「あ、起きた」

 ――目を覚ますとそこは一面の草原と竜の舞う異世界だった。

 なんてことはない。

 見ていたはずのものが急速に一つの塊になると、それらの詳細は一切思い出せなくなり、どうでもいい名詞が一つ二つ頭に残っていても、意味になることはない。

 途方もない現実が戻ってきた。

「また、どこかへ行ってしまって。話しかけてもずっと無視なんだから。まったく、私というものを目の前にしながら、どういうつもりですか」

 わけもわからず、息はつまり寝汗が冷えた。

 目の前の少女は、

「なんてね」

 と微笑んでいる。

 人の気も知らずに。

「今日は暖かいから眠ってしまうのも無理はないね。そもそも西向きに窓がついているのが問題だ。こんなの、午後はどうぞ微睡んでと言っているようなものでさぁ」

 青い。

 眼に映る色々が。まるで現実のものではないかのように。

 まだ寝ぼけているのだろうか、あるいは逃避行なのか。

 青い目と青い髪をした少女が机を挟んで座っている。

「夢でも視ていたのかな? それとも現実を生き抜いてきたというわけか。なんにせよ、おはよう、サキちゃん」

 なるほど、この少女に映っていた私は居眠りをしていたらしい。

 他の人にとってはどうなんだろう、そう思って見渡しても誰もいない。

 見慣れた、けれど無人の教室。

 机には中身のないビニールの殻が散乱している。ここは……?

「もしかして、ぼくのことを忘れてしまったのかい? 記憶なんていうのは適当なショックで入れ替わり立ち替わりする不安定なものだけど」

 けれど、この、どうでもいいことを呆れるほど伝えてくる感じ。

「そんなに眠いなら、まだ眠っていればいいよ。見ていてあげるから。起動に失敗するなんて、よくあることさ。僅かな齟齬が致命的なのは精密だからこそ。うちのぴーしー君もこの間深刻な風邪を引いてね。つまらないプログラム同士の干渉だったんだけど、原因を見つけるまでは大分苦労させられたよ、どこもかしこも正常、スキャンしても正常、正常正常正常、私はセイジョウですってさ。しかたないから不貞寝してみたら案外すんなり見つかったり、そんなこともあるもんだ」

 遠慮も押し付けもない。必要だからでなく、話したいからそうする。

 左目だけが日にあたって燦めいている。もう半分は影になって淀んでいる。どちらも真っ直ぐ私を見ている。

 手を伸ばして、触ってみる。きっとこれが一番の方法だと思ったから。

「ん。くすぐったいよ」

 少し身を捩りながら反応した。

 何を思っているのか本当のところはわからない。ただ、柔らかい感触は確かだ。

 顔中どこも柔らかいものでできている。頬も鼻も。飼い猫のように無抵抗でじっと、喉元を無防備に空け晒してされるがまま。片手で簡単に掴めてしまう。脈すら伝わってくるというのに。どこまでも。

 梳かれた髪は一本一本根本まで青く、染めた痕跡なんてない。

 薄く見つめている眼に異物はない。

 なにもかも異常だった。

 けれど。

 …………。

 ふぅ。

 動じない青を見つめながら咳払いを一つ。それから、溜まりきった唾をついに飲み込んで喉を潤す。

「おはよう。ナギ」

 ナギ、なぎ。現実には似つかわしくない色の、小柄で整った秀才。誰彼ともでも笑っていられるような器用さも合わせ持った天才。いつも人に囲まれている人気者が何を思ったかここにいる。

 時刻は十二時の終わり、授業はもう始まるというのに教室には誰の気配もない、二人っきりの空間。

「ここは?」

「さあね。ここがどこかなんて神様にでも聞いてみるしかないよ。どうせ役立たずなんだ、面倒事だけでも押し付けちゃえ。それはそれとして質問に答えるなら、私にとっては偽りなく現実の、毎日飽きもせず通っている教室だよ。それ以上でもそれ以下でもない。サキちゃんにとってはどうだか、それは自分で好きに感じればいい。何を受け入れ何を認めるか、私達にはそれだけだ」

 なるほど時計は終焉を示している。

 そこには悪魔も天使もなく、明確に刻まれた意味だけがあった。

「結局、奇抜で退屈な夢でしかなかったりして」

「だとしても、確かめる術はどこにもない。なら、都合良く思っていたほうが幸せじゃないか。例えば、平和な昼下がりにお腹いっぱいになった誰かさんが日光とそよ風に当てられてスヤスヤきちゃったもんだから、それを眺めていられたのだって夢だったのかもしれない、一緒になって寝ていなかったとは限らないからね。だからといって、疑いはしないよ。あれは僥倖だった。夢のような時間だったさ」

 釈然としないけれど、やたらと嬉しそうな顔に引きずられ、わけもわからず嬉しくなってきてしまう。

 空っぽの教室でへらへら見合っているというのは異常で、気持ち悪いと思うけれど、誰も見ていないなら問題はない。

「力なんて捨てちゃってさ、自由で、死んでるようだった。田中さんもついチラチラ見ちゃうくらいに。かわいいんだ、キミは」

 時計を一瞥。

 照れ隠しではない。

「そういうわけじゃないと思うけどね」

 にこにこ余韻に浸っている幼気な娘にまざまざと突きつけるのは無粋かもしれないけれど、言い出さなければこのままだ。

 いつまでも自分たちだけで浸ってはいられない。無視をしていても、器用に体内で計られてしまう時間はある。

 次第に積もり、やがて耐えられない不快へ変わってしまう時間が。

 これは、選ぶとかそういう問題ではなく、いわば平穏の必要経費だ。

「まあまあ、ゆっくりしていようよ。今更気にしたって無理なものは無理なんだから」

 ガサガサ片付け始めたかと思えば、腕を枕に寝そべりだした。

 脱力しきっている。

「でも、まだ後一分ある」

 そう言っても、「んー」としか言わず、あまつさえ欠伸をする始末。

 まだ間に合う。今すぐロッカーから教材を引っ張りだして日頃の整理に感謝しながら走って行けば。

 理由もなく誰も居ない教室がうまれたわけじゃない事を察せるくらいには、微睡みから切り離された。

 窓は窓だし、黒板は黒板だ。

 立ち上がろうとした袖を引っ捕まえられて感じた微妙なストレスも、

「次、体育じゃ。だから諦め給えよ」

 との一言で一切挫かれてしまった。

 なるほどな。そういうのもあるのか。

 つまり今日は木曜日、黒板の端にもそう書かれている。

 袖を掴まれたまま、鐘が鳴った。食後まもなく走り回らなくても済んだと考えよう。

「みんなは?」

「ちゃんと着替えに行ったんじゃないかな」

「一緒に行かなかったの? 待ってなくてもよかったのに」

「そんなことできるわけないじゃないか。まだ食べ残ってもいたしね」

 ビニール袋からビニールが飛び出している。さながらパフェだ。「これ、全部食べたわけ?」

 有り体に言って、正気じゃない。

 半分も食べられない食べたくない。私よりも小さいくせに、一体どこに入っていくのか、そもそもなんの為にこれだけのエネルギーが必要なのか。

 無駄だ。無駄すぎる。一切が無駄。

「そんなに怪訝な顔をしないでよ。今日はたまたま。朝、食べ忘れて来たからお腹が減ってたんだ、わかるだろう? いけそうな気がしたの。それに、良質のオカズが満腹に気づかせてくれなかったからさ」

