わりし、日本も直接の戦争にこそ参加しなかったものの各地でテロの被害を受け、多くの人達が傷ついた。
EUは分裂してNEU(Northern European Union:北部欧州連合)とMU(Mediterranean Union:地中海連合)になり、直接の戦いが終わった今でも綱渡りの状態は続いている。中東などは宗教対立に民族対立が絡んで手がつけられない状態となり、原油価格の暴騰がまた新たな対立を生み出す悪循環を引き起こした。
それが、伊澄が成長したこの十年で起きた出来事だ。幸いというべきか、しぶといというべきか、失われた恩恵は人類の努力によってかなり回復したけれど、いつだって世界は暗くて、空には忌まわしいベールが漂っている。心を慰めてくれる星々の煌めきはない。そんな空をどうして人々が見上げるだろうか。
(もし――もし星が見えてたら、もうちょっとはマシな世界だったのかな?)
そんな考えが思い浮かんだ。だがすぐにそれはロマンチックすぎるな、と馬鹿らしくなった。人類はそこまで賢明ではないだろう、と伊澄は皮肉っぽく笑った。
「でも――」
いつの日か星空を、満点の星がきらめく夜空を眺めてみたいな。そう伊澄は思う。もしかすると、昔みたいなロケットではなくてノイエ・ヴェルトに乗ってこの紫色をした何かを突破する時代がくるかもしれない。それで、その瞬間を僕はノイエ・ヴェルトの開発スタッフの一人として管制塔から――
「……」
そこまで空想が進んだところで伊澄は頭を振った。そんな時なんて、きっと来るはずがない。実現するのはもっと未来、それこそ伊澄が退職したあとの時代だろうし、よしんば技術的なブレイクスルーが起きたとしても自分などがそんな開発に携われるはずもない。
頭を振ると、酔って熱っぽい頬を風が冷ました。伊澄はもう一度夜空を見上げ、肩を落としてトボトボと家路を歩き始めたのだった。
「ただいまぁ」
アパートのドアを開けると伊澄は声を張り上げてみせた。だが一人暮らしの彼に同居人がいるはずもなく、返事がやってくることはない。それは分かっていてもなんとなく声を出してみたくなったのは、久しぶりにソフィアと会ってしまったからだろうか。それともアルコールで頭がイカれているからか。
そんなたわいないことを考えながら短い廊下を歩くと、古い板材がギシギシと悲鳴をあげる。狭苦しいキッチンと部屋を隔てる扉を押し開け、手探りで照明のスイッチを見つけて押す。LED照明で一気に部屋が明るくなり、部屋の様相が瞬く間に露わになった。
伊澄が暮らすのは1Kの、それなりに年季の入ったアパートだ。部屋の広さは八畳程だが、彼の部屋は今や物で溢れていた。だが別にソフィアの部屋みたいに散らかっているわけではない。
ベッドとテーブル、それにパソコンデスク。それ以外のスペースは全てノイエ・ヴェルトに関する物が占領している。ノイエ・ヴェルトを題材にした漫画や書籍、雑誌が幾つもの棚を満杯にし、ラックの上は大小様々なプラモデルが様々なポーズで立ち並んでいる。要は物の量に対して部屋の容量が追いついていないのだ。
「……寝よ」
部屋の中のわずかな通路を通り抜け、伊澄は床にカバンを放り投げた。通勤時しか着ないスーツを乱雑に脱ぎ捨て、シャツとジャージ姿に着替えると照明のスイッチを切ってそのままベッドに倒れ込む。いつもであれば皺にならないようスーツをキチンと収納する――といってもハンガーに掛ける程度――のだが、今日は何もかもが億劫であった。
パソコンのスイッチも入れず、ノイエ・ヴェルトを題材にしたゲームのスイッチも入れない。平素はモニターに近未来的なデザインのノイエ・ヴェルトが映し出されるのだが、今日に至ってはその姿を想像するだけでどこか重苦しいため息が出てきてしまう。
