呪い
鍵が開いていた。
ガチャガチャと捻っても一向に開く気配を見せなかったのは、そういうわけか。
部活だったよな、と思いつつノブを引く。
玄関に靴は無い。
いつもなら散乱しているカバンや制服も見当たらない。電気も暖房も、帰宅の痕跡は無かった。
それだけじゃない。不自然な程片付いている。
誰か客でも来るのだろうか?
なら、早く逃げるに限る。
部屋に辿り着けばなにもかもうまくいく、とまでは思えないけれど、少なくともベッドも暖房もある。
いつでもそこにあるわずか数立方メートルの空間が今は恋しい。体が冷えているせいで余計に家が冷たく感じる。とりあえず服を脱いでお風呂に入ろう。それがいい。妙に焦った気分を落ち着かせて、それから課題でもやっていればご飯になるだろう。
部屋のドアを開けた。
真っ暗だ。
最近は暗くなるのが早すぎる。ほんの数ヶ月前まではまだ青空があったくらいなのに。そんなことを考えながらもカバンを置いて、ブレザーをハンガーに掛けて。
油断していた。
どうせすぐに出るのだからなどと横着せずに、せめて電気を点けていれば違ったのかもしれない。隙だらけの心をベッドに投げたときだった。
影が動いた。
頭が柔らかさ目掛けて落下していくのは止められない。
目を閉じると一層暗闇が際立った。
ありえない。
急激に血が昇って、引いた。
上も下もわからない、跳ね起きたのか心臓が跳ねただけなのか。ただ理解できていることは、私はここにいて、そこには何かがいる。
単純で明快な結果だけだった。
――――
ぎぃぎぃ、と不快な音が聞こえた。
目が開いたときにも周囲はまだ闇の中。気配を探ってみたけれど当たりはなかった。いつの間にか眠っていたのかもしれないと考えた。
思えば帰宅中からぼーっとしていて記憶は曖昧だった。
しかし、それはいつものことだ、憶えていられるなら今頃ベッドで横になってはいられないだろう。
そこで唐突に時刻が気になった。
口が乾ききってはいなかったから、そんなには経っていないだろうと手を伸ばしても空を切るばかりだった。
頭はハッキリしていた。横着していてはより面倒なことになると判断し、しかたなく体を捻った。
何も起こらなかった。二度三度試しても、肩は張り付いたまま動かなかった。
冷や汗がこめかみから頬を伝って消えた。気づけば体中が汗で湿っていた。
動くことは諦めて、また目を閉じた。
金縛りだと判断した。
小さい頃に一度だけ、あの時は恐怖に屈して力で振り払ったけれど、二度目となるとやけに冷静だった。それに、今は理屈も知っていた。しばらく待っていればじきに治る、全ては気のせいで、呼吸が辛いのも気のせい……
吸って。
吐いて。
自ら呼吸すれば思うままに肺は膨らんだ、足先を曲げれば脹脛までつられて緊張していた。体のどこにも痺れはなく、しっかり意識が載っていた。むしろ敏感なくらいで、脇腹を汗がすーっと落ちていくのを感じられた。
なぜか、寝返りだけが否定された状態だった。
ずっと気づいていたのだと思う、考えないようにしていただけで。
そうこうするうち、やがて目が暗闇に慣れてしまった。
視覚が現実を突きつけ、幻想は消えた。
見知らぬ天井。左を見ても右を見ても壁は遠く、そしてすぐそこで黒い塊が蠢いていた。
ゆらりゆらりと揺られていた。
ぎぃぎぃ、ぎぃぎぃ。ぎぃぎぃ、ぎぃぎぃ――
「おはよう、よく眠れたかな?」
どうにもならなかった。どうすればいいのかわからないままにもがいてみても、拘束は強固で、くぐもった声が漏れるだけだった。塊が大きくなるにつれ理解と恐怖が脳を侵していった。
ギシギシと台が軋む音が聞こえた。
「そう暴れないでくれ。やりにくいじゃないか」
また大きくなった。
これでおしまい、なんて納得できるわけがなかった。
そっか、などと、死ぬんだ私はなどと、その程度の事だと想像していたくせにいざとなると。
惨めだ、結局、頭は恐怖で一杯だった。なにを恐れているのかも判別できない程だった。
闇が伸びて私を覆った。
カチッという音を引き金に意識は途切れた。
――そして今、私は男に見下されている。
思い出せる事は全部調べてみたけれど、やっぱり、得るものはなにも無かった。
男。どうしてそう言い切れるのかはわからない。ただ確信だけがある。仮面を被っているのに。しかし、男だ。男が動けない私を見下ろしている。
はるか遠くのぼやけた光源だけが頼りだ。周囲数メートルの範囲は十分に明るい。
男の後ろに安楽椅子が見える。不快なリズムはきっとあそこが発信源だったのだろう。今は静かだ。
じっと見下されている。表情は仮面の下に隠れていてわからない。なんのつもりか、どうしたいのか、そもそもこれは現実なのか、見えたところでわからないことばかり。
一体どうなっているのだろう? 一つ思えば、形になっていない思考が我先にと押し寄せてくる。
整理券を配り整理をつけようとすると、急に光が強くなった。
見下ろす男も逆光に飲み込まれ、全てが真っ白。
眩しいと思う間に手をかざしていた。
手。五本の指が影絵のように浮いている。握れば丸まり、伸ばせば開く。左手も同じ。
まだ生きている。遊んでいるとそんな実感が湧いた。
手始めに膝を立てる。余裕が出てくると細かい事が気になった。
拾った命というわけではないけれど、もはや恐怖はなかった。惜しいとも感じない、諦観とも違う少しだけ前向きなもの。精々居心地良くいたい、と思う。呑気にも。
滞っていた血液が流れるだけでも開放感がある。こわばった背骨を治したり、目にかかった前髪をどけたり。一息漏れる。組んだ手をお腹の上に乗せていた。
態度が大きくなってきた。
無様を晒したくせに、と針で刺す何者かは無視をして。
「落ち着いたかな?」
あたりさわりのない、しかし印象に残りそうな声が聞こえた。
永久にこのまま、自白も許されず放置されるのかと恐々としていたところ。聞かれればなんでも答えるつもりだった。
けれど、声が出ない。百年、岩戸に隠れた姫でももう少しうまく喋れるだろう。もしかすると、冷凍保存された最後の人類だったり。これから解凍された私はリハビリをしながら観察されるだけの生活を、なんて、あぁほんとうに、内側はこんなにも無意味な言葉で溢れているのに。
肝心なことはなに一つ言葉にならない。
「もう大丈夫だね? 話しても。話をしようじゃないか。とはいえ、私が話すだけ。君はそれを聞くだけ。じっとしていればいい、悪いことがないとは言わないが、悪いようにはしない。煽るとて、触れはせず。安心してくれ」
目を閉じよう。反射でも反応でもなく、自分の気分に従って。
気に入らない。
慇懃すぎる態度が気に入らない。
仮面をつけたままなのが気に入らない。
しかし、それだけ。騒ぐことではないし、指摘するまでもない、論理的に考えれば仮面は私に有利な情報だ。大人しくしていればそのうち帰れるかもしれない。大丈夫、私は落ち着いている。
「仮面? ああ、そうか。そういうことならこれでどうだろう。そう睨まないで。今の君には関係のないことかもしれないが、将来的には後悔している可能性が無きにしもあらず、だ。癖ついてしまっては戻らないからな」
生皮もめくれるのでは、といった勢いで剥ぎ取り、投げた。
顔はまあ、ずいぶんと綺麗な顔をしている。ありふれているようで、どこにもない。声がそのまま形になったかのよう。
「機嫌を直してくれないか」
これだけの仕打ちを受けてなお、笑顔でいられるのなら私は正しく異常者だろう。ただでさえ、ひきつりがちだというのに。
「そう言わずにさ」
そう言わずに、どう言わずに。
そもそもこいつは一体誰なんだ? 今更ながらの疑問が。
尋ねていいものかどうか。親しげな振る舞いに騙されるけれど、生殺は依然として握られたまま。煮るなり焼くなりすれば私は丁度良い今日の晩御飯。カッとなられてもたまらないし、一先ず、様子を伺う。
「そうだな、紳士なら紳士らしく、まずは自己紹介といこう。あぁもちろん、君の事は全て知っているから何も言う必要はない。ただ黙って私の言葉に耳を傾けてくれればいい。私の名は…… ガブリエル、とでもしておこう。しばらく我々は付かず離れずの関係だ。よろしく」
差し出された手に釣られると、躱された。
「それでいい。すまないがわけありでね、気持ちだけ受け取らせてもらうよ」
……。
こんな事でたやすく苛立つなんて。
懐かしくなるほどには忘れていた感情だ。さっきからどうにも、思考の前に感情が立っている。
それにしてもガブリエル。いい名前じゃないか。隠す気のまるでないふざけたた偽名、たしかに紳士らしい自己紹介だ。
名が形を創り、朧げだった細部がより見えてきた。
尖った耳は悪魔崇拝の一部なのだろうか。見るからに悪魔的な風貌だ。煌々と黒い眼、人を見下す高い鼻。閉じられた口には鋭い牙が隠されていて隙を見せれば首に噛みつかれ眷属にされ、いや、しかし、それは吸血鬼だしそもそも天使の名前だったような。それも高位の、悪魔とは正反対の存在だったはずで。
悪魔はそのままの姿で立っている。気づき思い直しても変わらないのは当然なんだろう、これは私の勝手な印象を押し付けたにすぎず、結局、私には何も見えていないということだ。
「あまり見つめられると穴が空くのでね、色々なところに。いやはや、睨むなと言ったり、見つめるなと言ったり、我ながら我儘ではあるが、許してほしい」
そう言うと、のっぺらぼうのような影に戻ってしまった。一つ聞こえれば一つ見えなくなるという調子。
少し残念さを感じているのがなにより残念だ。まあ、悪趣味ではあったけれど、美しくもあったのはたしかで、その事実を否定するまでもない。だからなんだ、というだけのことだ。
「ところで、私は君に感謝されてもいいと思うのだ」
ぎぃぎぃと、聞こえ始めた。
顔を向けると足元だけが小さく揺らいでいて、安楽椅子に戻ったのだとわかる。照明は限界が近いのか、時々消えそうになっては思い出したようにまた灯り、と繰り返している。
「もしもの話だ。実際には起こり得ない仮想だがね? 私がこの姿、つまり人間の背格好で知性的で君の趣味全開のものでなかったとしたら、どうだ、君は未だ強い不快感を抱えたままだと考えられないかな?」
ぎぃぎぃ。
パイプから立ち上った煙が光って消えた。
何を言っているのだろうか、彼は。
目的があるのかないのか。未習の方程式を前にしたときと同じやるせなさだ、これは。押し入り、機嫌を直せと言い、許せと言い、そして感謝を迫る。どこにも私の意思の入る余地がないじゃないか、あるのかないのかわからない私の意思が。
