目を閉じれば目が覚め、夜が明ければ朝が来る。春が過ぎれば夏に移ろい、1+1はやっぱり2だ。

 戯言が微睡みと混ざり始めると共に一日の始まりを感じ、枕に縋り付いてみても意識は覚醒するばかり。

 また、今日が来た。

 朝、少女は時間の中へと戻った。

 抵抗も虚しく、追い打ちをかけるようにアラームが鳴った。時刻を確認、二度三度寝返りを打ってから意を決して頭を起こした。

 もはやここに安寧はないと、足の間から猫が抜け出た。そのぬくもりはまだ残っている。

 一階から流しに水が流れる音が聞こえる。

 もう一度時刻を見ると五分経過していた。まだまだ余裕はある、ぼんやりとこなしていけばいい、これまでもそうしてきたのだから…… 少女はそう思いつつ目を閉じた。

 荷物は昨晩のうちに纏めてあり、課題も済んでいた。だから、ベッドの誘いさえ断れば大丈夫、どうということはない。そう考えながら、片耳だけがドアノブに飛びかかる音を聞いていた。勝手に入ってきて勝手に出せと騒ぐ猫もたまには役に立つ。

 拳一つ分の隙間が開くとすぐに飛び出していった。小気味良く階段を降りる音について少女も部屋を出た。

 まだ瞼が重く前が見えていなかったが、食べ物の匂いが呼ぶ方へ。足が体を運ぶ。椅子に座り、丁度置かれた熱いコーヒーカップに、私はいい立場だな、と少女はなんとなく思った。

 向かいに座っていた父親は半分と少し食べ進んでいた。

 起き抜けのぼやけた表情ではなかった。今日一日の為に仕方なく口を動かしているのではなく、この為に起きてきたといわんばかりの活力をすでに湛えていた。新聞片手になどこの夫に限っては無縁だった。妻を未だにちゃん付けで呼ぶこの夫には。

 今時、十代の初物カップルでさえそこまでベタベタしないだろうに、あろうことか自分の父親が。彼が母親の話をするたびに少女は娘としては複雑な気持ちになっていた。

 そんな父に対し、唯一憧れられる点は職業だった。

 とはいえ、そこに高尚さや意義を見出していたのではなく、朝が最も気怠い少女にとって出勤の無い在宅職が魅力的に映ったというだけで、仕事の内容までは知らず、興味も無かった。

 現状の生活に不安も不満も感じていないのだから、それで十分だった。

 一方で、忙しい中でも家にいられるときには今朝のように朝食を必ず用意してくれ、外では医師として働いている母親は十分母親らしく、また一人の人としても善く映っていた。仕事で家を空ける事も多かったが、それはそれで美点として映った。

 父の先見と献身に気づくにはまだ少し時間が必要だったのだ。

 母と母の夫、それが少女に映る両親だった。

 パンとハムエッグを母が運んできた。生まれ備わった本能が、あるいは教育がそれを食べ物だと認識させ、少女は空腹を自覚した。

 思考は必要ない。食べようとするまでもなく、自動的に口の中へ放り込まれ、消化類が各々の機能を働かせる。ただ味だけが、無意味な喜びだった。パンはパンであり、卵は卵だった。