 うっとうしい顔で見つめてくる。

「少し食べ過ぎたちゃったわけ。いやあ、気分に流されるとロクなことにならないね。能力はいつでも一緒だ」

 もう二度と立ち上がる気力なんかないといった具合に、机にへばりついて唸っている。

 欲望のツケは重そうだ。

 そして私の袖の中に消化剤でもあると思っているのか、手探りをやめない。

 なんとなく、食事の内訳が気になった。

 袋の中身は透明が入り乱れていて、クリームの名残からパンだったんだろう、剥がしそこねた海苔からこれはおにぎりだったんだろうな、そんな断片的な情報しか見て取れない。味も匂いも食感もわからない。ガサゴソ、中はゴミばかり……

「死体漁りとは、関心しないな」

 至極真っ当な指摘に困惑する。

「そういうところあるよね」

 と言われましても。

「そんなに気になるならさ、お腹の中、見せてあげるよ。ほら、…… ねっ?」

 ねっ? がなにを指すのかはすぐにでも。

 忘却していた嫌な感触を紛らわすため、手首を握り返して、抓る。

「ごめんて」

 どうにも、物足りない。

 もう少し捻りを――

「イタタタタッ。痛いって。悪かったって、もう言わないよ。来週は違う課程に進んでいるとイイネ!」

 困惑と懇願が入り混じった顔はなんとなく、良い。

 きっとこれは誰も見たことがない表情だろうから。

 ゴミ箱へ向けて縛った袋を投げつける行為は高校生らしいといえば高校生らしい。どころか、よくそのものを捉えている、といっても過言ではあるけれど、否定はできない。入ることには入っても、それは念願だった場所ではなく隣の空き缶用だったりすると尚更、らしい。

 なにより、手間をかけるだけでやり直しが効くというところが、らしい。

 ため息ともつかない自嘲的な息を吐きだして立ち上がった。

 構えた瞬間から、結局こうなる気はしていた。

 正規の場所へ不満気に投げ入れ直し、はじめからそのつもりだったといわんばかりに戻ってくる。

「出る気なかったでしょ」

 思っていたことを口にする。

「え?」

「体育。はなからサボるつもりだったんじゃないの。私が寝ようが寝まいが、うまいことを言って」

 ナギはいつだってそうだ。

「さあね、それは、どうだろう」

 当たり前の私には当たり前の質問も、あるかないかで言えばいつだって無い側にとっては愚問だったのかもしれない。

 暖簾は視えている分だけまだ手応えはある。

「そう言うサキちゃんはどうだったんだい? 晴れた昼下がりの食後にあまつさえ昼寝までした後に、体育に出る気があったとは思えないけど。私のことなんか無視して着替えていればまだ多少の遅刻で済んだかもしれないのに、今はここにいるじゃないか。わたしと同じだね、ワルイコだキミは」

 なるほど道理だ。

 それなら、仕方ない。

 一人でサボるのは怠惰だけれど、二人でなら青春という幻想に縋ることもができる。

「さて、わるい子二人組みは社会にあぶれてしまい、今、これからの少時間僕たちには行き場が無いわけなんだけど」

 その分、厳しい現実の返しもついてくるわけだけれど。

「ねえサキちゃん。サボるならさ、いい天気だし、お散歩にでも行こうか。ここにいるより気分も晴れるだろうし。いい天気だけに」

 ?

 いや、なにも言うまい。

 やりきった顔をされてしまった以上、敗北は決定的だった。

 お互いに黙ったまま席から立ち上がった。

 ぎぎぃ、と。床と擦れる音は静かなほど際立って不快だ。強張った体をほぐすために伸びをすると当然、欠伸もついてまわる。

 なんとなく頭がすっきり冴えた気分。

 外はたしかにいい天気だ。

 出口で待っているナギに追いつこうと一歩、踏み出したところでぐしゃりと音がした。

 一瞬、真っ黒な想像と押し出されて液体が駆け巡ったけれど、勇気を持って確認してみればなんてことはないゴミだった。さっき漁った時にこぼれ落ちたのか。

 変哲ないバーの包装。いくらでも類似品が出回っていて最早何が本物なのかわからない程度のもの。

 だけれども。妙な気がかりが湧いている。

「どうしたの? 早く行こうよ」

「ああ、うん。そうね」

 万能の返事をしてから少し後悔が湧いてきた。一瞥しても五度首が傾いている以外は平常で一安心。

 暗い茶色をベースにしたよくあるタイプのもの。それ以上でも以下でもない、中身を食われ、既に意味を失ったものだ。こんなものはゴミ箱へ捨ててしまうほうがいい。

「なんだ。落としちゃってたのか。何を凝視してるのかと思えば」

 いつの間にか目の前に立っていた。自分の始末を、といった感じでゴミは取り上げられた。

「それにしても、甘すぎだよね、あれは。邪悪な食べ物は嫌いじゃないけどさ、味覚には限度があるって思い知ったよ」

 青い目と青い髪をした少女は事も無げにそう言った。

 私はそれを奪い返し、くしゃっとまるめて、ゴミ箱へ捨てた。

 そして、ナギと一緒に教室から抜け出した。

 階段を下っている間は無言だった。

 歩くままついていくだけ。隣の教室からは当然、黒板を叩くチョークと低く使い込まれた声が聞こえている。

 なんとなく不思議な気分で、浮ついていて落ち着かない。一人では、途方にくれていたに違いない。

 流石に。いくらこの図太さの塊の生き物でも、授業中の校内を散策するほど過激ではなかったようで、真っ直ぐ階段を降りて校舎を出た。

 久しぶりの外の空気は思いの外良いものだ。風は流れ、向かいの体育館棟からはボールが跳ねる音がしている。

「どこ行くの?」

「んー。どこに行こうか。どこに行きたい? 学校から抜け出すのもいいけど…… 七限には出るつもりなんだよね?」

「そりゃあ、もちろん」

「さっすが優等生。じゃあ外に行くのはやめておこう。もれなく戻ってくるのが億劫になるだろうからね。向こうの、保健室の裏にしよう。あそこなら誰も来ないし、静かだから」

 ふと思いついた。だから言った。

「屋上は?」

 別にどこでもよかったのだから、黙っていてもよかったかもしれない。そのほうがよかったのかもしれない。口を開く代償は怪訝な顔だと相場が決まっているのに。

 やっぱり、そうだ。

 誰だって、ナギだって、話が纏ったところに口を出されればこうもなる。怒るには理由が足りず、かといって不快さを感じ、自分の中で整理をつけて、耐えるそんな顔をする。

「…… サキちゃん」

 頭を抱えて屈み込めば被害者に。

「あればそれもよかった。むしろ連れ立ってサボるにはもってこいの場所だけど。ないところには行けないよ。衝立とプールがあるだけでとても屋上とは呼べないよ、あそこは。まるで夢がない。金網にしがみついて生を語るなんてとてもじゃないけど、できないよ」