「君が落ち着いていて、姿勢を崩し悪態づけるだけの余裕があるのはなぜか。私が悪党でこそあれ見慣れた姿だからだとは思わないか。イメージしたまえ。尾や翼などというアクセサリーではなく、胸と腹から一本づつ手足が生え首はとぐろを巻くほど長く瞳は濁ったものが一つだけ、おまけに頭から二本の枝が伸びていたとしたら。言語もそうだ、私が語りかける代わりにガサゴソと不明瞭な音を立て続けていたら君はとっくに理性を失っていることだろう。震えながら、目の前の異形を少しでも常識へ当てはめるだけで精一杯だったことだろう。おぞましいことだ、余裕を奪われた人間に価値などないのだからな。であるからこそ、君は感謝せずにはいられまい?」
わずかに、納得しそうになる。考えもしなかった絶望だ。言う通りであれば、未だに、腐臭に催した吐き気と未知の恐怖と戦っているだろう。気を失ったままかもしれない。
たしかに、人の姿に安心させられてはいる。けれど、それは当たり前の前提だ。怪物から窮地を救われて言い張るなら兎も角。まるで詐欺師。
なにが感謝だ。
そう呆れて、乾ききった目を守ろうと瞬きをした。
ぱったり、気配が消えていた。
音も無く、喧しい椅子すら初めから無かったかのように。灯りだけがふらふらと揺れて影を動かしている。
もちろん目は開いている、瞬きをしただけなのだから。ゆっくり確かめるように繰り返せば、視界は明滅する。
邪険な存在が消えたのだから不都合はなにも無いはずなのに、嫌なざわめきが抑えられない。出鱈目にでも逃げ出せと頭の中で警鐘が鳴り続けている。呼吸が浅い。想像が芽吹く。目を閉じ、息を吐いてみせてもいつものようには逃げ込めず、剥き出しのまま。思い込むほどに澱んだ空気が匂い立つ。あぁ、こんな時に。目を強く閉じる。祈る。清涼感を求めて出た結論は真っ青な糸だった、細く、長く、やがて束になった。
「いやいや、すまないね。自分で自分が不安になってしまった。少し気分が悪くなっただけかと思いきや、殊の外。傷をほうっておくのは良くないな。安心したまえ、鏡に映った私は私だったよ、好ましい私そのもの。お前は誰だ、と問うまでもなく問うたとしてもやはり私だった。どうした、恋しかったのかな? そんなに凝視して。あそこにはただ人形が立っているばかりじゃないか、退屈だ。ほら、私はこっちだ」
振り向くと悪魔が。いや、悪魔の風貌をした男がベッドに手をついて覗き込んでいた。
私はいつの間にか、横向きに背中を丸めて膝を抱いていた。決まり悪く、視線から逃げだした。こめかみに溜まった汗が垂れないよう慎重に姿勢を直し、手をお腹で組み、それから今一度男を見た。
人型というだけでこんなにも絆されるなんて。
「横向きが楽なら、そうするといい。君は普段、幸福な眠りに落ちるときはそうしているのではなかったかな。行儀よく仰向けで目を閉じてみても結局寝付けず。腕を枕の下に忍ばせてでないと落ち着かない、そうだろう?」
何も言えなかった。言えたとしても言うつもりはないけれど。
自慢するでも突きつけるでもない言い方。
心臓を握られたような気分だ、どこまで知っているのだろう。不気味だ。一方的に知られている事が無かったわけじゃないけれど、それは私が、興味が無かったというだけで可能性自体はあった。迷惑なことにクラスメイトだったりもした。
そんな過去のイベントとは全く違う異質さだ。私の癖を知る者は精々一人だと思っていたのに。それがこんな男だなんて、考えたくもない。
しかしだ、逃げ場はある。私はつい先程眠っていた。どれくらい経ったのかわからないほど深かった、ならば癖が知らずの内に出ていたってそれは自然極まる。どこにも不思議はない。
そんなはずないのに、と誰かが嘆いている。
不気味ではあるけれど、渋々やむを得ず提案を受け入れた。
節々の凝りが限界に達している。少し気を抜いただけで幼子のように丸まっていたのもそのせいだろう。一度見られてしまえば急転直下、丁寧に使ってきたノートが乱れたときの如し。気を使う相手でもなし。どう考えても使い損だ。
姿勢を崩すと、最早違いがわからなくなってくる。暗くて柔らかい。
別に。これはこれで。
「おっと、まだ眠らないでくれよ。心を開けば眠くもなるが、我慢だ。目を開けて。こいつが見えるように」
パッと照らされた先から二つの影が伸びた。目を閉じていたのかどうかは曖昧で、今灯ったのかそれともずっとそうだったのか。ただ私には突然だった。足元からどこまでも伸びて、先の方は角度を変えることなく暗闇に混じっている。一つは悪魔のいやらしく輝く尖った靴から。
そしてその隣になにかが立っている。そう遠くないところ、けれど手は届かない。
明らかに、人型だ。
自慢の娘を紹介するかのように背中に手を回されても嫌がる素振りは見せず、立ち姿からもおおよそ生気のようなものを感じられない。人形だと言われればそうかと納得してしまう。
しかし、もっと近くで検査すれば粗もあるのだろうけれど、見る限り精巧で人間と遜色は無い。人形と決めつけるのは憚られる出来だ。
百五十センチ程の華奢な背格好で、髪は肩よりも長いからきっとモデルは女の子。シルエットだけでも魅力が伝わってくるような、そんな気がするくらいには理想が詰め込まれている。
全く、気持ちが悪い、低俗な悪趣味さだ。
じっとり目をやっても、男は何も言わない。辛辣な空気に気分を害したのかもしれないけれど、私には関係のないこと。
だから仕方なく、意思とは無関係に視線が人形に戻っていた。見れば見るほど良さがわかる。行為の是非は兎も角として、結果に文句はつけられない。自然な乱数ではなく、創造の利を存分に使った欲深い作品だ。
人の欲を手玉に取るはずの悪魔が欲に溺れてしまうなんて、皮肉なことだけれど、おかげで、なんて、素直な感心を悟られないように、もぞもぞ視線を外す私も大概悪趣味だ。
「さて、どうだ。コレを使って少しばかり遊んでみようじゃないか。退屈なものを弄り回して退屈な日々に潤いを見出すというのはどうも惨めだと思うのだが、それが習性というものだ。我々もそれに則ってみようじゃないか。サーカスを始めよう。私が演者で君が観客で、今宵の見世物はご覧の通り。もちろん、観客の出番も用意してある。選ばれた者は無条件で嬉しくなり、周囲は素人に安心を映す、なんとも手軽なエンターテイメント、利用しない手はない。もっとも、今この時観客は君一人なのだが」
ひどくつまらなさそうに、乾いた笑い声を上げた。
仰々しい物言いにはもう慣れていた。今までの退屈なコミュニケーションにも価値があったのかもしれない。
私の心を五体投地させるのが目的だったのだとしたら、それは大成功だ。サーカスだとかなんとか、わざとらしい胡散臭さで何を隠したいのか考える気にもならない。
嵐が何もかもを奪い去っていくとして、私には受け入れる事しかできないのだろう。手品でも見て、手土産と共に帰してくれれば黙って許してあげるのだけれど、そんな平和な相手ならここは公園であるべきで、もっと明るいはずだ。
好きにすればいいさ、もう好きにしてくれ。
「そう死んだ目をしないでおくれ。悪かったよ、お寒いのはしばらく控えよう。心配しないでも君の好みは把握しているから。それも私の仕事の一つだ、むしろ最も重要な仕事と言える。相手を喜ばせるのが私のような者に与えられた天命でね、いつ何時天罰が下るか、恐々と過ごしているものなのだが…… いや、これは無駄話だな君には関係無い。他人の雇用条件程どうでもいいものは無いからな。うむ、どうも調子が良くない。もう少し明るいほうがいいだろうか」
ぱちんと指を鳴らした。
私と男と、顔の無いの人形がそこにはいた。
まっさらで凹凸は無い。無貌、と言うのだろう。ただそれだけの事で人形なんだと強く感じる。
しかし、表情がないわけじゃない。見る角度に依って活発な少年のようにも憂いのある淑女のようにも、様々な様子を見せてくれている。それが救いであり、より惹かれている要素なのだろう。
もう少しで笑ってみせてくれそうなのに、人の首の回る範囲には限界があった。楽だからと寝っ転がっていないで観察してみたい。けれど、その気力がどこにもなかった。どんな仕組みで、どんな意図で、知ってしまうよりは、柔らかさを享受しながら夢想するほうがずっと気楽だ。
「興味津々だな。私も嬉しい。少しは童心を思い出せたことだろう。照れずとも、実に良い事じゃないか。時代に飲まれている以上、そう味わえるものではないのだから」
声が聞こえるとともに、急に恥ずかしさが湧く。顔が熱い、しかし照明はずっと高いところにある。
今更隠し通せるとも思えず、そのまま人形を眺める。
見つめられた彼女も俯いて少し気恥ずかしそうにした。
白い肩に手をかけられ、促されて座った。小首を捻って男に微笑んだ、そんな気がした。
カツン、カツン、と音を鳴らしながら人形の周りを徘徊し始めた男を余所に、私と人形は見つめ合っている。目は無いけれどそう感じ、思い込める。時偶、視線が遮られた時など、その度にこちらを覗き込んでいる錯覚さえあった。愛らしいと思う。
頭には赤い線一周が引かれている。羨ましい妬ましい。焦点が無限遠に飛び、男に微笑んだ瞬間が焼き付いたように繰り返されている。何度も、目の前の出来事を拒否する為に。
「ふむ」
悪魔が言った。作業の進行に納得している様子だった。逃げ場はどこにもない。やがて赤い糸が頬に垂れた、もう目を逸らすことはできない。
「綺麗だろう? 命の色だ」
剥き出しになったものが宙に浮かんでいた。
明暗だけの世界に落とされた色に目は釘付け。
不思議と嫌悪感は無かった。おもちゃの首がもげたとして何も感じないのと同じだろう、ただ少し生々しいだけの事。もしも、あれが私の所有物だったのなら不快感くらいはあったはずだけれど、他人のものだから。見せつけられていることに目を瞑れば、騒ぐほどでもない。美しいと思った自分を受け入れるのに比べればそれもなんでもないことだった。
「これがなんだかわかるね。極めて重要な器官だ。君達の全てを司っていると言っても過言ではない。意識の有無問わず、ここから司令が送られ、あらゆる行動が為されるのはご存知の通り。情報を集積し判断を下す優れものだ」
半球状のピンク色に針が刺された。
無数の針から伸びた、細すぎて見えないけれどあることだけはわかる線が照明の光をチラつかせている。
無貌の人形はなんの反応もしない。異物に押し出された真っ赤な液体が小さく飛び散っただけ。同じ箇所がズキズキと共鳴している。
動くことはないと思っていた四肢がぴくりとした。少し不気味。だらんと垂れていたものが意識を持ち、あえて力を抜いている様子に変わった。
自らの窮地を認識できず、怠惰に呆けている様はどこか哀れだ。さっきまでの親近の情は急激に冷め、消えている。
「しかし。これは見ての通り人形だ、いかに精巧であってもな。だから当然、生きているわけではない。これから彼女には君を喜ばせるよう振る舞わせるのだが、それは私の命令によって操られた結果だ。手の込んだマリオネットだと思えばいい」
操り人形とは言いようで、そう見えなくもないけれど、かけ離れてもいる。
糸が引かれて右腕が上がるから人は納得できる。どこかぎこちない動きに愛嬌を見出し、演者の努力に免じて異質さに目を瞑るのだろう。
