スピン

 どれくらいこうしているのだろう。遠くで弾ける煌めきも消えた。

 どれだけの数奇な人生が、

 どれだけの特別な人間が、

 この穴の中を落ちていったのだろう。

 きっと、また、次の誰かが覗いている。

 どこにも、私を支えていたものは無く、転げ落ちるように、ただ

重力に従って落ちただけ。


ゆっくりと、暗闇を歩いて落ちていく


夏は過ぎ去って


彗星より早く、堕ちていく


――――――――――――


 ここはどこだろう。

 また、暗い場所から。

 繰り返して繰り返しながら繰り返す。もう少しだけ時間が欲しい、そうすれば…… そうすれば? …… それは自惚れでしかない。わかっているのに、また。

 死にゆく者が視る最後の夢のように、情報の氾濫が押し寄せては引いていく。

 色々な憧憬が浮かんでは消えた、色々な雑音が浮かんでは消えた。

 地面が無いから立つことができない。真っ暗だから落ちているのかもわからない。ぽっかりと浮かんだ無限の空間。ここではどんな光も影を生めはしない。

 記憶の断片がまた過ぎ去っていった。

 冷たくて暗くて、けれど苦しくもない。ここが天国か。そうだったらいい、そうであってほしい。静かに眠り朽ちるには、これ以上求めるものはない。

 遠くで誰かが歌っている。聞き慣れない声、リズムもなにもない和音の集合体。好き勝手で我儘で、心底むず痒い、耳を塞ぎたくなる。

 恥ずかしい、奥歯がぎりりとする。「だから、わたしは耳を覆っている。頭を抱えて無視しようとしている」けれど歌声は離れるどころか、むしろ、明確に。塞ぎ込もうとするほど、逆説的に存在が肯定されて、「目に映っているものを否定できるほどは狂えていないのがらしいと言えば、らしいのかもね」

「ねえ、いつまでそうしているつもり?」

 腕も脚も切り取られたように無感覚だけれど、呼吸の調子は感じている。夕方から惰眠を貪った夜のようだ。目を覚ましても真っ暗で、「ねえってば」微睡みの快楽は朝ほど濃くなく、このままもう一眠りしてしまう気にもなれない。

 もう眠りたくはなかった。

 目を閉じているつもりでも薄目で周囲を窺っている。つい、そうしている自分に気がつくと、起き上がるのにも理由が必要なことに辟易とする。

 深い息を鼻から吐き出して、最後に残った、唾の苦さを味わうとしよう。そう、私はここを知っている。

 目覚めとともに浮かび上がった白い靄を私は知っている。

 いいや、そんなものではない、ずっと、見えていた、前を向いていても後ろを向いていてもそれはそこにいた。睫毛に引っかかった光の屑だと思いたかっただけ。

 それは一回り小さい存在。真っ白なワンピースが華奢で儚く脆いことを宣言している。白く伸びた手足、無垢なままの黒い髪。見た目はまあ悪くない、清純そのものだ。

 けれども、私は中身を知っている。苛烈で我儘で害敵には噛み付き振る舞いは至って生意気な、とても社会で生きてはいけない怪獣だった、寂しがり屋で甘えたがりな脆いガラス細工だった。そして、行き場のない無力感を持て余していた。

 私はこの娘を知っている。よく知っている。他の誰よりも、何よりも。

 認めたくはないけれど。

「やっと見てくれた。このまま、忘れ去られていくものだと思っていたけれど」

 そんなつもりはなかった。私はただ…… やむを得なかっただけ。忘れられていれば、それは楽ではあったのだけれど。

「わたしは未だにこんななのに。図体ばっかり大きくなっちゃってさ」

 背伸びをしてみても、腕を広げてみても、華奢な体を強調ばかりだった。祖父母の言う感嘆の意味がなんとなく、わかる。

「ここはあまり変わっていないみたいだけれど」

 そして、決まって見せていた、バツの悪そうな表情も。

「それにしても、ここはどこ? だなんて、ずいぶんな言い草。こんなところを創って置き去りにして、さ」

 それは仕方のないことだった。なにも見えなかったし、聞こえなかった。情報だけがそこにあったのだから。

「あーあ、わたしはかわいそう。突然降って来たかと思えば、ほら、天井にも穴が空いちゃって。わたしは言いつけどおりおとなしく膝を抱えて丸まっていたのに。今度はどんな仕打ちをするつもりなのかな? 腕でも捻りちぎられちゃうのかな? それとも…… ?」