 ところで、とぐいっと。顔が近い。背伸びをして。ブルースクリーンに映った自分の眼が見えている。

「なにをそんな不安そうにしてるのさ?」

「えっ」

「何を考えてたのか知らないけど、考えすぎだよ。サキちゃんは考えすぎなんだ、前々からさ。曖昧な雰囲気を感じ取る代わりに考えこむのは誰にでもできることじゃない。そんなに早く、深く考えを回せるわけじゃないからね。それはいわば特技ではあるよ? でも、キミはそうやってどこまでも行ってしまう。一人で先走って置いてけぼりにするのは悪いクセだぞ。まったく、そんなに暇ならいっつも心配させられてるワタクシのことでも想ってくれればいいのに」

「あ、うん。じゃあそうする」

 拍子抜け。期待ハズレ。

「ほらほら、行くよ。ちんたらしてると門番に見つかるかもしれない」

 あっけにとられている間に距離ができていく。

 それがたかが一歩二歩でも、嫌だ。小走りになるには十分だった。

「門番て?」

「昼に抜け出そうとするとさ、いるんだよ校門に。日替わり教師ワンコインってな感じで。朝と一緒だね」

 振り返っても、ここからは門の上のアーチしか見えていない。けれど、いるといわれれば確かに、いる。今朝の体育教師が同じ顔で生真面目に立っているのを想像するのは簡単なことだった。

「なんでそんな事知ってるの?」

「そりゃあ見たことがあるからに決まってるじゃんね。朝ボーッとしてるとついお昼を買い忘れちゃうもんで」

 例えば、今朝とか。

「購買があるじゃない」

 毎日嵐に巻き込まれることがわかっていながらやってくる人達が。

「購買は並ぶのが嫌でさ。まあ、あれが並んでいるっていうのならね? 実際にはもっとひどい群がりじゃないか。だから抜け出すってわけ」

「ふーん。で、例の門番はどうしてるの」

「あれだよ、あれ」

 指された先には裏門があった。

「あそこはガードがゆるゆるだからね。鍵さえ作っておけばいつでも出ていけるのさ」

 誇らしげだけれど、あまり誇れることではないだろう。

「サキちゃんならいつでも出してあげるよ。僕も一緒に連れて行くって条件付きで。キミだけの特権だよ」

 指を立てて、ウインクしてみせる。

「私だけ?」

「うん。サキちゃんだけ」

「他に誰かいるときは?」

「ダメダメ。鍵の存在すら知られてはならぬぞ」

 なんでさ。「なんでさ」

「悪さは隠れてコソコソとバレないようにやるのが面白いんだから。二人だけのヒミツだよ」

「一人も二人も大差なくない? ユニットがグループになるだけじゃん。ほら、鈴木さんとか、どう? 仲いいんじゃないの?」

 小柄な体躯を折り曲げ、頬を膨らませ、睨む。

 露骨に拗ねている、それはわかる。

「…… そーいうところあるよね」

 どういうところなのか、聞いてもむくれるばかりで教えてはくれなかった。

 家庭科の教室ではどこかのクラスがエプロンを着て、はしゃいでいる。

 何人かと目があったけれど、誰も見咎めることはせず、あせあせと自分の手元に目を戻していった。

「サキちゃんは平気?」

 無人の一グラを事なく渡りきると口を開いた。

 併設された五十メートルトラックの奥には目的地らしき小さなスペースが見える。

 校舎の影。

 大雑把にしか管理されていない木や草が与えられたスペースからはみ出している。 

「虫は平気じゃないけれど」

「いやぁ、あまりサボったりしないだろう? だからさ実のところ嫌なんじゃないかなって」

「あまりというか、まったくね。まあ、平気、自分でも意外とね」

「ならいいんだけど。嫌なことがあったらちゃんと言うんだよ? 結構、その、抱え込むから、キミは」

「そう? まあ、もう大丈夫だよ」

「そうか。なら、いいんだ」

「けれど」

「ん?」

「こういうのはさ、一度やったら後はクセになっちゃうと思うのよね。まあいいか、って感じで。どんどんと。そうなったら、ちゃんと責任とってね?」

「当然だよ。いつでもどこへでも。キミが行くところへ連れてってくれよ、誰も知らないところへ」

 穴場ってやつなんだろう。保健室の裏というよりは横に落ち着いた。敷地の余白が通路になっていて、角を曲がって行けばゴミ捨て場に繋がっているはずだ。

 それにしても、ここは大丈夫なんだろうか。

「丸見えなんだけれど」

 目の前は丁度連絡用のドアがあり、全面ガラス張りだ。いつも使っている階段もある。

 もし、誰かが保健室へ運び込まれでもしたら、見つかるとかそんな程度でなく、対面してしまう。

 なにしろ、今は。

「へーきへーき。奥は少し鬱陶しいんだ、薄暗くて陰気でね。ここが丁度良いんだよ。虎穴に入らずんば安寧を得ずってね」

 そう言うのなら、そういうことでいいかという気分にさせるだけの余裕を湛えて。

 余計な心配よりは誰もいない廊下の方が真実味がある。

「はい、ハンカチ」

 皮膚は伝えている。汗もかいていないし泣いているわけでもないと。

 手渡された布と当然の行いといった顔を交互に見ても、誰も助けてはくれない。役立たずめ。

「はい」

 受け取って、立ち尽くす。

「? いや。これ、敷きなよ。お召し物が汚れますわよ、お嬢様」

「ああ、そういうこと。別にいいよ、これくらい」

 腰掛けたコンクリートは硬い。布一枚でどうにかなりそうもないほどに。

「サキちゃんはさ」

 腕組みのまま唸っている。

「なにか?」

「サキちゃんは実際、ズボラだよね。図太いというか、清廉なのは見せかけだけで」

「なによ」

「いや、なんでもない。いいなと思っただけ」

 いまいち信用できない笑顔をして、隣に座った。

 透明なガラスに午後の授業を放り投げた制服のままの二人が並んでいる。

 目を閉じても存在を感じられる距離に、誰かと座っているのは初めてのことかもしれない。

 なんて。

 半端に終わった昼寝が蘇ってきている。

「あっ、そうだ。ソーダ」

 眠気は死んだ。

「喉乾いた気がする。買ってくるよ。何がいい?」

「何でもいいよ。冷たいやつ」

 敬礼を投げた。

「じゃ、一人で泣いたりしないでね」

 保育園に放り込まれる子供じゃあるまいし。

 そう考えながら息を吸うと、暇を持て余した校長が何気なく散策しだして意味もなく保健室を覗いたりはしないかとか、野生の鹿に襲われてカツラを剥ぎ取られやしないかとか、世界を変えられるのは私しかいないけれど世界ってなんなんだとか、寸暇と見た脳があれこれ話かけてきた。