あまりに自然に、そして前兆なく手を振られても答える気には到底なれない。どうするべきかも、わからなかった。立ち上がり、ぺたぺたと冷たい音をたて近寄ってきているのは見えていたけれど、その実感は湧かない。どれだけ進んでもこの距離は埋まらないと思っていたのに、いつの間にか一つの照明の中で照らされている。
丁度、お腹が目の前にある。服は着ていない。なだらかで、弛んでいない、しっとりと柔らかそうなお腹。爪を立てれば簡単に破けそうだ。でも、この先の神秘を知る勇気はやっぱり、まだ無い。これからもそうだろう。外から眺めているだけで十分、満足だ。悟られないよう気をつけ、目を上下に動かしながらそう感じている。
据えられた淫靡な曲線にすっかり絆されていた。
視界の利が向こうにあるなんて考えもしなかった。前触れなく、横に揃えられていた右手が動いたときには、拒絶の痛みに備えてあらゆる防御網が張られた。精神的にも肉体的にも。
けれど、掌は中空で静止して、私を待ち続けていた。
一瞬でも竦んだのはもれなく後ろめたさから。真っ直ぐ差し出されているその手を受ける権利も資格もなにも、私には無い。目を逸らすこともできず、歯をなぞった舌が一周した。
行き場を失いしゅんと握られた手がどうしようもなく無常な気分を誘った。
気分を害していなければいいのだけれど。不安の矛先は右に左に、常に揺れ動くものらしい。失敗したかなと思う。とりあえず、おずおずとでも握り返しておけば無難だった。たとえそれがなにを意味するとしても、悪いようにはならなかったはずで。
彼女は私が嫌がることはしないだろうに。好意の先端を裏切ったのだ、と気づいたときに見えるのは歩く背中だった。手を伸ばしてももう遅く、待ってと声が出る事もなかった。
「かわいそうに…… こんなにも打ちのめされて。芸はこれからだというのに、鼻を折られてしまってはやるせないものだ」
向き直った人形に表情は無い。
「私が慰めてあげなくてはな」
と、頭を撫ではじめた。
頭を、そのまま。
豆腐が過る。けれど実際は、思いの外頑丈らしい。
不満快楽恐怖親愛、どれか一つくらいは感じると思うのだけれど、あるべきものが無いのは無機物だからか。まあ、猫のように柔軟でも困るけれど。
「触ってみるかい? 君も」
精一杯の拒絶を目に込める。
「しかしだ、手を取る事すらないとは先が思いやられる。これではまだ、ライトを消して静かな雰囲気を演出したところで眠気を誘うだけ、まったく困ったものだ。踊りや体技の類に君は喜びはしないし、……」
うぅむ、と決めつけられても、その通り。飛んだり跳ねたり、奇妙な踊りを踊られても心は引き籠もるばかりだろう。
考えながら、あるいは考えるふりをしながら、隙だらけの器から掬い取ったピンク色の塊を見せつけるように掌で転がし、そして左手で手玉にとりつつ右肘は直立不動の人形に掛けている。手持ち無沙汰の慰めだとしても、せめて目で見るくらいは礼儀というか作法というか、そうしないと、そうしないと――
名選手でも目をつぶっていたら失敗するはず。水気のある音が奏でるリズムが少しづつズレてきているのを指摘できない。そうすればそのせいで落とすかもしれない、そうなれば責任が降ってくるから。
なにもない影の中へ放り出された意識が少しでも向いてくれることを祈るしかない。取り返しはつかない、元には戻らない。
破滅は一瞬だった。
ずっと見ていなければ気づかない程の振り幅、致命的な程高く投げ上げられたかと思えば手をぬるりとすり抜けていった。
断末魔は海の音がした。
「おっと」
それだけだった。
「これは失礼、じっと思案にふけるというのはどうも苦手でね。なに、そんな顔をしなくても替えはある。唯一無二の友人を失ったわけでもあるまいし、所詮は手を取る事もなかった存在だ、君が痛ましく感じる必要はないだろう。私の落ち度、電球を割ってしまっただけだ、後で片付けておくよ」
やれやれと、至極面倒臭そうな態度を隠そうともしなかった。
醜く潰れたものは足蹴にされて舞台の外へ消えた。
一幕の終わりとでもいうように、照明が全てゆっくり弱まり、落ちた。キザな演出だ。待ちわびていたかのような咳払いもチューニングの音階もしない。意味は見い出せない。
堅い乾いた音とそれがわずかに湿った音とが交互に繰り返されている。次はなにが催されるのだろう? 期待するわけではないけれど当然来るものだと盲信し寝そべっている私は一体誰だ、皮肉な私がそう呟いた。
「こっちを向いてよハニー」
ゾッとした血がサーっと足先から逃げ出していった。逃げ遅れた魂を抱え、余計な言葉が足される前に体ごと振り向くと、巨大な試験管と男が立っていた。
まだまだ遠く、前方をうろついているのだと思っていたけれど、回り込まれていたらしい。頼りにはならず、腐り落ちた聴覚に代わり、今は目が奇妙な装置を捉えている。これもまた思い違いであればいいのだけれど、見えているものを否定するのは簡単な事じゃない。
男の背丈とほぼ同等の管の中は透明の液で満たされている。釣り合った浮力と重力で中央に浮かんだ物体は、なんだろう、大量のひげを伸ばしながらも絡まることはなく上部へ伸び、そのまま外部まで進出している。灰色で、海月のようだけれどそれにしては澄んでもいないし浮遊感もない、奇妙な装置に似合いの不可思議な物体だ。
ひげの静かな揺れが液体の循環を伝えてくるけれど、それだけ。この仰々しい装置に見合うだけの価値は、わからない。一見して退屈なものだけれど見る人が見ればあるいは、例えば、さも重要そうにガラス管を撫でている男とか。
「なるほどその意味では絵画的と言える、創り上げられた文化がまるで反映され、緻密に描かれているのだから。とはいえ、なに、読み取るのは難しい事ではない。それは誰にでも、価値を見出そうとする者なら誰にでもできる事だ。意図を汲み、決め、自らの価値観へ押し当て嵌める、ただそれだけの図々しさがあればいい。それまでの知識、技術、境遇などは気にかけてやる必要はない、作者は自らの力が描き上げたのだと自負しているものだからな」
何やら手を動かしながら、左足の違和感を床に擦りつけた。
「しかし、絵画と違いコレだけでは何一つ表現できないのだから困惑もやむを得まいよ。共通認識の確認すらままならぬ木偶の塊。例えば――」
衣擦れの音が恥ずかしくなる静寂、耳鳴りに耳を立てても鼓動は聞こえなかった。何かをして何かが起こった事は男の顔を見ればわかるけれど、人間の知覚できる範囲の変化はそれだけだった。
私が何の反応も示さないと見るや否や、また手元の青白い光へと目を落とした。
「ないがしろにするつもりはないのだが、状況は逐一変わるものでね。目を離すと重要なエラーを見逃してしまうかもしれない。で、どうだろう、その様子だと聞くまでもないな、何も伝わらなかったのだろう、彼女の痛みは。モナリザの手に針が突き刺さっては大騒動に発展もしようが、ただ一人の少女では気づかれもしない。ちくりとした程度だったのか、切断による果てしないものだったのか、それとも幻を痛んだだけなのか。たとえそれが既に快楽へ転じていようとも、かさぶたを剥がす背徳によるのか、重篤なマゾヒストなのかすらわからないのだろう? やがて君を害する危険が迫っていると叫んでいても、君には伝わらない。悲劇の物語」
一方的に捲し立てられたところで理解は進まない。下を向いたまま、たまに管を見やるくらいで私には一瞥もくれず、話し続ける。
「貴方が悪いのではないさ。ああ、わかるよ、ヒトである以上、詮無きことだ」
「これならば」
ふいに顔を上げるから目が合ってしまった。
「君も味わえるし、私は怒られない」
天才的な発想を得た悪戯っ子のように瞳を見開き、そしてわずかにニヤリとした。
結末を想像したに違いなかった。巻き込まれた周囲はもれなく面倒な事になる幼少期の発作を整った大人が発症するのは不気味すぎた。どちらかと言えば、ワインを燻らせながらベネ、などとほざいている方が似合っている。想像だけで吐き気がするほどに。
「目を閉じて。そうすればより楽しめるから」
言われなくてもそのつもり。ここには美しい男と塊が一つ、それだけなのだから。見るべきものはない。
そう思いながら目を閉じた途端に、口の中のありとあらゆる部位がねっとりとした甘さに塗れた。少しでも舌を動かせば、脳が溶ける感覚すらある。どうあがいても、いや、あがけば首を締めるのは自明なわけでそんなことはどうでもよくて、舌そのものと溢れる唾液が運ぶ激烈な甘さからは逃れられない。不味いのなら耐えられるかもしれないけれど、甘い、ただただ甘い、気が遠くなるほど甘い、身を委ねれば最期だとわかっていても諦めてしまいたくなるような邪悪な甘さに襲われている。真っ白な誘惑が味蕾を包み込んでいる。
衝撃が去った後には、粘ついたクリームの舌触りと歯の隙間に挟まった粒が違和感として残った。喉や胃に感触は無い。何かを口に詰め込まれたのかと思ったけれど。
「お気に召さないのかい? 彼女はまま、喜んでいるのだが。世には寝起きに羊羹一房飲み込む男だっている。果たして君の感覚がおかしいのか彼らが超人なのか、私には判断つきかねるが。ともあれ残念だ、女は甘い物に目がないものばかりだと思っていたのだが。君の嗜好はやはり、据わった目でグラスをふらつかせドアの中では傍若無人といったものなのだろう。黄色い果実でも想像して気を紛らわすといい。あいにくデンタルクリニックではないのでね」
まるで私が悪いかのような口ぶり。独裁者に卑しめられている。
甘いのが好きじゃないわけじゃない。チョコレートもケーキもあれば食べる、わざわざ求めないだけ、私にだって人並みの感性で喜ぶくらいはできるはずだ。それは間違いない、でなければ石に成り下がって砕け散っている。
ただ甘すぎただけ。だから決して過剰に騒ぎ立てたわけではない、はず、…… うん。
誰にとってもあれは嗜好の域を超えていた。いくら糖分が栄養として不可欠なのだとしても過ぎれば毒、いわば毒を飲まされたとなるわけで。他に誰かがあれを共有していて、違う感想を述べたのだとしてもそれはきっと、言わされただけ。つまり萎縮した傀儡。そもそも、直接聞いたわけでもない、誰かの醜聞を真に受けるなんて無駄なことじゃないか。弾を打ち込めば新聞は書き立てるものなのだから、提言だけを受け取って洗い流せばいい。もう甘さはない。あんなものでも栄養となって体中に染み渡っていくのだと思うと、敏感になり手足の先まで意識が届く気がして、暖かい微睡みに落ち着いてしまう。623は素数ではないけれど、怠惰でいられるのは悪い気分じゃない。少しくらいは真っ当なつもりだったけれど。真っ当ってなんなのだろう、どうすれば普通なのか。こうして暇な時にありきたりな疑問を反芻しては咀嚼もできず飲み込めない事だろうか?