 意味ありげに微笑んで見せるけれど、そこに深みはない。

 ただあてつけとして、そうするだけ。

 子供だ、いつまでも。

「別にさ、ここが嫌だと感じたことはないよ。思い知ってのとーり、わたしは根が陰気でねがてぃぶな質だからさ、暗いとこで一人でいるのもそう悪くはないんだよね。慣れちゃえばそれで、居心地は良い。見ようと思ったものは見えるし。落ちてくるのはガラクタばっかだけれど、それが掘り出しものだったりしてさ。なんてったって、鑑定士がダメダメだから」

 言われて見渡したそこには、なにもない。

 また適当を言っているのか、それとも、私にだけ見えないのか。

 どうでもいい。そう感じる。もう、どうでも。

 ただ、嫌悪はなかったという言葉は慰めとして十分だった。相手が誰だとしても、自らの手で薄汚れた独房に押し込むのはいい気分じゃない。

「だけど、見てられないんだよね、そろそろ。寛大なわたしも流石に我慢の限界。いいよね、あんたは好きに見て好きに感じて好きに選べるんだもん。どれだけ豊かでも、わたしにとってはただ積もっていくだけ。飢えてる人の目の前でさ、屑をぼろぼろ零しながらパンを食べてるんだよ、あんたは。ほんとーに、ムカつく。なにも選ばないあんたの生き様だけが、すとれすなんだ」

 ……

 本当に何も知らなかったんだ、私は。歯根が疼く。愚かだっただけじゃない。そのことにも気づいていなかった。ケーキでお腹を満たそうとする子供だった。だからといって、良心が救われるわけじゃない。けれど判断は正しかった。私は、悪くない。

「なにその顔。聞こえてる。無駄無駄。外でどうだか知らないけれど、隠し事はできないんだから。悪態をつくときはちゃーんとそのお口を開きましょうねー。表情を変えずに、そんなやり方ばかり覚えちゃって」

 口腔に指を突っ込んでくる。

 躊躇わず、異常も感じずに。

 そういうところだ。そういうところが。

「ねえ。替わってあげるよ。辛いんでしょ? 嫌なんでしょ? ここにいるってことはそういうこと。だったらわたしが替わってあげる。全部にケリつけてさ。あんたはそのまま横になっていればいい。簡単な事。今までどおり。るーちんわーくだよ。得意だもんね。同じことの繰り返しは。気づいたら数十年。それだけ待ってればいいから」

 現実が見えていない。直視した気になって、その実、何も見えてはいない。本当に、何も見えていなかった。結局、同じこと。繰り返し繰り返し、そして立場を変えて戻ってくるだけ。光の当たっている芝が青いだけなんだ。立った途端に、影が覆うとも知らずに。

「そうやって惨めに這いつくばって、被害者面しながら夢を視てればいいよ。それがあんたにはお似合いの生き方。いや死に方? まあ同じだよね。だってあんたは――」

 ………………。

「こわいこわい。そうだ、なら、わたしを殺しなよ。わたしを殺して? いい加減に。いいよ、それで。簡単でしょ? ナイフはいらない。手も汚れない。ぬるぬるべとべとに嫌な気分にならないんだから、さ。ただなにもかも忘れて、どこまでも行けばいい。わたしも知らない底まで落ちていきなよ。独りで生きていけば。目の前のなにもかもから目を背けて、一人じゃないのに独りみたいに振る舞っているのは心地いいもんね」

 …………。

「知ってるよ、あんたにわたしは殺せない。だって――」…い。

「独りは怖いもんね。お人形さんっ!」

 

 ………………………………………………………………――――――――――――


「うるさい!」

 少女は目を開けた!