 努めてぼんやりと、肘を膝に乗せ、遠くの壁を眺めてみても議題はのぼり続ける。

 やっぱり、何も考えないのが一番難しい。

 ひとつくらい意識の上で転がしてみてもよかったのかもしれないけれど、どれもタイトルばかりで中身はなさそうだった。

 右肩に強い風が当たった。

 無人のグラウンドには日光が照りつけているけれど、ここはいい感じの日陰になっている。

 静かになった。

 たまに風に流される葉と烏とが騒いでいるだけで、あとは静かだ。風が吹くたびに影がゆらゆらと揺れている。心地良さを退けることはできそうもない。

 不足はあるけれど、たまにはこういうのもいい。そっと瞼が落ちていくのがわかった。

 大丈夫。

 きっと、起こしてくれる。


 ――一層強いざわめきにハッとした。

 透明なガラスに、退屈そうな私と並んで立つ何者かに気がつくと、ゾッとした体は硬直してしまう。目では捉えていても認識が追いついていない。

 さながら、奴を見たときの如く。

 こんなときにも暢気に呼吸をしている肺によって、あれが隣に立っているのではなく薄暗い向こう側に居ることは理解できた。こめかみに溜まった汗を気にする程度には余裕がある。

 いたずらでも横着でも、たしかにドアはあるから行き来できるわけで、でもならば、なんにせよ内回り最短で階段の影から出てくるほうが正しいわけで、そもそも、遠くからでもわかるサイズの違いが警鐘を鳴らしているわけで…… あれは誰だ?

 まだこちらに気づいている様子はない。下手に動くよりも堂々静止していたほうが安全だとの言い訳に従う。隠れたら私からも見えなくなるという現象は思いの外、退屈そうだったから。光が一方的に都合良く曲がればいいのに。

 一歩一歩、ガラス越しにでも音が響いてきそうなほど高らかに踵を確かにつけては離し、大げさな足取りで歩いている。

 シルエットは男の大人で背が高く、見られていることを常に意識しているかのように脇目を振らず真っ直ぐな姿勢。落ち着いているけれど、かといってリラックスしているようでもないから学校関係者ではないのかもしれない。

 もう少し近づけば容貌も見えてくると期待していたけれど、近づくにつれ光が反射して顔はよく見えなくなってしまう。

 それでも、やはり背が高く紳士然とした振る舞いは変わらない。

 召している黒いスーツが立ち姿に良く似合っている。マネキンかなにかが歩いているような不気味さすら感じてしまう。顔が消されている今、彼は何者でもない。

 気の抜けた観察とは反対に、次の一歩は重要だ。

 もし万が一前進するようなことがあれば、なにはともあれ面倒な事になるだろう。そういう時に頼りになりそうな器用娘は頼りにならず、出かけている。携帯されない携帯電話。保健室に入られたとしても面倒はやってきそうだ。

 今更、困った状況が理解できた。

 なら、どうあれ、どうにもならないのだから早く決めてくれれば楽なのに。微動だにせず、立っている。

 一瞬は変な人だなと思うこともできたけれど、異変への興奮が去ると、気づかれたのではないかという事実だけが重く残っている。

 階段を目的に無心で歩いてきたというのに、十メートルもないところに異物を発見してどうしたものか思案している、そんな、彼の為のストーリーはいくらでも想像できた。

「なんとも卑しい趣味を持っているな」

 なんて非難が頭の上から飛んできているような気さえする。顔が見えなくても。

 そんな蛙の目はポケットに釘付け。

 遠くではわからなかったけれど、手を入れている。実は体を揺らして歩くチンピラだとか。もしくは癖? いつの間にか根付いて離れないものは一つや二つあったほうがそれらしいという紳士的配慮か。それとも……

 蛇を前に立ち向かうことも逃げることもできず身近な死を感じ取るばかりの体とは対象的に、私はそんな無意味さに惹かれていたり、人生というものは案外そんなものなのだなんて考えたり、えとせとら。

 じっとしていると男は去っていった。

 災禍は杞憂に終わった。

 深呼吸をして温まった脳を冷やす。

 たまたま手に持っていたハンカチで汗を拭いながら、飲み物に思いを馳せていた。

 男は案の定、階段を登っていった。

 なんだったのだろう? 授業時間内に外でのんびり座っている者が言えたことではないけれど、あれは異物だった。もしかして、不審者。

 そう思うと、記憶は彼からスーツを剥ぎ取りサングラスとマスクとフード付きのパーカーを着せている。避けられない記憶の作り変えに引きずられないように考えを動かさなければ。

 招かれざる客、在るべきではない存在、そういった否定ばかりでは不公平だ。そもそも、それにしては我が物顔で歩きすぎていたじゃないか。きっと確実に、何か大いなる事情を抱えてここにやって来た、そうに違いない。同情を持って接してもいい、今なら。

 しかし。わざわざこっちの階段まで来なくても廊下の奥にも階段はあり、そもそも入り口に大きな、来賓用にになっているものがある。

 ともすれば、体育で無人の教室を標的として人目につかないよう一階を移動していた…… ? うん。

 たとえそうだったとして、過ぎ去っていったのだからもう私には関係のないこと。余計な騒ぎに巻き込まれたくはない。

 私はここにいたい。それだけが残った結末。

 そこまで考えて尚、良心らしきものが簡単には割り切らせてくれない。かといって、恥を感じられるほどの正義感があるわけでもなく、悶々としているのも結局は自分の納得の為にすぎない。つまりは偽善。事が起こった時に湧く罪悪感を嫌がっているだけ。

 これでいいのか?