なんて、戯れていても仕方がない。きっと悪魔が見ている、私を眺めている、得体のしれない物体と共に。
私には想像することしかできない。小さな触れ合いを。感じている柔らかさと暖かさを使って。ぬいぐるみを抱きしめるのと同じ。
たとえ哀れでも、幸福だった。受け入れるだけで確かなものに変わっていく。触れれば触れられていて、触れられているのなら触れている、くすぐり合うのも悪くはないのかもしれない……
二人っきり、誰も見ていなければ。
「こんなところでいいか」
ぼそりとつぶやいた。
「これで壊れていたら初めから壊れていただけだ。私の責任は追求しようがないだろう。マニュアル以上を私に期待するほうが悪い、そう思わないか、君も」
私に向けて聞いているのだとしたら、答えは当然イエスだった。余計な事をして損害を出すに決まっている。しかし、男は私など気にもとめず、自己確認を終えるとガラス管を叩き割った。
音に驚いて微睡みは引いていった。
人間にすればそうなるように、ひび割れた箇所から液が漏れ出ていく。どんどんと、さめざめと。
水位に従って降りてきたものは少しだけ色づいて見えた。男がそれを、水圧に耐えかね広がった穴で受け止め、取り出した。
掌に収まらないそれは無数の液を滴らせている。今度は丁寧に、さも重要なものを扱うように暗闇の器へ捧げた。ほのかに光ったそれはピンク色をして宙に浮かんだ。
「どうすれば楽しんでもらえるのか、作業裏で考え続けてみたのだが、どうにも袋小路にハマってしまってね。つまり、あらゆる哲学が私を苛むのだ。だからやめた。結局、君のことは、貴方様のことはわかりそうもない」
照明が灯って、現実を浮き彫りにした。
いつでも、それは急だ。たった一つでも、意識を惹きつけるには十分なのだろう。現に、私は相対した一人に奪われた。闇に紛れた男など目に入らない。
大きな瞳をして微笑んでいる。初めて明確に私に向けられたものだった。心底、安心を感じている。
「これから、君が何をするのか、また、何を感じるのか、それは最早、私の手の上ではない。君が選ぶ事なのだから」
差し出された柄はずっしりと重く、刃先の鋭さまで感じられた。
「好きにするといい」
なにをすべきなのかはすぐに理解できた、いつも通り、何も変わらない。
だけれど、意図が伝わっても、それに納得できるかはまた別の話で、目が落ち着きなく動いた。
丸みを帯びた温かみと冷たい鋭さを対照しても答えは映らない。
結局、私は立っていた。
平静な機械が歩いている、ヒタヒタ、音を立てながら。
簡単な事だった。私を縛っていた物なんて、何も無かった。立ち上がろうとするだけでよかった。床の冷たさを感じて裸足だった事を知った。風が吹けば裸なのかもしれない。
十歩もない間、計算機は様々な可能性、選択肢、出来事を弾き出しては私に提示した。初めての街で右に曲がり続けるような感覚が、立っている場所が違うだけで目新しさはない既存の切り貼り通りを目的地横目にぐるぐると、簡単には抜け出せそうになかった。
それでも、時は来る。三十センチの距離だけが私と彼女を隔てている全てに思えた。見下ろせるその体の曲線は魅力的で、真っ直ぐ親愛を向けてくる瞳にはたじろぎそうになる。
けれども……
ただの人形だった。
さっきまでと同じ、目を喜ばせるだけの存在、手を取ることはできない。
躊躇いはもう無い。結論は決まっていて選択の余地は無いのだから、と割り切ったらしい。
後は踏み切るだけ、考える必要はない、ただ、今まで通りに目の前の事件を川の流れが促すまま、それがなにもない私にできる唯一の事なのだから。
私は変わらず立っている。
私にはそのつもりでも、微かな抵抗はそれを否定している。この目で見たわけじゃない、結局私は瞳から目を離せずにいた。
一瞬だけ強張り見開かれだけで、恐怖も裏切りも諦観も出さず、固く食いしばられた口と同様に、何も言うまいと受け入れていた。
それも力なく崩れ去り、もたれかかってきた瞬間、つい、たまらず、半歩踏み外してしまった。そうして足を滑らせ、二人共空中に投げ出された一瞬、見つめた人形の瞳は確かに青く輝いていた。
紙で剃った痕のように、それは私に痛みを教えた。
腕を伝う液体の生々しい鉄の匂いが鼻腔を貫いて、無味無臭の乾燥していた世界が湿っていく。
穴からは血の奔流が。
抱き支えてあげることもできないまま、秒間一コマで世界が反転していく。
ああ……
ぎこちなく舞い上がった長い髪は芯まで紫色に染まっていた。
何をしたのかなんてどうでもよかった。ただ。ああ、ああ!
頭の中身が小刻みに振動している。もう戻らない。終わってしまった死んでしまった。死んだ殺した死んだ殺した。
死んだ死んだ死んだ死んだ。
……――。
もっと時間があれば、なんて、甘い味に浸りながら私は――
――――――
「泣いているんですか?」
目の前に座った少女が言った。
ハッとするというのはこういう事だ、いつか道を誤り教師になる時が来たら生徒にはそう説明しようと決めた。
机を蹴り上げそうになった膝をなんとか抑えて目をこする。
泣いてはいなかった、代わりに、わざとらしい欠伸が漏れた。
筋肉が連動して涙嚢を押し上げるから涙が出るのだと、どこかで聞いた噂話を思い出しても意味は無かった。
「居眠りなんて珍しいですね」
見慣れた顔が言った。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。「まだ眠たそう。疲れているのかもしれません、ちゃんと決められた時間に眠らないと駄目ですよ。一時間のズレでも思っている以上に神経は乱れるのですから。寝過ごしも厳禁です」
心配を隠さずに覗き込んで言った。
言う通り、まだ寝ぼけている。意識が戻っても酸素が足りていなかった。
だから、行為の是非なんて考えもせず手が伸びるまま、頬に触れていた。
陶器のように滑らかで冷たい。紋切り型の感想だけれど事実そうだった。
「もう。なんなんですか、いきなり」
そっと手を外された。
所作とは違い、嫌がっている様子はなくて安心する。
「本当に、どうかしました? 人肌が恋しい程のことなんて、何か悪い夢でも?」
悪い夢。そう言われると見ていたような、けれど、夢を見たのだと思うと急速に霧散していって、わずかな情報を拾い集めているうちにそれもまた消えていった。
「夢は夢。ほら、見ている間はどこまでも論理的で現実のように感じられるのに目覚めてみると馬鹿馬鹿しいことだったり、学校の屋上から背を押されても地面に衝突する直前までだったり、恐怖を煽る夢なんて精々その程度ですから。あまり気にしない事です。それでも不安なら、どうぞ触れていてください」
会話はそれで終わった。
触りたいと思ったときにはもう触れない。
肌に似合いの白いカーディガンがリボンを呼び出し、机、窓、横をすり抜けていく人、空気を伝わる喧騒、と意識が現実を認めたときには軽率に親密を欲するなんてできなかった。
それはぼやけた意識を後ろ盾にできる間だけの特権だった。
栗毛の少女が私を見ている。顎より少し長く、内側へゆるくカーブしながら鎖骨に乗っている。
誰かがシャーペンを落とし、鐘が鳴った。
「先生が来ましたよ」
そうして、授業が始まった。
チョークが黒板を叩く調子に合わせて皆一同に手を動かしている。
首を上げては下ろし、鶏の食事みたいだななんて、冷めた比喩が浮かんでくる程度に疎外感があった。
観察できている事実は重い。本来ならば一緒になって板書を写し取っているべきなのに、いつまでも手元は白紙のまま。
集中力も興味もなにもかもが欠けている。空に思いを馳せようにもあいにく曇り。
落書きすらできずに時間は過ぎ去っていった。
なんとなくトイレに居た。いつもは用もなく混雑しているけれど、今は私一人。
蛇口を捻り、流れ出ている水は冷たい。不浄を感じたのか、手を擦り合わせていた。あるいは条件反射か。そのまま、濡れた掌で顔を覆う。息を吐く。鏡に映っているのは当然、自分だった。他でもない私。
鼻から息を吐き出し、無駄な事を垂れ流している蛇口を締めた。なにもかもをひっくるめ、渦を巻いて吸い込まれていった。
いつでもハンカチを携帯している真面目な私を褒め称えながら教室へ戻った。
三時間が経った、らしい。
時計がそう指し示している。
いつもなら周囲の空気は帰宅へ向かい、先生もそれを察して事務事項を述べ終えている時刻だけれど、今は見知らぬ男性が教壇を占拠していた。
折り目の入ったスーツを着て頭髪も揃えてきちっと固められている。しかし、背はそこそこ平均といったところで、退屈な顔立ち。縦縞入紺色スーツと臙脂色のネクタイが宙に浮いている。似合っているとは到底思えなかった。襟元のバッジが嫌らしく光った。取り柄といえば自信に満ちた表情くらい、それもデパートで売っていそうなものだけれど。
頭の中で不当に酷評された哀れな成人男性が一人づつ、番号を読み上げ始めた。
十三番……、十九番……、次々に呼び出されていく。答案返却の賑やかさはない、淡々とした、業務。
手渡された紙は厚みのある丈夫な紙質で、どうやら重要なものらしいと悟る。
名前と生年月日が私を固定し、意味ありげなグラフと数値とやたら細かい文字が私を拒絶している。
まずどこに目を向けたものか、立ち向かおうと決意した矢先、硬い表情を崩した男性が注目を求めた。あれで案外緊張していたのか、それとも手段なのかは見抜けない。
たかが五分で済む事を何十倍にも膨らませそうな講釈も、聞いていなければ五分で済む。
我々SKCがどうの、校内活動がなんの、たくさんの名詞が飛び交っていたけれどつまりは進路、職業のススメ、それだけの事に一人の人間の生い立ちから学生時代、栄光と挫折、選択と結果への充足感を語った。
割とよく聞いていた私も同じ穴のなんとやら。
教室が紙に夢中になっている中、孤独に語り尽すと満足そうに出ていった。手元に目を落としても変わらず、さっぱり実感が湧かない。
はい、それでは、と入れ替わった担任がまとめに入った。顔を飾るシワやたるみ、灰色の髪がさっきとは対照的で余計に初老を漂わせている。
何事も無かったかのように、自らの職務を全うしようというわけだ。余計な疲労も面倒事もゴメンだといわんばかりに。
まあ、わからなくもない。私達にとっては学級の象徴だけれど、所詮は何十年もの間に積もった無数の仕事相手に過ぎない。直接対価が支払われるのでもないし。そこそこで付き合っていればいい。
「ごめんなさい。それとってくれません?」
肩を突かれ、ペン先が示す先に消しゴムが落ちていた。赤が黒に変わっただけでずいぶん印象が無機質になったそれを拾い、「どうも」という言葉と交換した。
小さなやり取りの間に担任は消えていた。
「今日はこれでおしまい」
肩に手が置かれた。見上げた瞳は焦茶色。
「それでは、行きましょうか」
手当たり次第カバンへ詰め込んで、何かを約束した記憶を思い出しながらブレザーを羽織った。
けれども、結局、昨日の晩御飯すら出てはこない。
ただこのまま一緒に帰るのか、それともどこか寄り道をするつもりなのか。青春白書は知らないけれど、なんにせよ、階段を降りなければ話は進まない。
周りに人がいるのを気にせず、周囲も気にせず、オープンスペースに設置されたU字型ベンチの背もたれに立って、鼻歌交じりに私を見下ろしている彼女にそう伝えられれば良かったのだけれど、私はそうしないほうがらしいだろう、と。
完全な安定で以て立っている。急に先生がやってきて怒られる予感もしない。咎める理由は見つからない。
ただ、身動きに追従してひらつくスカートの裾は心配だったけれど。
「こうしていると、ふふっ、楽しいのかもしれませんね。この体はどうにも窮屈でして、背伸びをしないと目を合わせることもできませんし。見渡せるものにも限りがある。たかが六十センチでも、あなたとの立場はずいぶん隔てられてしまいましたね。旋毛、見えちゃってますよ?」
こっちはもっとすごいものが見えているのだけれども。気づいていないのか。
「先程の紙、くれません? 私に」
やっぱり、興味をそそる物なのだろうか?