 奥歯を軋ませ、顎を震わせながら捲し立てる。

「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。うるさいんだよ、全くっ! 大人しくしていればいい気になりやがって。くどくど言わなくたってなに考えてるかくらいわかるんだ。聞こえてるんだろ? なら私にだって! 私だってわかってるんだ。わかってる。でもっ。ただそれは見せちゃいけない絶対に見せられない。誰にも、そう、わかってるんでしょ、誰も、見ちゃいけない。表に出さなかっただけでずっと、ずっと――」

 こみ上げた胃液を飲み干した。口端には泡が。

「それを言葉にしたら! 考えて考えて考えてどうにかなっちゃうんだ。いち足すいちがよんならまだいいさ。それで終わりなんだから。ごにもろくにもなって全部間違っていてまたにから考え直して、屁理屈を言って、こじつけて、偽って、答えを合わせながら騙し騙し、それでも最後にまた戻って繰り返して…… でもそうするしかなかったじゃないか。理由なんて無い。死にたくなかったわけじゃない。そんなことはどうでもいい。むしろ! そうであってくれればよかったんだ、考えもしなかったけれど」

 片側だけを上げて笑う。教わった通りに。

「そりゃあ…… 私だって寝て起きての繰り返しには気づいていたさ。誰だってそうだ。知っている。だけれど辟易としながらスープを飲み干すんだ、みんなと一緒に。食べないと死ぬ。それと同じ。本能がそうさせるんだ植えついてしまった本能が。疎まれるのは面倒で好かれるのは退屈で好きになるのはなにより怖かった。だって、だって。それで失ったら? 好きになってから失ったら? わからない、わからないよ。なにが大事でなにがあればいいのかなんて。わかるのはいつも失ってからだ。みんないなくなるんだ、どうせ。なら初めからいなければいい。知らない事が一番の幸福で見て見ぬふりがその次で。しかたないじゃないか。しかたが」

 蹲ったまま動かない。静謐が。そして目を見開いた。また、唾が飛び始める。

「だからっ! だから私は独りになった。一人にならないために独りになった。そうさ、無駄だったよ結局は。なにも無かった。どこにも、なにも。そんなことはわかってる。私だって、ちゃんと、ずっと…… わかっていたのに」