 いいんだ、これで。

 輪廻が渦を巻き ――「いっ」

 解決しないことを悩んでいる間に、危険は身に迫っていた。

 情けない声と共に心臓が跳ねた。

 今度は私がつまらないことで硬直していた。体は気配を感じ取っていたのだろう。

 頬に冷たい物が押し当てられている。

「ベタないたずらだね。カビの匂いがするよ」

 自分の行為に呆れて、自分で笑っている。

 手渡されたペットボトルは少し湿っていた。

 紫色の液体、味は飲むまでもなく、よく知っている。自販機を眺めるとこれが落ちてくる仕様らしい。

 だから今更感動はないけれど、いつでも美味しいとは思える。過激なオチは一度で飽きてしまうのに味覚はむしろ熟れていくあたり、よくできている。

「あのさ……」

 ナギのペットボトルは既に三割減っている。

 口をつけたままの横目と目があった。白い喉を液体が通っていった。

「炭酸にしなかったんだ」

「だって、嫌いだからね」

 そう言ってまた一口飲んだ。

 特に考えもなく、目についたものに反応してしまうなんて。言うべきはこんな事じゃないのに。なにを。

「なんだよー。勢いってものがあるじゃないか。その場の。たしかに思いつくまま発言するのは考えものだけどさ。あまり掘り返さないでくれたまえよ、恥ずかしいじゃないか」

 そう言って、また飲もうと咥えた。

「?」

「?」

 混乱だった。

 多分、噛み合っていないな、と僅かな沈黙の中、目だけで理解できた。

 最初に顔を崩したのはナギだったと思う。いや、絶対にそうだった。私は釣られただけ。けれどなんとなく、嬉しかった。

「ねえ」

「うん?」

 何度でも振り向いてくれるのだろう。その度に言い淀んで、機会をふいにするのが人間だ。

 仕方ない。あれは私だけが出くわした事件で終わり。

 炉端の石に躓いたようなものだと考えればわざわざ報告することもあるまい。明日には忘れているだろうし、言わなくたってなにも変わりはしない。

 言ったところで……

 そう決めて、キャップを回した。「男がいたんだよね、スーツ着てさ」

 おぞましい音が聞こえたのはその時だった。他人事のように驚き、それがまた次の驚きを生む。なんだなんだと警報が鳴りはじめればもう、収拾がつかない。

 視界が紫色で染まっていた。

 出ていく空気と入れ違いになった液体がそのまま肺を侵した。

 口からはうまく飲み込めなかった余り物達が溢れ出ている、がそんなことを気にしている余裕なんてない。防衛本能が赴くままにさせる事しかできない。何か言っているけれど咳き込む音で全部掻き消されている。

 生死の境っていうのは案外すぐそこにあるんだな。

 白い門がチラついて、明滅して、それから――

「ちょっと。なにかあったの?」

「あー。多分平気、むせちゃっただけだから」

 聞いたことのない女性とナギが話している。

 今は、下を向いて呼吸をするので精一杯だ。

 酸素、酸素、そう思うほど、大切なものは失われていく。

「ならいいけど。ちょっとでも違和感が残ってたらすぐ来なさいね。そういうのを軽く見ちゃダメよ」

 声の主がそう言うと、バタンと閉まった。

 咳が治まって最初に見えたのは心配そうに見つめてくる眼だった。

 背中を擦ってくれている。

 自分の体の大きさがわかっていない人がたまにいるけれど、あれはまだマシだなと思う。

「大丈夫?」

 返事のつもりで口を開くと替わりに咳が出た。

「駄目みたい」

「やれやれだ。ほら、まだ口から垂れてるよ」

 されるがまま、拭いてもらう。今更、恥も外聞もないけれど、せめて自分のハンカチだったなら。

「しかししかし、いくらなんでも不器用すぎる…… なにがどうして話しながら飲もうなんて。ほんと、当たり前の事ができないよね、キミは。口は一つしかないって習わなかったのかい? 電車は降りる人優先だって」

 自分でもどうかと思う。

 けれど、これが私だ。割り込んできたのは私であって、私ではない。

 ようやく、一息。吸って、吐いて、手を握れば手は閉じた。

「ありがと。助かった」

「なになに。当然のことをしたまでさ。無事でなによりだよ。無事じゃなさそうだけど」

 平和な笑み。

「ハンカチ、どうしよう。新しいの買ってくればいいかな」

 染みを通り越して、最初からこの色だったという様相を呈している。スカートを守りきったナイトは血塗れでぐったりしている。

「そんなものは洗えば済むことさ。それよりもシャツの方が大変だね。染みにはなるだろうし、ああ、もう助からないぞ。なにより着心地が悪そうだ」

 言われてみれば返り血を浴びたが如く、染まっている。生きた心臓を突き刺したとしたらこうもなるかもしれない。そんなもの、想像するのもお断りだけれど。

「ちょっと待っててね。任せておきなよ」

 言って立ち上がった。

 おそらくは保健室のものだろう窓を叩けば中から案の定、若い女性が顔を出した。

 まあ。まあ、そうなるな。

 でも、なんのつもりで、面倒にならなければいいけれど。普段でさえ、保健室の世話にはなりたくないと思っているのに、今放り込まれたらきっと罪悪感が立ち戻ってくる。

 眺めていても会話は頭に入ってこない、不思議と。聞こえてはいるのに。

 どういう関係なんだろうか。ただの教員と生徒の間柄にはとても見えない。とても。とても。

 窓に手を置いてから中々動かない。少し長いとても長い。

 やけに、……

 窓のサッシに置かれた手を凝視している自分が気持ち悪くて、これ以上見ていられなかった。つい目を逸した先には空がある。

 こんな時間にカラスが二羽、頭上を回っている。番だろうか。大きな円を作って遊んでいる。前も後ろもなく、楽しげで、不吉な予兆は感じられない。

「これに着替えなよ。そのうち洗って返せばいいってさ。流石にシャツのことまでは頼めなかったから、諦めるがよろし」

 渡されたものは見慣れた体操着だった。本来ならば、今の時間着ているはずの。

「知ってたの? これ」

「ああ、うん。寝るならこれに着替えろっていつもいうんだ。お母さんみたいに。制服がシワになるからってさ。だからなんだって感じだけど、こっちのほうが楽だし、それに立場は弱いからね。面倒だけど従うのさ」

「ふーん」

 聞いていないことまで話すのはなにかを隠す為なのが常。あるいは、思い出した出来事がそのまま溢れ出たときだとか。なんにせよ。

「なんだい? 顔がこわいぞ」

「なんでもない。それで、やっぱりここで着替えるの?」

「他にどこで着替えるんだい? ほら、早く早く。風邪引いちゃうよ。女子は脱ぐのが上手じゃないか、脱皮みたいにヌルっと着替えるやつ、あんな感じで。ぼくとしては大いに反対だけど。どうやってるのかもわかんないんだけど」

 やけに熱っぽいな。

「いや、上は無理でしょ」

「じゃあじゃあじゃあ、じゃあこれで隠してるから。見ててあげるから。ねっ? ねっ?」

 食い気味にジャージを掲げている。

「わかったわかった。じゃあ、それでいいよ」

 まあ、誰が見ているわけでもないし、見られたところで何にもならない。

 気がかりはむしろ、防壁を買って出たこの狸だ。尻尾に手を出してみたら簡単に飛びついてきたこいつ。

「そんなに見て、面白い? 着替えなんて週二回は見てるでしょ」

「外では初めてだからね。緑を背景に、なんて、中々お目にかかれるもんじゃない。それに、二人っきりでこうしていると、なんだかとてもイケない事をしているみたいで……」

 腕を自分に回して、空気と抱き合っている。

「それは、そうね。イケないことしてる最中だし」

「…… そうだったかもしれない」

 下はそのまま、上はジャージというスタイルには若干のパンク精神を感じる。着てみれば意外と悪くない。ありもしない反骨心が呼応した、のではなく怠惰な性分の私が歓迎している。ブラウスよりもずっと楽だ。

「なに? なんか変?」

「フェっちいね、ぐっどだ」

「そう」

 喜んでいただけたようでなにより。

 相変わらずコンクリートは硬い。濡れたらふやけてクッション性を持つくらいの柔軟さが求められている。

 惨劇の痕は日に乾いて消えていた。それだけで、セミが鳴いている気がした、そんなわけないのに。

「あれは誰なの?」

 戦禍を靴の先でなぞりながら。

 やっと。単純なことほど切り出すには勇気がいる。後ろめたければ尚更。愛の告白をしようかしまいか思い悩む人々、その気持ちがなんとなくわかった。

 答えがYかNかでしかないとき、得てして悲観的なものだ、人間は。

「保健室の先生ってやつだよ。養護教諭。ま、知らないに越したことはないね」

「それはわかるけれど。それだけ?」

「なにを期待しているんだい? 実は街を守るヒーローだとか、そんな類の事なら、ないよ。いわゆる普通の人、至ってね。健全で善良な一市民のうちの好ましいタイプだと思うけど」

「いや、別に? やけに親しげだったから」

「なにさなにさ、もしかして、妬いてるの?」

「かもね」

 本当のところはわからない。

 ただ、にやけた顔が鼻についたというだけだった。のに。

 いつものように、すぐ何かくだらない思いつきだけの言動でも、言ってくれればいいのに。

 真に受けた?