今はどうにかなんでもない様に振る舞っているけれど、実は後ろの席で自らの将来を必死に想像し、考察し、理想と現実に折り合いをつける苦しみを味わっていた。そんな事に無関心なのはもしかしたら私だけなのかもしれない、なんて、わけはない、はずがない。
誰だって同じ。
関係性を維持する為の無意味な行動だとすれば、なるほどありふれている。だから、どうせ流し見た感想が返ってくるだけ、そう思ったけれど、一瞥もせず、幅のある背もたれを踊るように渡り歩いている。
手を後ろで組み、紙切れは情けなく抓まれている。語るところによれば、私の将来らしいのだけれど、まあ、こんな程度だろう。
「ねえ?」
振り向いて、言った。
ぼんやりとしか合っていなかった焦点が急に収束した。
「何か考え事ですか? もうっ、私というものがあるのだから、余計な事に気を取られる必要は無いというのに。人間らしいというか、あなたらしいというか、そういう時期があってもいいでしょう。悩んでみたり、考えてみたり、そうしている間はどこか心地良いものですから。でも、それって結局は報われない、無駄な事。意思とは無関係に物事は迫りきて、過ぎ去っていく。知っているはずです、その程度」
目尻を下げ力の抜けた表情をしていた。あれは慈愛だったのか、憐憫だったのか。
考える間も無く、口が開いた。
「柄ではなかったかもしれませんね。しかし、言っておきたかったのです。これもある種の押し付け。貴方方の言う、エゴ、ですね。つまるところ、先行きの不安があるのなら、私に委ねて、いつまでも見ていてあげますから」
心は晴れなくても、なんとなく、そんな気がしていた。
「今日はもう帰りましょう」
飛び降りて微笑む姿を見て、それ以上思うことはなにもなかった。
――だから私はここにいる。
ガチャン、と鍵が戻った音が駐輪場に響いた。
校門はもうとっくに人まばらで、グラウンドや体育館棟からの部活に励む声がよく通っている。
それを背に校門を出たところで、ガードレールに腰掛けて待っていてくれた。
なにも言わずに同じ方向へ歩き出し、少しだけ、例えば、最早朧気になりつつある今日という日を交わそうとするだけの時間で岐路にぶつかり、お別れとなる。誰と歩いていてもそうだろう、家は各々一つ。
振り向きながら掌を振って、ペダルを踏み出した。
今はベッドに潜り込んでいて、お風呂で得た熱を噛み締めている。
うとうと、空腹も無い、後は眠りつくだけ。それだけのことが中々どうして、うまくいかない。意識が落ちる寸前で引き戻され、体の向きを変えてまた目を閉じる。その繰り返しだった。
眠いのに、眠れない。仕方なく、慣れ親しんだ姿勢を諦め、眠りつくことも諦め、お行儀よく天井を見据えながら、秒針の規則正しい音に身を委ねればもう、次の音は聞こえなかった。
夢は見なかった。
目覚めもはっきりとしていた。とっくに明るくなっていた部屋から朝を知った。朝らしい物音を感じながら、五分前起床だなんてやるじゃないかなどと呑気に、矛盾にも気づかず、冷たくなっていた時計を手にとった。
短針が十一を指し示したままの死に体を。
どうして目覚ましを確認した時と同じ形なのか、一瞬では理解できなかった。時計とは、無限のリソースによって動いている物ではなかったのか?
もしも私が思考の権化であれば、いやに良かった目覚めから車の音から、察して諦め、二度寝で逃避できたのかもしれない。
けれど、現実は違う。
勢いよくドアを開け、ガシャンと雑な音とを聞き、それから階段を段飛ばしで駆け、なんとか平静を演じ椅子を引いた。
そんな慌ただしい朝だった。
「珍しいじゃないですか、遅刻なんて」
結局、間に合わなかった。
どれだけ自然に連絡が行われている中入り込んでも遅刻は遅刻。出席簿を改竄しない限りは変えられない過去。努めて報われない徒労感は、じんわりにじんでいる汗のように不快だった。
「まあそんな時もありますよ、人間ですし。惨めでも、秩序を守ろうとする事は尊い行為なのですから、笑顔笑顔、とはいかないまでも、ね」
まあ。たかが一人、あるいは何十人もが、五分やそこら遅れたところで、大勢に影響はなく、本人もまた、日が落ちる頃にはすっかりその事を忘れてしまう程度の出来事。
鐘が鳴り、ペンを持ち、鐘が鳴り、箸を持ち、鐘が鳴り、用が無くなった学校を後にした。
週末を感激を持って迎えたことも、月曜日に恐々としたこともなかったけれど、何か予定があるのはやっぱりどこかむず痒く、毎晩少しだけ早寝になったりしてしまうような、そんな自分の少女性は愛らしい。
時間丁度、示し合わせたような集合だった。
「おはようございます。じゃあ行きましょうか」
微笑んだ顔に白いノースリーブシャツがよく似合っている。時刻と場所だけ伝えられ、どこへ行くのかは知らなかった。ついていけばやがてわかるのだから、聞くまでもないことだった。
「ストレスというのは厄介なもので、知らぬうちに積もってしまいますから、たまにはこうして、外に出るのも大事ですよ」
自覚はなかったけれど、傍目八目、気を使わせていたらしい。
今日だけは甘えてしまってもいいかな、なんて、甘えた気持ちを湧かせる声に導かれて歩く。掌しか見ていない人とすれ違い、雑踏が反響する通路を経た先、長いエスカレーターを昇った。
とんでもないところへ来てしまった。道が広く天井は高く壁は艷やかで噴水すらある。純粋に小奇麗な人達が色々な方面から集まっては去っていく。ここは私には煌めきすぎていて一人ではとても近づけそうになかった。
口を開けたまま顔を振るだけの私を連れ、慣れた様子でエレベータを呼んだ。
この瞬間には遠く離れた存在に感じてしまう。この世界から私だけが浮いるのでは、と。
スーツ姿の人が何人か降りていった。
慌てて乗り込む。置いていかれでもしたら、きょろきょろ周囲を伺うだけの人形になるに違いない。こんなところでも通いつめれば日常に落とし込めるのだろうか? それはそれでつまらないな、と我儘を思う。
十三階は魚が泳いでいた。
途中止まらなかったから他の階がどうなっているのか想像でしかないけれど、まさか魚が泳いでいるとは思えない。家族や恋人が連れ立っている姿は見なかった。いたのは今日も休日とて働く立派な人々。
ビルの中心をくり抜いて水で埋めるのは面白い試みだとは思う。細かく区分けして名札をつけただけの退屈な展示よりはずっといい。
けれども。
「どうしました? 珍しいですよね。理にもかなってません。でも、ここにはある。目の前にあるのだから、受け入れたほうが楽ですよ。とっておき、とっておきです」
振り向いて言った。
なら、いいか。
理屈で考えるよりは三歩近づくほうが簡単だった。
降りたことを感知したドアが静かに閉まった。
中心にひとつ円柱状の水槽が聳えていて、ここにはそれだけだった。
水が濃くて反対側までは見えない。解説する立て札も注意書きも無い。誰かに観られる事なんてまるで意識していないかのような造りだ。
事実、他には誰もいない。私と、二人っきりだった。
下の喧騒もここには届かない。海の中みたいだ。ガラス越しに見ただけのあの海の中に私は沈んでいる。
小魚の群れ、漂う海月。遠目では平和の象徴のようなものばかりが見えていた。もっと色々な魚がいるであろう上層を無視して見下ろしているからには、なにか特有の、水中にあって地を這うカニや岩陰に潜むウツボを見ているのだろうと期待した。
不思議な引力に惹かれている。家で魚介類を思うときには美味しいかどうかが全てなのに。
そしてそれはそう間違ったことじゃなかった。横に追いついて目についたのは死骸だった。腹を食い破られた死骸が転がっていた。それを悼むでもなく見下ろしていた。
これ見ればいいの、と言えるわけもなく、彷徨った視線は結局、上へ向いた。
黒いものが渦巻いていた。
どこからどこが誰なのか見分けられそうもない。
悠々と遊泳する一匹なんてどこにもいなかった。あるのは混じり合った渦。
蠱毒、坩堝といった言葉が浮かぶ。円周数百メートルの水槽をいっぱいに使って争っているらしい。敗れた者は黒い雨粒として降ってくる。小魚以外にも、いつかは繁栄を誇ったであろう偉大な者も傷だらけで、筋をつくりながら落ちてきた。
向こうが見えないのも当然だった。水は絶え間ない血で濁っていた。それを隠すようにまた渦が動き、撹拌させ、新しい雨が降る。
こんな事をずっと繰り返してきたのだとしたら、どこか愉快で痛快な御伽噺。
そして、自嘲的な揶揄はうつむいたままの隣を見ると、なんとなく憚られた。
しばらくそうして立ちすくんでいたと思う。
何も言わず、何も考えず。静かで、ゆっくり流れている物をぼんやり眺めているのはいい気分だった。
だから、「どうですか?」と聞かれた時すぐに答えられなかった。思考は動かず、放棄されていた。
「多種多様な魚がいますね」
今度は見上げていた。
「初めは仲良くしていたんですよ、彼らも。哀れなくらい慎ましく、距離を置いて。でもここが、どこかで生まれ連れてこられた彼らの支配する世界になった時、そんな自覚が芽生えた後はやりたい放題。巻き込まれていないつもりの群れも組み込まれて、逃れられるのは死んだ魚だけ。創るだけ創っておいて放置していたらこの様。酷いと思いません? 私は同情したのです。だから、私があとを引き継いであげるのです。このままでは滅んでしまいますから。そうならないように私はいるのです」
得意気な表情は一瞬だった。
そして、話しすぎたことを恥じるように微笑みが上塗られた。
「ねえ? あなたに使命のようなものはありますか。やるべきことは? 無為に過ごしてはいませんか?」
愚問。ただダラダラと毎日を生きている者に向かって、聞くまでもないのに。
目的も目標も無い。それが正しいと思ってでは勿論なかった。
けれど一度として、そんな考えは今この時まで浮かばなかった。ただ生きていれば向こうに明日は在り、幸福がやってくる、そんな気がしていたけれどそんな事はなかった。
誰だって、そうだろう。私だけじゃない。
だから、だからどうしてそんなに期待した眼を向けられているのか理解できなかった。
「もったいないですよ」
あなたは言う。
「だって、あなたは――」
――記憶の蓋はいつでも甘い香りがする。
あなたは特別だから。
そう言われると途端にその気になって、そんな気がしてくるのは私がどうしようもなく一市民だからだ。
蛇に見初められた蛙はやがて食べられてしまうとしても、受け入れるしかない、ただそれだけの事だった。否定なんてできるはずがなかった。期待の眼がそうさせる。
「今はまだ気づいていないようですけど。種自身がそれとわからないのと同じですね。焦らなくても、私が後ろにいますから」
それから、どちらからともなく、ぐるりと一周、どこから見ても同じ光景だった。
「こんなものですよ」
彼女は言っていた。
頭が煮えるように熱い。頭上で未だ渦巻くなにかを見下ろしながら、その日、私は眠りについた。
そして起きれば学校が待っている。
次の日、また次の日、寝て、起きて、また眠る。繰り返しているうちに日は短くなり、気づけば月日は経って三年生になっていた。卒業も間近、けれど実感は無い。
合間の催事も感触として残ってはいるものの、それだけだった。ずっとこのまま、なんて都合の良いことはなかった。ひとりでに時間は進み、目の前には進路選択が立っている。どこまでも他人事だったけれど、どうにか願書を提出し、会場に行き、合格通知を受け取っていた。
そして、私はそのまま事も無く卒業した。
四年かけて四年分の経歴を得たにすぎない。知識だけが増え、理解できたことは無い。
一休みする間もなく、次の段へ。まだまだ果てなく階段は続いている。
そして、院に進み、そして、論文を書いて、研究を深めて、それから…… それから?