 掴んで咀嚼、掴んで咀嚼。何度も繰り返しているうちにようやく脳が動き始めた。肥えた重役は遅れてやってきて、すぐさま飲み物を所望した。

 いつの間にか、隣に弟が座っていた。

 酸素が足りていない魚の目をしている。虚ろに口が空き、首が座っていない。寝癖が右に左に好き放題ハネている。だらしがない奴だな、と少女は棚の上から見下ろした。

 特別な会話も無く、静かな朝。一仕事終えた母親の確かな目がいつもの日常だと告げていた。

 同じ場所で同じ物を食べていても、食器を鳴らすリズムはそれぞれバラバラだった。

 もう三十分もすれば散り散りだ、玄関を出る時間だって違う、それなのにわざわざ集まっているなんて……

 どこからか幸福な気分が湧いてきたが、すぐに気恥ずかしさが勝り、残っていたレタスの切れ端と一緒に飲み込んだ。

 食器を片付けながら少女は、食べて、学んで、眠る、毎日の生活のサイクルを思い描き、途端に、自分がとても怠惰な生き物に思えた。

 しかしそれが学生というもので、少女はまだそうあって不思議はなく、むしろそれを望まれる段階にある。これから先のことなど一つも考えず、必要もなく、目の前の出来事に喜びを哀しみを感じることさえできていればそれでいいのだが、当人にとって、持て余した感情はどうしようもないものだった。

 水がシンクを流れていった。慌てて蛇口を戻し、少し強めに締めた。

 完全に制圧された夫婦空間に取り残された憐れ極まる弟を背に、洗面所へ。

 歯を磨く前に一度顔に水を掛ける事がルーチンだった。外気で冷えた水を浴びて一息つく瞬間はなんとも朝を感じられた。

 右手を動かしながらも意識は鏡の中にあった。いつ見ても同じ顔だ、十数年前から変わらない。童顔なのではなく、既に完成されたものだった。顔にはその者の理性が表れる。次いで性格、現状が塗られ、最後に時間が刻まれる。

 濡れた手で梳いて寝癖とは言えない程度のハネを直した。

 肩口までで纏められた髪型は気に入っていた。

 色や形ではなく、手で梳けば元に戻り、水気を拭いて放置しておけば勝手に乾く利便さが。

 そして、それは一種の精神的バロメータでもあった。髪を切り行くのが億劫な時にはそのまま、伸びるだけ伸び続けるのだった。

 顔を洗って歯を磨いて髪を梳かしたのだから、残りは着替えるだけ、気は進まないがやるしかない。ぐったりした弟と入れ違いに洗面所を出た。

 まだ二人は寄り添っている。死んでいるのかもしれない。

 気にせず、階段を登る。

 少女にとっての朝とは斯くも簡素なものだった。これで十分、というよりはただの怠惰。実際その必要は無いが、少女にその自覚は無かった。

 女子高生曰く、朝の準備とは長く辛い道のりで複雑なあれやこれがある。そう聞かされはしたが、同調はできず、他人から見て見苦しくなければそれでいいのでは、と思いつつも愛想に巻いて適当に流していた。そんな時間があるならのあと五分でも寝ていたほうがずっと幸せだった。

 自室のドアを引くと冷たい空気の塊にぶつかった。カーテンがはためいている。冬の匂い。知らないうちに窓が開いていた。

 短い記憶を検索しても当たりはなかった。引き違い窓を風が開けるのは無理がある、死人同然だった弟にそんな余裕はないだろうし、ここは二階だ。どうしても、寝ぼけた自分自身の仕業でしかなかった。問いただせばアリバイが無い。検察は攻め立てる。頭の中では多くの人員が討論をしていたが少女にはどうでもいい事。ベッドに膝を掛けて窓を閉め切った。議会も閉会。部屋が冷えてしまったけれど、着替えなきゃ。悲壮な決意だった。