 まさか。

 でも、謝られでもしたらどうすれば。どんな顔をして何を言うのか。

 ガラスに映っているのは誰だ。

「むぅ」

 開きっぱなしだった口が不服そうに歪んだ。

「妙にからかい甲斐がないなあ、キミは。わかった、ぼくの負けだよ。ごまかしのない真実を話すとしよう。といっても事は単純で、彼女がいるからここにいるってだけの話なんだけど」

「嫉妬で狂いそう」

「まあまあ。要は保険だよ。保健の先生を保険にね。こんなこともあろうかと手を回しておいた、わけではないんだけど、まったくの偶然というわけでもないのさ。保健室の裏で、気分が悪くて外の空気を吸ってました、と言われたらそれ以上は何も言えないだろう? そういうこと」

「利用するつもりで近づいたってこと?」

「そうじゃないよ。そこまで邪ではいられない。始まりは用があって知り合って、そこから仲良くなって協力してもらう、その順序は守らないとね。でも今、ここを選んだのはそういうことだ。いざとなったらキミだけでも匿ってもらおうってね。一人だったら―― どうだろう」

「他のところへ行っていた?」

「んー。そうは思わないな。なんだかんだとここに座っていたんじゃないかな。無意識にでも。ここが安全なのは知っているから」

 手をついて半身を捩った、顔はすぐそこにある。

「だからさ、サキちゃん……」

 なにともつかない、甘い、いい匂いを漂わせ。

「なっ、なに?」

「んーん。なんでもないっ」

 風が髪を靡かせて、ついでに残り香も連れ去っていった。

「言いかけでやめるのは」

「最低って? じゃあ、聞く?」

 次に、私はなんと言っていたのだろう?

 ナギの大きな欠伸によって流され、話は打ち切りになった。

 肝心なことが煙に巻かれたような気がするけれど、それ以上何か問い詰めるのはいい加減しつこいだろうし、そもそも自分が何を知りたいのかがよくわからなくない。

 また小さな風が頬に当たった。

 すでにどうでもよくなっている。

 そんなことより今は、こうしている時間が重要だ。すべきことを放り出して何もせず無為に過ごすのもたまには必要なのかもしれない。暇でも退屈でもない、何もない時間が頭を空っぽにしてくれる。隣で座っている人も大きくうなずいて同意した。

「それで?」

 はっとしたように顔を挙げた。半開きの口と潤んだ目を隠さずにいる。

「寝てたでしょ」

「寝てない」

「よだれ垂れてるけど」

「寝てないってば。そんな失態を犯すはずないじゃないか。ちょっと少しばかり未来を見ていただけだし、そよ風とか日光とかに負けたわけじゃないし。それで…… そうだ、なんだったのさ。男がなんとか言っていただろう? ほらほら、話を途中でやめるのはよくないぜ」

 すっかり忘れていた。

 そろそろ用事が済んだ男が降りてきてもおかしくはないのだけれど、それは絶対に起こりえないと、謎の確信がある。

 もう二度と会うことはない。

 だから話すべきかどうかはわからない。

「スーツ着た男が廊下の向こうから歩いてきて、階段を登っていったからさ、ナギなら何か知ってるかなって」

 半分程生き残っていたペットボトルは汗をかいていた。

 コンクリートが円形に濡れている。中身はもうぬるくなっていて甘さが目立つ。

「んー。こんな時間にふらついてるなら教師じゃないよね、流石に。そもそも、この学校スーツ着てる人ほとんどいないし。わからないな。外部の査察とか?」

「だとすると、案内が付いてないのは変じゃない? 先生も何も言っていなかったし、生の姿なんて見せられたものじゃないのに」

「朝にかい?」

 そういえば、遅刻だったな。

「うん」

「ならもうお察しの通りだ」

 世界一の探偵と違い、そこらの探偵は一瞬の考査で結論へ辿り着き、それを語り始めた。

「ワルモノしかないね。ジャージとスーツならどちらが侵入に容易いかは明瞭だ。どうしてこっちまで来たのかは本人に聞いてみるしかないけど、侵入経路は駐輪場からだ、自販機の方には誰一人いなかったから」

「だよね。どうしよう」

 どうもしたくない。

「どうもこうもないよ。正義とはおさらばしている身なんだから。あなた達はなぜそこに? なんて問われるのはゴメンだよ。我が身の自由は可愛いものさ。だから、後は誰かの運次第。そうだ、顔は見えたのかい?」

「いや。太陽が反射していて上の方は見えなかった」

「太陽が? そんなはずはないと思うんだけど…… まあいいや。なら、向こうからはこっちがよく見えていただろうね。随分冷静な来訪者ってわけか」

 ナギが腕組みをしてうつむくのは何かを考えている合図、それに気づいたのはいつだったっけか、なんて事くらいしか考えていなかった。

 最早簡単なミステリーは去って味のしない部分だけが残っているはずなのに、スプーンは不満足げにパフェの底をかき混ぜている。

 何かを求めて。

 カチャカチャ、カチャカチャ。

 何かが……

 ……

 同時だった。示し合わせたかのように、目が合う。

「気づいた?」

 顔が引き攣っていた。結論は同じのはずなのに。

「うん。でもお腹が空いてたのかもしれないし」

「どうしても急ぎ一服かましたくなったのかもしれない」

 理由はいくらでも。それぞれ現実的で魅力的だった。

「男がいた。それだけ。それだけだね?」

「それだけ」

 何も起こらなければそれだけの話。

 地下に湧いた影が蠢くなんて、そんなことはありえないのだから。

「なーんだ。それだけか。ならなにも問題はないね。そういった類のエラーはどこにでもいつでも発生するものさ。結果がどうでるかは未知だけど、今は悩む必要はないんじゃないかな。考える必要もない、だから何もなかったといっても過言じゃない」

 怖いなら、信じなければいいのに。

「ナギって、もしかしなくても怪談とか無理なタイプ?」

「んんんなわけ。ないじゃんね。私が、そんな非論理的言語集に惑わされるとでも? そうじゃなくて、てっきり、もっと重要で、ニブチンなサキちゃんでも言葉に詰まるような、そんな内容なのかと思ってたから。安心だよ、安心、一安心」