――どうするつもりだったのだろう。
思い出せる事はいつかの事実だけだった。
時計は二時四十分を指している。
そろそろ寝ないと。
もう少しだけ書き進めようとコーヒーを飲んだのは失敗だった。仕事は遅々として進まず、無用な事ばかり浮かんでくるだなんて。
過ぎれば過去、今はこの散らかり放題の資料を片付けないと。
読むのは明日でいい、どうせ大した事は書かれていない。なにせ書き散らしたのは他ならぬ私なのだから。
――――
昨日が月初めだったとしたら、今日はもう中頃。矢はいつからか置き去りだ。これが大人になるということなのかもしれない。忙しさを言い訳にして、対策を講じず次の瞬間にはもう忘れているのだから消え去って当然だ。
しかし、こうして省みるだけの余裕はその忙しさが生んだわけで。成果が無いわけではなかったのは一つの救い。だから私はここにいる。右往左往狼狽えていた頃に比べればうまくやれている。そう、悪くはないさ。
久しぶりの暇だ。それも来週までの話だけれど。
来週の今頃は飛行機の中――いやいや。今は暑い日の午後、快適とは程遠いけれど、日々の環境と異なっていさえすればそれは休暇なのだから。
隔絶された研究室を離れて実家にいるのもまあ、悪くはない。親はいつまでも親のつもりだから、それに乗っていればいい。
それにしても、十年という月日は建物を高くしていたけれど、道順までは変えられないものなようだ。
懐かしい我が母校達や駅は変わらずそこにいる。毎日当然のように登っていた坂を越え、下り、ガードレールに沿っていけば、最早無関係になった校舎がある。
汗が垂れた。無数のセミが奏でる不協和音と立ち昇る陽炎とを、五感全てで味わう羽目になるのがわかっていてなぜ出てきてしまったのだろう。
懐古するだけの人間性が残っていたのならなるほど、それは可愛らしい。
どれだけ調べてもわからないことばかり。
懐かしい校門の前に立つ。
ここからではL字の向こう側にある教室は見えないから精々、記憶を探る事しかできない。朧気だ、なにもかも。
構造は思い出せる。体の動きに連動した記憶は深く居つく。階段があって、トイレがあって、教室がある。だけれど、床の色や材質、壁は、天井は、引き戸の歪みぐあいまではもう手に残っていない。
消しムラのあった黒板、紙が押し込まれたロッカーが懐かしさしか生み出せなくなっている。
車が巻き上げた風で靡いた髪が口に入った。
もうここは知らない場所。
時が経ち後には名簿だけが残り、私はさしずめ不審者になったのだ。
ふと、誰かが頭を過ぎった、声も名前も思い出せない、面影だけが頭に張り付いている。青い髪を、やんちゃが正統化されるなにかの祭り事? アルバムを開けば思い出せるのかもしれないけれど、まあ、いいか。直上から降り注ぐ熱がなにか考える気力を干上がらせていった。
暑い。存在を認めた瞬間、一層放射が強まる。
アスファルトに一滴のシミができた。
ずっと籠もっていた者には、効く。そろそろ…… 行こう。
この先に目的があるわけでもない。誰かに会うとか、あの先生はまだいるだろうか、とか、考えがあったわけでもない。
そう判断した頭が帰ろうとしても、歩きだせなかった。
足が震え、頭も上がらない。ガードレールにしがみついて、蹲りそうなのを堪えるので精一杯だった。当たり前のようにここまで来ておいて、帰り方を見失うなんて。
汗も垂れない。
口の中が干上がっている。
ああ、これは…… 沢山の疾患が一覧化され、どれも文字にはならない。
全て歪んでいる。あの陽炎のように。
うぅ、唸る声が聞こえる。
黒い影が揺らいでいる。
寒い。さむい。かえらなきゃ。影が育ち炎そのものになりつつあった。そんなわけがない。掌が熱い。急に憎たらしくなった世界に唾を吐きかけても、最早なにもでなかった。
ただその飛沫が焼け石に届きもせず、散った。
そうかそうか。深く吸って深く吐く。まだ大丈夫、今は夏で寒気は負けただけで、常識的に考えればそれだけだった、多少の貧血や呼吸の乱れなど、大した問題ではない。まだ立っていられる。死神が見えているけれど平気だ、虚構だと振り払える程度に私は正気に戻っている。
大丈夫、大丈夫と目を閉じて体を落ち着かせる。
小さな努力。足音で踏み潰されてしまう程度の。
顔を上げず、もう少し素直に蹲っていればよかった。
見るからに暑苦しい姿で常識を壊してしまわなければきっと、私は――
――――――
「人生には四千二百万の選択がある」
男は言った。
「一つや二つ選んだ気になっているだけで生きているつもりなら、君は愚かだ」
ヒゲが生えた痕跡すらない顎を擦った。相変わらず、偉そうな態度だった。
何事もなかったかのように、私は立っている。
不本意ながら二人並び、サメが回遊している水槽の前に。
巨大な水槽だ。水槽という言葉から受け取る感覚とは一致しない程大きい。
いつの間に運び出され、いつの間に介抱されたのか。ここがどこかはこの際どうでもよかった。アクリル越しの水と駆ける少年と人目を憚って咎める声で推測はできる。
人がいる。それが重大な事だと気づくまで、肌寒さはむしろ快楽だった。鍵のかけ忘れよりずっと悪い予感がした。いや、実感がある。内腿に感じるひんやりした空気は、つまり、――スカート。
いつかの制服だった。それはそれで辱めといえるけれど、許容範囲。穴が空いていたり、不完全なところは無い。少し短い気もするけれど、こんなものだった気もする。髪が少し伸びただけ、還暦まで折り返してもいないし、まだ誰も私のことは知らないのだから問題はない。後で見かけても思い出しはしないはずなのだから何も心配することはないではないか。
…………。
うん、無理だ。ならば、なるほどこれは今際の夢。今頃、焼け石に身を焦がしながら助ける者も無く、死にかけているに違いない。その方がマシ。
見るなら喜劇、演るなら悲劇。あれが完成した暁にはある一人の女の努力と遺志を継いだ仲間が訓戒じみた挿話として語られるのだろう。
ああ、吐き気がする。安らかに、なんて幻だ。
しかし、来週の予定が全て消えると思えば悪くない。面倒な会合講演は有耶無耶に、……
小魚が群れで泳いでいった。
羨ましい。
けれど、一回り大きい魚に追われ、その後ろにもまた追従するものがいるのが見えると、思考はまた振り出しに戻っていった。
「ここは涼しいな。いや、まったく、ここは涼しいじゃないか」
賛美歌でも歌い出しそうな勢いだ。間抜けに周囲も乗っかってミュージカルが始まりでもすれば、合法的に気を失えるのに。
「その目。呆れたきった目だ。思い出したか? 腑抜けているよりは幾分いい。ほら、もう歩けるだろう? 立って、自分の足で歩くんだ」
両手をポケットに入れたままの気取った足取りにつられ、歩き出した。
黒いスーツに黒い靴、髪は黒く、影は無い。
私がついていかなければこのまま、どこかへと溶けていってくれるのだろうか。あるいは反対側へ静かに踵を返せば元の安寧へと戻れるのだろうか。立ち止まって振り返る気配は無かった。
細長い哺乳類が泡を吐きながら泳いでいった。
見透かされている、結局は。
中心の展示物には一瞥もせず、ずいずい歩いていく。
目的があるのは明らかだ。この男にも何か、興味というものはあるらしい。
そして、それはどうやら人好きのするものらしい。誰も見向きもしないからという理由だけで展覧会の端に座り、皮肉を浮かべながら陰険な思考に浸っていそうなのに、案外、俗物的なのかもしれない。
幾つかの分かれ道があったにも関わらず、人が増え、流れが押し寄せる方へ向かっている。
道は次第に狭まり、ついに一本の通路になった。精々二人が横に並んでいられる程度で、前も後ろも人間だらけ。
広場がまばらだったから油断していた。こんな事聞いていない。
行列のずっと前方で、騒ぐ家族の声が聞こえた。もう歩幅は半歩程になっていた。けれど、止まることもなかった。生ぬるい沼のような流れで進んでいる。
男は何も話さない。それどころか無表情で固まっていた。
なるほど、声は子供のものだけで、分別のある大人達は黙りこくっている。つぶやきすらせず囁きもせず、物音といえば足音だけだった。
また半歩進んだ。そうして半歩。ざっざっと、不気味なほど、歩調が揃っている。
声を出さないのも当然だった、これでは聞こえようがない。傍若無人に張り上げるか、あるいはキンキン喚くか。あの子供のように――
子供? 子供の声ももうしなくなっている。連れ出されたのか、自発的に察したのか。なんにせよ行軍には不要だった。
入り口から五メートルもないところから展示が始まった。
そもそも入り口までがどれだけあったのか考えたくはない。長い時間をかけてたどり着いたようで、実際のところ、半歩づつでも動いていた甲斐あって苦痛は少なかった。先へ進んでいる実感は重要だった。不満は憚られ、後戻りは損なのだ、うまく丸め込まれた形。
これだけの人が集まり並んでいるのだから、さぞ、と期待していたのだけれど、あるのは肩幅立方ほどの水槽、それがずっと奥まで続いている。それだけだった。ただ、区分けされた生き物が陳列され数珠のように連なっているだけ。何百種類もいるのだからそれはたしかに大層な見世物かもしれない。けれど、雄大な種や重力に屈せず愚直に肥大した種なんかはいない。なんとかヒトデ、だとか、すごいフグ、だとか、俗名と学名が併記された名札を与えられた、手のひらサイズの派生品の寄せ集めだった。
専門でないにせよ、隣の隣の隣の知人程度ではあるのだし、一応興味を捻出して、差分に歓びを見出そうとしてみても、そうするには時間があまりに足りない。
足を止めて一分でも与えられば、ヒレの形や斑点の違いにいきつきもするのだろうけれど、次、次、と閃光のように煌めくばかり。
総じて、磯臭いだけだった。
それでも。そんな中、気づいたことが一つ。どの魚も、動いている者は皆、左を向いていた。
最初は違和感でしかなかった。不思議な連続感の正体がわからず、それはきっと同属同門が並んでいるからなのだと納得しようとした。
丸いものが次第に平たくなって砂に潜る、それは当然の整理で、受け入れやすいものだった。
しかし違った、本質ではなかった。
どうやら、前の魚がいた座標がそのまま次の魚へと写し取られ反映されている様子。マアジが曲がればムロアジは曲がったところからというように、コマが連続してアニメーションを作り出す。ざっざっというリズムの上で何もかもが計算されていた。
気づけば男を見ていた。
一瞬は喜々としてこの密かな発見を共有しようとすら思った。他に相手がいない事実は哀れでも、押しのけてしまえるだけの、真実を握りしめた感覚が、何も知らないものへ知を授ける快楽があった。
しかしそれがなんになる?