まだ就職してたった三年。されど三年だ。伊澄は眼を閉じた。途端に不安が押し寄せてくる。
結局のところ、自分は何者なのだろうか。誰かの役に立てているのだろうか。自分はどこに向かって生きていけばいいのだろうか。何を目指して働けばいいのだろうか。果たして――自分の居場所はどこにあるのだろうか。益体もないそんな疑問ばかりが酔った頭目掛けて次々に押し寄せ、息苦しさに胸を掻きむしる。
伊澄は体を丸めて布団を巻き付けた。それは小さい時からの伊澄のくせだった。何か言いしれない不安に襲われた時、そうして身を守ろうとしていた。その習慣は成長した今でも変わらない。
(――疲れてるんだ、僕は)
疲れてるから、そんな意味もない悩みを抱くのだ。伊澄は自分にそう言い聞かせ、意識して頭の中から雑念を追い払う。
実際のところ、度重なる残業と叱責で疲労は溜まっていた。だから伊澄が目を閉じると自然と意識は遠のいていき、その心地の良さに伊澄は身を任せた。やがて、彼の口からは規則的な寝息だけが漏れ始めたのだった。
翌朝。
本来ならば休日のために伊澄は夜遅くまでノイエ・ヴェルトのゲームに熱中し、朝も惰眠を貪るのが常である。
だが昨晩は鬱屈した気持ちとアルコールの回った頭のまま帰宅するなり眠ってしまった。そのため消し忘れた目覚ましが平日と変わらぬ時間にジリリリとけたたましく安眠を妨害し、元来眠りの浅い性質である伊澄はその音の襲撃に屈してあっさりと眼を覚ましてしまったのだった。
「んぁ……」
枕に顔面を突っ込んだまま、腕だけを伸ばしてバンバンと枕元を叩く。その行為の大半は無駄な抵抗に終わったが、布団の埃を巻き上げるだけの愚行を十も繰り返すと一撃が目覚まし時計をクリーンヒットし、「ジリィン……」となんとも物悲しいエコーを残してその役目を終えた。
「勝った……」
ボサボサの寝癖だらけの頭でなんとなくそうつぶやいてみせるが、完全な敗北である。まだ朝の六時前だというのに一度目が覚めてしまうと悲しいかな、体は平日と同じように完全なる覚醒へと向かおうとしていた。
それでも今日は待ちに待った休日である。覚醒に屈してなるものか、と再び惰眠を貪るためにずれた掛け布団をひっつかむと伊澄はゴロリと寝返りを打った。
ところがである。
――むに
触り慣れない不思議な感触が手のひらに伝わってきた。触り慣れてはいないのだが触った事はあるような気がする。触り心地はとても素晴らしく、いつまでだって触っていたくなる、得も言われぬ魅力に溢れていた。寝ぼけたままの頭で伊澄は、その欲求に任せて指の屈伸運動を続けるのである。
――むに、むにむにむにむにむにむにむにむにむにむにむに
その度に柔らかい何かは自在に形を変えた。気が済むまで何度だってその「何か」をもみ続けていた伊澄だったが、徐々に頭が覚醒に向かう中、いよいよその正体が気になり始めた。
「……んん……」
そして極めつけはどうにも聞き慣れない
はて、聞き間違いだろうか。それか外から聞こえたのかもしれない。安アパート故に壁は薄いのだから。
そう思いながらも魅力的な感触と声の正体を確かめたいという欲求に抗えず、伊澄は枕から頭を起こして寝ぼけ眼をこすった。その間も片方の手は柔らかいものをつかんだままであり、しかしぼやけた視界が次第にクリアになっていき、やがて正体を捉えた途端、伊澄は完全に固まってしまったのであった。
なぜならば。
「うぅん……」
伊澄と同じ布団で、見知らぬ女性が涎を垂らして幸せそうに眠っていたのだから。
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