 いつかの夏の夜の夢として、映画鑑賞会はその時に。

 会話は続く。

「例えば?」

「婚約の相談とか」

 ゾッとする程ゾッとしない。

 けれど、その理由はわからない。

「あるわけないでしょ」

 一般中流階級平民に許嫁などいるわけがなく。

「わからないじゃないかー。最悪の場合を想定していれば絶望は浅くて済むんだし」

「おかしいよ。貴族じゃあるまいし」

「えー、そうかな。割とお姫様的なところがあるんだけどな、サキちゃんには。まあ、違うならいいんだ。つまり今はフリーで自由の身で選び放題というわけだ、キミは」

「選び放題ではないと思うけれど」

「そんなことないよ、選り取り見取りさ。安心して選びなよ。余ったら私が貰ってあげるから」

「ん?」

「ん?」

 宇宙でも見ているような表情だ。

「ちょっと待って…… いや、いいや。そんな顔しても、何も聞いてあげないからね」

「そんなぁ、余は悲しい。まあ、残念ながら辟易するほど人生は長いかもしれない。気を長くその時を待つさ」

 からかうだけからかうと、静かになった。

 好き勝手なものだ。話したいことがある間は登校から帰宅までまとわりついて話し続けるくせ、そうでない時はまとわりついたまま何も言わなくなる。

 余計な妄想も今は湧いてきていない。

 だから余計な未来へ思いを馳せることすらできてしまう。

 婚約。

 考えたこともなかった、まあ、この歳であるとしたら大した現実家だ、あるいは夢に生きている妖精か。

 いつかこの先、学生という身分から放り出され生き抜いた後の未来で、どこかの誰かと共に生活しているなんて。無理がないか? これまでの十数年で欠片も恋心のようなものを見つける事ができなかったというのに、それはあまりに希望的観測がすぎる。

 一度あるかないか、逃せば二度とないだろう。テキトウに嘯いて冷え切っている様子がありありと浮かぶ。

 今が折り返しだとして三十近辺、保証も自信もないけれど生きていると仮定する。その時まで何もなければ夢を見るアンドロイドでも創って話し相手になってもらおう。それは鏡に向かうようなものだけれど。

 ないよりはマシ。

 悲しげな想像を振り払うように息が漏れた。

 右肩に衝撃と重さとそれから、すぅすぅという人の気も知らない平和な息づかいを感じる。いい匂いを漂わせて無防備な旋毛がすぐそこにあった。

 背景として感じていた風も雑音もまるで消えている。意識を向けてもなにも無い。

 首を垂れてラバーの赤褐色と白線の間を眺める。アリが一匹彷徨っている。

「ナギ?」

 返事はない。ただの美少女のようだ。

 …… まったく。気ままで勝手で。しかたない。

 肩では痛いだろうし、首に悪い。私も重い。ずり落ちた時に支えられるとは思えないから、やむを得ず、しかたのない安全策として。それだけ。他意はない。

 膝に乗せた頭は小さく重い。

 余計に姿勢が悪くなったような。腰に重心が乗っているように見えるけれど、きっと気のせい。

 支えに回した腕が捉えるわずかな膨張と収縮の繰り返しは一定で穏やかなのだから。

 私も少しだけ…… 思ったときにはもう瞼は降りていた。

 静かなのがよくない。気温も、風も、匂いも。

 呼吸とともに、あらゆる理性が溶けていく。

 この世界にはもう他に誰もいない。

 一切が青。

 見えるものも聞こえるものも信じられるものも。

――――

「で、寝てたわけ? あんなところで」

「まあそうなるかもしれないけど」

 教室に戻るやいなや、明るく染めた髪と着崩した制服が特徴的な隣人が話しかけてきた。もちろん私にではなく。後ろの席に向けて。

 壁に背をつけたまま、行き場を失ってしまった。やむを得ず、会話に居座る。

 箱に囚われていた40×8×3が一斉に開放された校舎は人で溢れていた。廊下、階段、色々な方向を向いて歩いたり話したり。教室の中も散乱としている。

 半分は部活なり帰宅なりで、密度自体は減っていたけれど、騒がしさは相変わらず。むしろ誰もが遠慮せずに口を開いている分だけやかましい。

 そんな中で一人じっと入り口を睨みながら待っていたようだった。

「そうもこうもないでしょ」

 腕組みしながら言った。

「あるんだな、これが」

 多分なにも考えていないだろうナギが返す。

 こうして立ち並んでいると身長差も相まって、親子みたいだ。咎める母親と屁理屈でごまかそうとする娘。

 となると私はなんだ、公平な審判か。弱い父親か。

 ここに理不尽や思い違いが無いことは知っている。なにせ当事者だ。

 問題はそこだった。一緒になってサボっていたわけで、矛先がいつ向くともしれない点だ。その気配が出たら、言われるがままアウトにするしかない。悪く思うな、娘よ。

「そうは言ってもさ、ままならないことだってあるし。人間は弱い。龍之介君だってそう書いたじゃないか。目の前に糸が垂らされていたら他を蹴落としてでも掴んでしまうってね」