だからといって、アジは右を向いたりしない、そう考えると急激に冷め、萎えていった。
ざっざっというリズムを乱すわけにはいかない。
裸のヤドカリを見送って、広場に出た。
中心には相変わらず一柱の水棲世界が建っている。
距離や向きから察するに反対側へ出たというところか。順次放出された人で溢れ、狭い路を抜けた事で妙な開放感があるのか、ざわついている。
見回せば他の穴からも続々人が出てくる。結局、分岐路でどう選択していても終着点はこの広場というわけだ。現に、土産売り、喫茶、外側への連絡路等諸機能が集約している。
男が指した先は喫茶店だった。
混沌の間をすり抜けて店内に潜り込んだ。
ドアが鳴らした鈴の音に気づいたウエイトレスが顔を上げた。
カウンター席を拭いていた手を止め、寄ってくるのを無視して男は自ら望む席へ歩きだしている。
私より頭一つ分背が低い茶髪の女性と目が合う、呆気も合う。
すぐに職務を思い出した女性が、こちらへどうぞ、と儀礼的に私だけを招いた。
ドアが閉まると途端、コーヒーの香りと静寂が身を包み、ふぅとため息が漏れていた。密封された空間だった。ここは暖かく、隔絶されている。
何人かがドアの向こう側、通路へ吸い込まれていった。あの先がどうなっているのかは後で知るだろう。
振り返ると、勝手に動く男とひとり満足気な私に挟まれた女性が困惑を浮かべていた。
やれやれ……。やれやれだ。
窓際のテーブル席に座った。
ようやく出番を得たウエイトレスはテキパキとメニューを渡し、おしぼりと水を運び、「お決まりになりましたらお申し付けください」と礼をして下がっていった。
途中、客につかまり、伝票に書き足している。真面目で溌剌とした本来の姿がキッチンへと消えた。
店内は効果的に照明が散っている。混むでもなく、閑散としているでもなく、うまい具合に人が嵌っていた。三人組もいれば、お一人様もいる。壁際の席で夫婦が向かい合っていた。ここは永遠に混雑とは無縁、そんな予感すら覚える。適度な間隔を保って各々がくつろいでいた。
視界の端で一人の初老紳士が席を立った。はしたないと思いつつもつい、目で追ってしまう。女性が出てくる。会計が済むのとほとんど同時、鈴の音が鳴った。中学生くらいの少女が二人、新たな客として迎え入れられた。
窓からは広場が一望できる。
一階層高い、なだらかな丘の上にここはある。
少し顔を傾ければ一番遠くにある穴倉から開放される人達が見えた。水槽前の二人がけベンチは全て埋まっている。下にいるときは人の壁で見えていなかったらしい。しかし規則正しく並べたのなら、どうして繋げないのだろうか、妙な設計だ。間を縫う人もいない。そこだけが淡く浮かび上がっていて、周りを暗い影が囲んでいる。
明るいのは水槽だけ。人の流れは暗澹としている。
真っ黒な画面に映った照明に焦点が引きずられる。そして顔があった。まだ若く、髪は肩口までで短く整えられていた。ブレザーの上に無理なく乗っている。ただ、こちらを見つめる腑抜けた瞳孔だけが時代錯誤の異物だった。
「君はどうする?」
口を動かすことなくそれは問う。安閑としていた空気にそぐわない、深刻な声だった。
その顔はなにも答えることができない。思考が麻痺していて何も考えられない。じっと、見ているだけ。
「君はどうするんだ?」
もう一度聞こえた。その時、ゆらりと照明が別の顔に変わった。
あの、と困惑を浮かべ注文を待つウエイトレスをガラス越しに一瞥し、男からメニューを受け取った。
「好きなものを選びたまえ」
運ばれてきたのはコーヒーとアイスティー、それとパフェが一つ。
細長いグラスより高くカップより太く積まれた数々の部品達の圧は中々のものだ。
押しつぶされてなにがなんだかわからなくなっている下層のソースとスポンジに支えられた果物の上のアイスクリームに突き刺さった焼き菓子の隣の苺がクリームの上からぼとりと重たい音を立てて男の前に転げ落ちた。
ストローを伝う液体は期待通りの味だった。ほのかな渋みがあり、柑橘の風味が付いていた。
テーブルの木目は真っ直ぐ揃っている。そこにはもうクリームの痕跡はなかった。指を拭いたついでに紙ナプキンが全ての証拠を拭き取っていってしまった。
男はコーヒーを啜っている。冷えた口腔内にはさぞ良いものなのだろう。
ストローからは一口目の半分しか昇ってこなかった、感動も半分で、喉を通ると少し身震いがした。
淡々とした動作だった。
味わっているのかはわからない、ただただ綺麗に、塵も落とさずに解体されていく塔を見ているのはなんともいえない時間だ。意味があるとは思えないけれど、目は離せない。
二つ置かれたスプーンの片方は綺麗に光り続けたままだった。常識的に考えればそうすべきだ、私だってそうするだろう。私達がどう思い合っているにせよ、これは一人で食べきるような代物には見えなかったし、傍からすれば余計な付加的要因が加わるのだから尚更。
私達がどういう関係で、どうしてここにいるのか、それは私にすらわからないのだから。
コースターには水たまりが出来ていた。結局、ずっと見ていたことになる。
男は優雅にコーヒーの一滴を飲み干そうとしている。
なんとも濃密で憐れな時間だった。
満足と喪失は必ず比例する、その対象が二人いる限りは。
男は砂糖もミルクも入れていないコーヒーをくるくるとかき回している。二杯目。単にそういう注文だったのかサービスか、見回りの道すがら、ウエイトレスが注いでいった。屈強な消化器官を持っているようでなによりだ。
そもそも、どういうわけか飲食とは全く無縁に思っていた。ありえない事だけれど私はそれがあり得る可能性を考えている、そしてだからこそ、それはまだありえない事だと断じることができるのに、そう思い込んでいた。
それにしても、飲み込まれた大半は水分で、温度差も大きいのだから胃腸への負担は想像に難くない。肝臓や腎臓は今頃不定期出社に悲鳴を上げているだろう。健康とは一体、それがわからない。
「考え事か」
男が口を開いた。明らかについでだった。
「まあいいだろう。こういった場所では気ままに過ごすのが一番だ。本を読むのも、外国語を学ぶのも、あるいはそれを冷ややかな目で眺めるのも、自由だ。なにをしていてもいいし、なにもしなくてもいい。それらに比べれば甘味に興じるくらい、あまりに自然じゃないかね?」
特に言うべき言葉は見つからなかった。
その通り。そう思いながら店内を見回す。
カニやらイカやら、見てきたものを語りながらケーキをつつく、それもまた自由と言えるのだろう。
「理屈もある。あの塔は期間限定の特製であり、オススメの流行りでこの店の目玉、さらに――」
胸ポケットから二枚の紙を取り出した。一対の割引券、期限は雨が降るまでとある、あまりに曖昧だった。
「だからなんだという話で、偶々目についたものを私が欲したというのが真実なのだがな」
片方だけ持ち上げられた眉に向けてグラスをぶち撒けるのもまた、自由だ。
私にはそうする権利がある。そんな気がしていた。
波々注がれたオレンジジュースらしきものを飲む気にはなれなかった。かといって、いらないとも言えず。
水も油も弾き必要とあれば粘土のように造形を変えてしまうのではないか、そう推測される男は続ける。
「だが、動機。動機が必要だ。たとえそれがいかに愚かしく不可解なものであっても、異質として排除されない為にはそうするよりないのだ」
ここではな、と付け加え立ち上がった。
「さて、出よう」
カップは空になっていた。
一歩外に出るだけで環境は一変した。
こちら側に満ちている冷ややかな空気が内腿にまとわりつく。
丁寧に見送ってくれた女性はガラスの奥でせっせとテーブルを拭き始めている。依然としてあそこだけが明るく、温かみを持っている。
もう戻ることは二度とない。そう実感すると、私に与えられた貴重な一時だったことが思い知らされた。
下から唯一の出口へ向け昇ってくるこの流れにこれから乗るのだと思うと、思い知らずにはいられなかった。
一人なら躊躇われることでも二人でならなんとか、それは幻想でしかない。嫌なものは嫌だ、やりたくない。だから私のような人間には図々しく割って入る存在が必要だ、今だけは付添人となったこの男のように。
しかし、こうして見比べると流石に際立っている。これは最も忌避していた最低最悪の認識だったのだけれど、やむを得ない、こう人だかりの中にあっては人間の性として避けようもなかった。比較こそ、だ。
文字通り頭一つ抜けた長身と尖りきった耳、見えているのはわずかにそれだけでも見失うことはない。最早なにを隠すこともないというわけだ。目を閉じていても隣にいるのが感じられてしまうのは癪だった。
「君は覚えているのだろうか」
男が言った。
その表情は窺えない。
声色も聞き取り辛かった。
大半は埋め尽くした人が吸収しているけれどそれでも反響して、無慈悲な宣告にも宴席での暴露にも聞こえている。
「余計な話はよそう。あれこれ手札は揃えてみたものの配慮している時間もないのでね、単刀直入、君を刺す事にした。君がそうしたようにな」
機械的な鋭いものに変声していた。
「君は罪を覚えている」
どこへ行くのだろう。私にはわからない。どこでもいい。人混みを押しのけて走り出したい欲求を押さえつけるだけの理性が私を人たらしめる唯一の要素だ。知性は無くても理性はある。損得を天秤にかけることができていれば千里眼は必要ない、足元を、前を行く人の服のほつれを見ていればトンネルは抜けられるのだから。
罪。
ありえない戯言だ。だって私は……
「君は罪を犯した」
そんなはずはない。
その必要はなかったから。
「君が殺した」
それは仕方なかった。
私が望んだことじゃない。
男が足を止め、見下したような気がした。
けれどそれは錯覚で、私は歩いている。
「言い訳、あるいは理由が必要だ。非情には。人は正義を相手の眼に見ることでのみ、失われたものから目を逸らしていられる。それが不和の始まり、あらゆる悲劇の根源だ」
たかが。
「人形一匹。しかしそれが君とどう違うのか」
それに。
「生きていようがいまいが、殺した事実は変えられない。殺してもいい、その裏切りが全てなのだから」
お前は望んだはずだ。お前が殺した、選択した。お前が、お前が、お前が。
真っ暗なトンネル。カツン、カツンと、床を叩く音がする。
カツン、カツン。カツン、カツン。
私は歩いている。
私の足音ではなかった。私達の。
人混みは相変わらず。
どこかからマーチングバンドの愉快すぎる演奏が聞こえた。