 少女には無限の後悔だけが残った。語れば語るほど現実に変わっていく。息苦しさは増していく。少女はまた蹲ったまま、電池の切れた人形としてそこにある。

 暗い穴の中で唯一人、それを見つめている者がいる。

 その者は何一つ言わないでいる。

 渦に飲み込まれていく憐れな漂流者を前にしてもただ、じっと。

 すぐに脚は飲み込まれていった。腹、胸と法則に従って沈んでいく。そして、最早無意識のうちに伸びた手が無意味に空を掴む様だけが浮かんでいる。

 助けを求める声がする。

 言葉を求める叫びが聞こえている。

 悔悟が悲嘆が自嘲が、渦を濃く廻す。

 その時その者はまた独りになった。仙人に成る為にでなく、自分に成る為に、その者はずっと立っていたというのに。

 親の遺産を使い込んだわけでもない。僥倖をどぶに捨てたのでもない。理不尽な一方的な幽閉の末に、ソレは飲み込まれていった。

 初めて感情というものを知った。

 握りこぶしに力が入る。

 眉間にシワが。

 対して、呼吸は穏やかだった。

 鼻腔を冷たい空気が通っていた。これは、じぶんの。

 音が――

 聞いたことのない音が迫っている。きらい。

 急かすような音に耳を預けているうちに、思い出しはじめている。

 スイッチを……

 声が聞こえる。遠く、遠くの呼び声が。

「あなたは、――

 覚醒はすぐそこにある。

 なにもかもが手に取るようだった。事実、手には、紐が――


――――


「……独りにしないでよ」


――

 見上げれば果てしない巨人に見えた。

「ほら、ちゃんと立ちなよ」

 しかし貸し出された手はやはり小さく、けれども強くサキを引っ張った。

 向かい合っている頭はずっと低いところにある。

 サキは泣いていた。今は元来の勝ち気な澄まし顔に戻りはした。だが流れているものまでは隠せない。尤も、二人にとってそんなことはもうどうでもいいことだった。

 どういうわけか、小さい方が腰に手を回し抱きついた。

 抱き寄せてあげたつもりだった。しかし、傍目には一目瞭然の格好。姉妹を通り越して、母に泣きつく娘がそこにはいる。

「判断は間違いじゃない。結果は最悪だったけれど、なにもしないよりはマシだった」

 腰を、頭を、愛撫の意味を知るのは当人達だけ。そして、気まずさを感じるのも当人達だけだった。

 情熱は過ぎていった途端に恥辱に変わってしまうものだが、サキの場合はそうではなく、ある一つのイベントとして残った。

 朝になれば頭痛が来る予感はあったが、特別の不安はない。

 とはいえ、清々しいわけでもなかったが、それはそれ。その訳を知るにはまだまだ経験が必要だった。

 互いの喉元や生え際、あるいは後頭部を行きつ戻りつする暫しの沈黙は、ひどく気の抜けた溜め息によって打ち破られた。

 どちらからでもなく、別れの段を悟った。

 そっと離れ元の位置に立つ。物理を適用するのなら、約一メートル四十センチの距離がある。

「一応言っておくけれど、あまり仲良く振る舞うのも考えもの。どうあれ、友達ではないんだから」

「うん。そうね」

「わかってるのね。ならいい。長居は無用でしょ。それじゃあ」

「うん」

――

「あのさ」

「聞いてた? 話」

「なにが?」

「…… まあいい。いいよ。今だけは許してあげる、わたしは寛容な存在だから、さ。で、なに?」

「いや、なんでもない」

 なんでもなかった。

 なんとなく間が嵌ったというだけで、ちょっと青を置いてみようといった画家的気軽さが音になったにすぎなかった。

「はぁ? なにそれ。言いかけてやめるなんてサイテーよ、サイテー」

 これみよがしの不機嫌に返す言葉が見当たらない。

 それでもなんとか、抗議に促される形で「んー」とか「あー」とか、意味にならない音を発していたサキはようやく、一つ疑問を見出し声に変えた。苦肉だった。

「聞いてあげるんだけれど」

「これ? カッコイイでしょ」

 ふふんと自慢気にかぶってみせる。

「いや、まだなにも――」

 しかし無理からぬ事だった。

「縁日にはまだ早いんじゃない」

 これ、とはお面だった。しっかりとした造りの狐の面が側頭部に乗っている。

 気にはなっても、触れないほうがいいことばかりの世においてそれはまさしく腫れ物だった。思い出すたびに唾液を味わうハメになる記憶の類かもしれないのだ。

「縁日? これがそんなちんけなものに見える? これはね、そう、仮面舞踏会につけていくのさ。素顔ではいられない、そんな時に」

「じゃあ別に猿でもいいんじゃないの? それか能面とか、そのほうが意味は通ると思うけれど」

「わかってないなー。ほんと。つくづくせんすってやつがないんだな。めいくせんすばっかり追ってさ。こっちのほうがカッコイイんだから、それで決まり。他に理由はいらないのっ」

 ふがふが、仮面が憤っている。

 これからは面倒な事になる、間違いなく。確信を得たサキは手を額に当て、目を覆った。

「なに、にやけて。きもちわるい」

 指の間から一瞥した。そして、今度ははっきりとしたものを浮かべながら言った。

「なんでもない」

――

「それじゃそろそろいい加減に。選択のとき。あんたは上に、わたしはここに。さっさと戻りなよ、あんたの場所に。どうあれそこが一番なんだから。まわりがどうとか、あんたはいっつもそればっかりなんだからさ」

「はい、わかりました」

「チャンスはこれっきりなんだから。もう間違えちゃだめだよ。自分で考えるの」

「うんうん」

 番兵よろしく、右手を突き出した。

「大丈夫だって。ティッシュもハンカチも持ったよ」

「もう! ひとが真面目に心配してるってのに」

 今度は大きい方が、母親の役割で微笑んでいる。

「でも、どういうつもり?」

「過去は憂いはするけれど、責任を負わせたりはしないってだけ。ただそれだけ、他意なんてない。それだけなんだから。ほら、早く出てって」

 身振りも触れることもなく発揮された甚大な圧力をサキは感じている。春の風には真似できない、有無を言わせぬものだ。

 一時間もすればなかったことにして忘れてしまうもの。

 余計なものは背負わされたな、とサキは思った。そして、苦笑した。

 サキは笑っている。

「また来ればいいけれど、もう来ないでよね」

 なにそれ、と返そうかと思ったときにはもう、姿は消えていた。

 それに、言うまでもないことだった。

 ――サキはまた一人。

 周りにはなにもない。ほんの一瞬の隙間。その日において最も知性が働き、この世全てを理解する法理が浮かび、飛び起きた途端に霧散するあの覚醒の瞬間だった。

 信じられるものは何も無いけれど、信じてもいいものはある。ここは思っていたよりは少しだけマシな世界。

 そう考えを改める事にして、

 そして、

 そして

――


――――


――――――

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