「なーにが、ってねよ」

 しばらくは押し問答が続くだろう。そのうちに事故現場を検証しておいて逃げ道を探す。そう、あれはただの事故だった。

 ――五限終了の鐘が鳴っていた。それは覚えている。

 凝り固まった首筋を抑えながら、目を開けた。ナギはもう起きたものだと思ったけれど、ただ下半身の感覚がなくなっていただけで相変わらずの姿勢で眠っていた。

 すっかり熟睡していた。

 声をかけても不満そうに唸るばかりのナギ。

 ざわめく校舎。

 急速に冴えた意識。

 赤く焼けすぎた空。

 肌寒い風……

 それにしても、よくもまあ深く眠れたものだ。夢も見ずに。おかわりだけでなく、屋外で、サボりながら、気が立って眠るに眠れないくらいの条件で。

「そんなつもりじゃなかったんだよ。運が悪かった。いや、すごーく良かったんだけど」

 いつの間にか机に腰掛けて足をぷらぷら浮かせている。

 抱きまくらでも買ってみよう。

「というか、見たってことはだ、田中くん」

 慇懃な態度を示し、反撃に出る。

「その場にいたわけで。実はあなたもサボっていたんじゃないのかな?」

 いいぞ。その調子だ。

 しかし、田中さんには効果がないみたいだ。

 呆れた目はまだナギに向いたまま。

 いいぞ。その調子だ。

「誰かと違って真面目に授業に出てたんでね」

 差し出された指には包帯が巻かれていた。

 血が滲んでいるわけでも、見るからに変形してしまっているわけでもない。よくある怪我の処理だった。

 うぅ、と目を覆って震えている。

 光を当てられた吸血鬼以上の動揺だ。

「折れた? 折れたんだね?! ワタクシが、いや、私が悪かったからポッケにしまってよぉ」

 どうしても見たくないらしい。

 あぁ。下卑た愉悦も今なら理解できそうだ。

「いや、折れてないから。突き指しただけ」

「ホント? でも痛いんでしょ?」

 怯える小動物を囲んだ二人の魔女が互いの顔を見合わせる。

 田中さんもニヤけを隠さない。

 私から許可を見て取った田中さんが鍋に火をかけた。

「ああ、もう死ぬほど痛いよ。ぶつけた瞬間はね、こう、そこにあったものが消えちゃったみたいでさ。灼けるように熱くなって。冷たくなって」

 二度と箸が握れなくなるかもしれない、とも先生は言っていた。

 怪我していない方の手でナギの手首を掴んだ。

 もう包帯はしまってある。けれど目を閉じたままのナギにはそれがわからない。

「そうだ、あんたもさ想像するだけじゃなくて体験してみよっか」

 袖を引っ張られても助けてはあげられない。

「ま、それは冗談として」

 手を離した。

 ナギも顔を上げる。

「あんまサボってると進級に関わるんだから、気をつけなさいよ。この前も注意されてたでしょ。つか、朝だって」

「よくご存知で」

「みんな知ってるって。それじゃあ、私は帰るから。上だけジャージに着替えて何をしてたのか知らないけど、まあほどほどにね。じゃー、また明日」

 苦笑いを浮かべて手を振り返すしかなかった。弁明するにはもう少し時間が必要だ。

「ああ、それと。八彩さん。あなたも保健室の先生にアホ二人をなんとかしてって、くくられてたから。気をつけてね」

「はい。すいません」

 じゃあねー、と気軽なあいさつを残し、出ていった。

 明るい髪色に似合いの軽快さで。

「なんというか、委員長みたいな人だね」

 衝いて出た感想だった。

「委員長?」

「学級委員? 風紀委員? どっちもうちには存在しないけれど。なんか、ちゃんとしてるなって」

 曖昧な、けれど皆勤よりはずっと確かなものがあった。

「そうだね。真面目で優しい人だよ。本人に自覚はないみたいだけど。色づいた花は照れ隠しみたいなものでさ。ある種の警戒色、意味は反対だけど」

 教室内にも外にも、似た姿の人はたくさんいる。この中の誰もがそうでないことくらいはわかる。彼女固有の美点だ。

 見逃してきたものはきっと、思っているよりずっと多い、そんな気がした。

「ナギは地毛?」

「もちろん。コンタクトも入れてないよ。怖いし」

 下瞼を引っ張り見せつけてくる。

 血の通った薄赤色の目の裏がめくれて見えている。

「ふーん……」

 虹彩の縁は滲みつつ白色と同化している。長い睫毛。これも色が薄い。白目はこうしてみると、真っ白ではなく、浮かんだ血管によってピンクがかって見える。

「ちょっ近、サキちゃん近いって」

「えっ。ああ、ごめん」

 つい。つい身を乗り出していた。

 確かめてみるまでもないのはわかっていたけれど。

「もう。キミは、そういうとこだぞ!」

――

「ところで」

 そろそろ帰ろうとは思わなかった。

「進級、危ないの?」

「全然? へーきへーき。ちゃんと計算してるから心配ご無用。ナイショだよ、みんなには。何も言われなくなるのは寂しいことだ」

「まあそんなところよね。でも、危ぶまれるほどだったっけ? たまにいないとは思っていたけれど、二、三回程度じゃなかった?」

「ひどいやつめ。サキちゃんはもう少し関心を持ってほしいな、私に」

「真後ろだからね、しかたないね」

「もっと用事みつけて振り向いてほしいって言ってんの」

「授業は真面目に受けないと。ほら、私は優等生だし」

 そう。私は優等生。

 特別でもなんでもない、ただ少し成績と態度が良いだけの。

「言いよる言いよる。こんな時だけ。ま、色々小言を言われながらもなんだかんだうまく立ち回って、無事、来年も同じクラスになるところまでは決まっているから安心して眠りなよ」

「そうなの?」

「そうなんだよ」

「そうはならないでしょ」

 机は椅子よりも高い。多少の身長差は塗り替えられていた。

 ナギが私を見下ろす格好で、キミは何も知らないんだな、といった顔をしてみせる。

 まるで。

 知らないのなら、教えてあげるよと。

「私がそうさせるさ。やりようはある、いくらでも。だからちゃんと、優等生のままでいてくれよ、そうじゃないと悪い子にならざるを得ないかもしれぬ」

 邪悪に微笑む。

 どんな悪逆な手をもって事が為されるのかは知らないほうが良さそうだ。

「それは半分冗談として。実際、仲良しグループはわけもなく離されたりしないよ。そりゃ人数の都合はあるけど、配慮はされるんだ。担任だって余計な不和はないほうがいいんだから」

 ――知ってますよね。

「この世は乱数で決まっているわけじゃないってこと」

 ノックの音が。

 あるべき雑音達とは違う、乾いた音に向かって、振り向く。まるで鹿。

 一瞬の無音。

 次の一瞬にはもう、何を言おうとしていたのかは吹き飛んでいた。

 遅れてやってきていた感情と重なったのは初老の男性だった。

 教室にはもう誰も残っていない。

 見回りに来ただけの担任は時計を指すだけ指して、行った。

 二人だけが取り残されていく。

 廊下からサンダルを引きずって歩く音が聞こえた。

「もう暗くなっちゃうね。帰ろうか」

「うん」

 要領の良い娘はそのまま立ち上がって歩きだせるのに、私はといえば、今更背もたれからブレザーを下ろして羽織らなければならないし窓を閉めてカーテンを引きカバンを閉めてから机の中が空になっているかどうかを確かめ、そして自転車の鍵はどこにいったのかなとカバンのポケットを探り始める始末。

 あれ?

 ブレザーの内ポケットにはない。出てきたのはガムの包み紙だった。

 その時噛んでいたガムはどこへ……?

 そんなことよりも。

 意味のないところを叩いても当たりはない。デザインでしかない外ポケットも、カーディガンの――

 ポケットにもなかった。開けたついでにブレザーも押し込む。

 確かめるまでもなく、カッコワルイ。

 後は、あとは―― 財布。

 無かったら今朝の私を今の私は恨むぞ、そんな念を込め、バネホックを外す。

 家の鍵と小銭に紛れてストラップが顔を出していた。

 あればいいんだ、あれば。財布を膨れたカバンに落としチャックを閉める。

 無言のままナギがずっとこちらを見守っていた。

 鍵をつまんだまま、縛り付けられて。

 夕日の影に立っている。

 違和感がないことがすべての違和感だったんだと気づく。

 どこかで見たような。

 あなたは

「どうしたの?」

 、と尋ねる。

 私は……

 私は。

「なんか見たことあるなと思って」

 声を聞いて、確信した。

「夢の中ででも見たんじゃない? キミは泣いていたよ」

 ただの気のせい。

「ほら、行くよ。一緒に帰ろう」

 ナギは微笑んでいる。

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