気のせいではない安寧がそこにある。
ざっざっざっざっざ…… 軍団の行進は続く。
前から降り注ぐ逆光へ、走光性の獣になって、自然と早まる歩みを抑え、集団の中で飛び出さずにいるのがもどかしい。
あと少し。あと数歩。
ざっざっざっざっざ…… 軍団の行進は続いていく。私だけが道を逸れて。
あの男が押したのかもしれない。ざっざっざっざっざ…… そうだ。そうに違いない……
あの男が。悪魔が。
全てが遠く、離れていく。
悪魔が見下ろしている。甘言に乗せられた憐れな人間の末路を。
それでも雑踏は続く。
カツン、カツン、と無二の音は高らかに去っていく。
どこかから歓喜の声が。
それも私にとってはただのノイズで。
ざっざっざっざっざ…… 黒い渦が遠く回り続けている。
ざっざっざっざっざっざっざっざっざ……
――――――
ごー、と頭の中にエンジンを埋め込まれた気分だ。
何も聞こえない、何も見えない。
音に集中していると少し楽だ。何も考えずに身を委ねていられる。
リズムも言葉も無いけれど、今はこれで十分だった。ずっと聴いていればやがてそこにはアクセントがやってくる。どうせ錯覚だとしても、退屈まぎれにはなった。
ぷつぷつと広がる音の断片を一つ二つと拾い集める。情報が記録と参照できる大きさの欠片になるまで、せっせと耳を澄ます。
「――。 ……――、か。」
ジャックを挿し抜きしている誰かを求め、不明瞭な部分を補うために意識が無数の記憶の中へ潜っていった。
不鮮明で酷く荒れている。
「……ゃん。――る?」
聞き慣れた声、親しみ深い声。
ブツっと鼓膜が破れたような音と共に耳鳴りが大きくなったかと思うと、急に静かになり、それから規則的な不連続音に上書きされた。
――――――
すぅすぅ。
寝息だった。穏やかで平和で制御されている。
それが自分のものだと気づくのに時間は必要なかった。けれど、もう少しだけ眠っていたい。起き上がるにはもう少し時間が必要だ。
寝返りを打った勢いで瞼が開いたのか、それともずっと天井を見ていたのかはどうでもよかった。どちらにせよ白い。
無防備に開かれたタイルが柔らかな秘境の奥に見えていても、寝ているのだから仕方がない。
「起きました? 起きてますね?」
目を覚ましたときにはもう、白かった。
一瞬の油断が命取りだった。
誰かなんて決まっているのに、わざわざ確認しようとなんてするからそれは手で抑えられてしまった。
「見えてしまったものは忘れてください」
手を伸ばすことなんてできるはずがない。私のものではないのだから。
授業中だった事、脈絡がなかった事、それら流し込まれた情報を見るに、運び込まれたらしい。「急に倒れるからびっくりしちゃいました」と、思えばそんな気がする。
まさに備品といった感じの硬いベッドに横たわっていた。
仕切り用のカーテンは開いている。
「気分はどうです? 記憶は?」
微かに漂う消毒液の匂い。
「大丈夫、大したことはありませんから。私がいます。私はここに」
ここは保健室。他のどこでもなかった。
内側からの景色は実務的で、どこか抱いていた近寄りがたさは感じられない。
先生はいない様子。
ずっと見ていてくれたのだろうか?
目が合った。
時計が刻々と音を立てている。
抱きしめたい。抑え切れないほどの抱きつきたい衝動、ベッドに引きずり込んで甘やかしたい欲望のような激しいものではなく、静かな気持ちだった。けれど情熱的に。
けれどそれはできない。そうすれば嫌悪されるのがわかっているから。
私は知っている。それがどうしてなのかがわからないだけ。
「まだ目が虚ろですね。 ……そうだ。屋上に行きましょう。風に当たるのはきっと、心地いいですよ」
気が気でなかった。
そんなはずはないとわかっていても、誰かがついてきているような気がして振り返ってしまう。
そして置いて行かれないように駆け足になり、足音を立ててしまう。そしてまた……
奇妙な臆病を発揮しながらも、クラスメイトへの罪悪は感じなかった。なにより怖いのは、摘発され彼女が連れ去られる事、そんな、ありもしない不安だったのかもしれない。
雨の匂いが染み付いたコンクリートに腰掛けた。つい数分前まで降っていたのだろうか、空模様は暗い。コンクリートの鈍色をそのまま映した色だ。
やっぱり。
隣には座らず、段差に立った。
前と同じ。また手を後ろで組む。
そして、話し始める。
「私は貴方が穏やかに過ごしていければなと思うのです。それだけが存在理由だといっても過言ではありません。それなのに。せっかくうまく生きていられたのに、余計な邪魔はいつでも肝心なときにやってくるんですよね。机に向かおうと立ち上がったら小言が飛んでくるだなんて、絵空事だと思っていました。怠惰な人間の被害妄想。だって、どちらが先だったかなんて証明できませんから。先に現れた方が先にある。書き換えられた過去は書き換えられた時点で書き換えられた過去ではなくなってしまう、それと同じだと思っていたんですけど。あぁそんな顔をしないで、聞き流してくれて構いませんから。起こるべきことは起こるべくして起こると考えるしかありません。人間があるべくしてあるように、点を何色で結んでも直線であるように。十年前の親を殺しても子は死にませんから。真理が真理である限り、消えたりはしないのです。ややこしいですか? 簡単な事ですけれど。まあそんなことはどうでもいいのです。どうでもいい、ということ自体には意味があるんですけど、禅問答はこのへんで。重要なのはあなたがここにいて、わたしがここにいる事。それは受け入れざるを得ない現実ですから。でも、私はそれも愛してあげます。戻ってきてしまったのならもう一度。失敗したのなら何度でも。やり直しを。願望を叶えてあげます。何度でも何時までも、ずっと側で、見ていてあげますよ。それが私達の呪い、貴方達の定め。思い出しましたか? あなたは特別な存在。忘れてしまうのなら何度でも、思い出せるまで私は側にいますから安心して。後ろの席のあの娘として、ずっとずっと、何時までも。忘れてしまっても構いません。カミに見放された貴方達が滅んでしまわないように、わたしが守ってあげます。大切な人、愛おしいあなた、憎い貴方達が存続していけるように。まだ聞こえていますか? もしかして、聞くのをやめてしまいました? ねぇ? 他者に破られるだけの将来なんて不要です。誰かの意思で行動で、努力も才能も無駄になるのなら、初めから無ければいいんです。ほら――」
紙が、それは私の…… けれど、手の届かないところに。
「これは凡百の凡夫が路頭に迷わない為の紙。拒否する為の選択肢。青春に抱く一過性の夢想ではない現実の役目があるあなたには、こんなもの必要ありません」
やさしくとろける瞳に眇められている。
いつの間にか膝に寝かせられていて逃れることはできない。
「悪夢は忘れて。またやり直せば大丈夫」
微笑みを隠す紙に指がかけられた。
――――
ビリッ。
どんな目覚ましより有効な音が頭に響いた。
現実は煩わしければ煩わしいほど把握が容易になる。
目が覚めた。
また眠っていたようだ。
仕方ない、ここ最近のストレスは自覚できるまでに高まっている。
手にはペンが握られたまま、ずいぶん器用なことで。
倒れたカップが黒い川を作っている。内腿がやたらと冷えているのはそのせいか。
ピタピタ、ゆっくり確実に床が濡れていく今が何時なのかは知りたくない。ただ疑似太陽が沈んで月に変わっているあたり、ここにとっては夜だった。
珈琲で染まった紙が暗い部屋に浮かび上がっている。書類が芸術なら、このまま提出でもいいのかもしれないけれど、そういうわけにもいかない。
ふぅ……
珈琲でも淹れなおそう。
破れたものの代わりを探すのはそれからでいい。書き直すのもそれからだ。
電気ケトルに水を満たしてやり、仕事を伝える。
オレンジ色の光が了承を示しはするけれど、このポンコツはたびたび失敗する。水を沸かしきって水蒸気に変えてしまうことが仕事だと思っている節があった。温度センサーがイカれてしまったのか、単に歯止めが効かなくなってしまうのか。まあ、やる気だけは認めてやろう。空回りを指摘して拗ねられるほうが面倒だ。
頭が痛い。
……。
どうしてお湯を沸かすんだっけ?
部屋が揺れている。
これは錯覚。
部屋には誰もいない。当然の事、なにを今更。
誰もいるわけがない、この部屋には、誰も……
カップは倒れたまま。手でまさぐってもそれはカップで、割れたところは無さそうだ。新しいものを取りに行くのは面倒だし、こいつでいい。シャツの裾で飲み口を拭った。
月明かりが見せつける散らかった部屋。
いつからこうなってしまったのだろう。責任は自分にしかないはずなのに、どこか他人事だ。明日が来たら明るいうちに片付けよう。
いい加減流しもなんとかしないと、万が一ということもある。やつらの強みはそこにあるのだから。
忙しさは逃避でしかない、結局、私がやらない限りは―― 足が何か蹴り飛ばした。
少し滑って止まった。とぐろを巻いた紐の束。梱包用にいつか届けさせたまま放置されていたらしい。たしかそうだったはず。
カップをデスクに戻し、手にはカッターが握られていた。
勘を頼りに作られた輪は試してみるとどうにも大きすぎた。もう一度。結び目が二つできてしまったけれど、これはこれで案外丈夫さを買っている気がする。手練れならこうするだろう。この世にいるのならば。
どこにひっかければいいのやら。天井は意外とまっさらだ。
そうだ、ドアノブがいい、丁度いい高さだ。この為に作られたと言ってもいい。これなら、腰掛けて居眠るだけで事が済む。椅子を蹴る事すらいらない。面倒くさい。もう一眠り、そう、最後にもう一度眠りにつくだけ、大した出来事じゃない。
吐き気がする。少し横なるだけだから。そうしたら全部やる、だから少しだけ……
足がふらつく。
真っ暗だ。
何も見えない、ここはどこだ?
脳の血管が破れタンパク質が変性してもう元には戻らない。誰かが呻いた。耳障りな物音もどうでもいい。立ち上がる気力はない。うぅ…… トイレにいかないと。でもどうして。どうせ。眠い。このまま眠ろう。明日、あした…… ごうごうと水が蒸発していく。そうだった、止めないと。でももうなにもしたくない。どうすれば。わたし…… わたしは。キモチワルい頭がいたい。汚れたら洗えば大丈夫罪じゃない。私が使うだけなんだから。わたしが一人で、私は一人。私は――
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