 クローゼットを開け、取り出してはベッドへ放り投げた。入学式の日にどう扱っていたかなど覚えているわけもなく、淡々とした事務的な乱暴さで。

 靴下を履いてから伸びきったシャツを脱ぎ捨て、どこからか供給される文明を身につけた。ブラウスのボタンを掛け間違え、スカートを上げてもまだ下を脱ぐのは躊躇われた。

 時間は掛かったがなんとかやり仰せた。達成感すらある。素肌が触れている空気の冷たさがその実感だった。

 まだぬるい抜け殻を洗濯カゴに入れて、やるべき事は全て終わった。そしてまた、次のやるべき事が始まるのだ。

 部屋を出るときに一度だけ、ノブに手を掛けてから隅の姿見を振り向いた。毎朝の癖だったが、少女は気づいていない。

 いつだったか母親が置くと決めた。内心では邪魔物を押し付けられ不快だったが、言えば争いになるかもしれない、そう考え黙って受け入れた。

 功を奏してかどうか、未だ好奇の眼差しで見られた事はなかった。今日もまた昨日までと同じ様相が写っていた。

 右手にブレザーを左手にカバンを持って階段を降りた。防寒は首に巻いたマフラーくらいで、コートは無かった。どれだけ寒くても着ていく気にはならなかった。

 食卓は綺麗に片付いていた。

 父親の姿も見当たらない。

 緩やかだった空気は一変していて、各々の時間が動き始めていた。

 洗い物をしていた母親は娘が降りてきたことに気づくと流しを止め手を拭いた。

 少女もなんとなく、キッチンへ意識を向けた。当然を期待しながら。

 偶に二つ、今日はあなたの為の一つだけ。少女は弁当を受け取った。赤いチェックの手ぬぐいだった。底がまだ温かい。

 丁度、洗面所から弟が現れた。すれ違ってから時間が経っているにも関わらず、寝癖は少しも変わっていなかった。

 なにをしていたのか。先に着替えを済ましたわけでもなく寝間着のまま。ただ、今は満足気で自信のある眼をしている。幸せな奴、少女は思った。

 揃えられたローファーをつま先に引っ掛け、踵を入れようと左足を持ち上げた。

 バランスを求めた右手が体を支えようと伸びた先でなにかを踏んだ。

 反射的に手が浮いた。

 慌てて左足が地に着き、半身を壁に預けることでなんとか、転ばずに済んだ。

 猫はどこにでもいます。丸まったまま、ちらりと見て、また眠った。わざわざ堅くて冷たい棚の上で眠らなくてもいいのに。そんな批判的視線など意に介さない。

 ぶつけた肩や無理な着地になった足首に異常はない、が、丁寧に履いてきた踵が潰れていた。見事な折れ目だった。一度こうなるともう、どうでもよく感じた。

 癪だけれど。端に指先だけでバランスを取りながら靴を履くしかない。

 猫は何事も無かったかのように、眠っている。

 ゆっくり上下している無防備な腹を見ていると羨ましいやら、妬ましいやら、珍しく複雑な感情が湧いた。

 ――私が学校へ行っている間もほとんどは眠り、偶には水を舐めて、過ごしているに違いない。気楽なものだな、と。

 そして、もう一歩踏み込んだ。

 ――でも、それを、私は……?

 それ以上先は空白で、路地に詰まったコンピュータのように思考は止まった。

 焦点は遥か遠くへ。一切、時間が止まった。

 猫はなにも答えてはくれない。

 ただ尾をゆらすだけ。

 ハッと、気を取り戻した。

 なにをぼーっとしているのか。刻々と余裕は食いつぶされている、あるのかわからない程度の余裕が。

 つま先で床を叩いて足に馴染ませた。すぼんでいたブレザーを広げ、ぐるりと回して大げさに羽織り、それから袖を通す。

 裾が猫の顔を殴った。

 顔を潰し、睨まれている事には気づかない。

 何か命題があった気がしたが、もう忘れていた。

 考えるより先に手がポケットを叩いた。手癖だった。えーっと、と間を置いて自分の行動を考える。

 鍵。自転車の鍵を探していた。

 無意味に内ポケットも弄ってみてもやはり無い。

 焦りはなかった。

 財布、にも無い。

 面倒だったが、カバンを漁ってみてもやはり無い。

 腕を組み、昨夕を思い出す。締めて、握って、それから……

 その時、猫が跳んだ。母が専用の食器を鳴らし呼んでいた。

 ひと目。あっ、と。

 そんな事あるか? と思いつつも自分の雑さを反省した。

 カバンを開けたついでに中身を確かめる。筆記具類、弁当、財布、必要なものは入っていて、そうでないものは存在しない。満足してジッパーを雑に閉じた。ジジという苦しげな音が登校を意識させた。

 さて、行こう。などと勇ましい決意はない。日常だ、昨日までのように明日もあるのだから、一々大切に踏み出すことはしない。

 それじゃあ、行こうかな…… くらいの気分で、「いってきます」と誰にでもなく挨拶をしながらドアを開けた。

 紫外線が目を貫いても怯みはしなかった。

 ノブから手を離したところで後ろから声が聞こえた。が、遅く、言葉の途中で閉じる音に遮られ、はっきりとは届かなかった。ただ意味は通じた。

 今日は快晴。雲ひとつ無い青空、ありきたりな冬景色でありがたみなど感じられなかった。雨でなければなんでも構わなかった、どうせ寒い。

 光に心地よさを感じたのは一瞬で、冷たい空気が体を包んだ。

 さむっ、と思う間に登校十分間が脳裏を駆け抜けた。人のいる暖かい部屋は背にあって、遠い。次に冷たさを感じたときにはもう、自転車は動き出していた。

 歩いて通った母校も今は見慣れた景色に溶け込んでいる。毎朝、同じ時間、同じ動き、同じ道程。初日こそぎこちなく周囲を確認しながら登校したものだったが、三日目となればもう慣れが支配していた。

 全ては繰り返し。

 意識がなにかを捉えることもなく、ぼんやりと夢見心地だった。信号のルーチンが変われば最初の交差点で轢かれてしまうだろう。だが極稀に、クラスメイトと出くわしてしまったときだけは意識が戻ってきて、つまらない愛想を交わした。一撃必殺のトラックよりずっと恐ろしかった。

 少女には何も見えていなくても、そこには在るべきものは在る。外にいながら目を閉じ耳を塞げる程には仙人じみていられない、残念ながら、そうはいかないのだ。信号で止まった時に周囲を固めるスーツの群れ、車がアスファルトを擦る音、意識が拒否した物事は常に無意識に溜まり、積もっていった。

 坂を登って下って、信号を遵守し、ガードレールに沿い最後の角を曲がった。誰にも会わない穏やかな登校だった。校門めがけて三方向から集まり来る電車組もまだまばら。校門前にガタイの良い男性教師が立って、一人一人に声を掛けている。善い事には違いない、が今日も半袖のラガーシャツ。目が凍らないようにうつむき加減で横を抜けた。あいさつは返さなかった。

 地下にある駐輪場へ、感覚が弱くなっている手でブレーキを引きつつ、長めのスロープを滑降する。雨が降った日には身の危険を感じるが、なんらかの対処は気配すらなかった。空気を切る耳が痛い。最早意識ははっきりとしていた。学校へ着いた。

 打ちっぱなしの大広間。枯葉が隅に溜まっている。

 まだ、自転車はほとんど置かれていなかった。最手前でも最奥でもなく中央寄り、柱の隣に詰めて停めた。大抵そうした。好きに選ぶのはなんとなく苦手だった。列だけは学年毎に決まっているので困らずに済んでいた。

 スタンドを立てて馬蹄錠から鍵を抜いた。

 とりあえず、ポケットに。先月鍵を見失ったときに立てた誓いはとっくに忘れていた。

 背中からブレーキが軋む音がした。

「財布落としましたよ」

 色々な躊躇いや引け目がその男子生徒にはあったが、少女に聞こえたのはそれだけだった。

 対して、少女のぶっきらぼうな感謝にはいくらでも花が咲いた。

 誰だか知らないけれど、いい人はいる。少しだけいい気分で、今だけはそう考えた。

 ここから四階まで。毎日の事でも、辟易とはする。

 また無へ回帰しようにも、ここでは人の目があった。街中ですれ違うだけの人々とは違い、意識せざるを得ない。

 そうなるともう優等生の心が少女を支配して、少女を少女足らしめた。起床は二時間前、予習を済ませてから優雅に余裕を持って登校したかのように映っている。姿勢良く静かに階段を登っている姿は八彩咲希、その人だった。

 無表情も周りからは美徳に映った。ただ意識が飛んでいるだけなのだとしても、それを視るのは少女ではない。いつも何か考えている様子、と容姿が成績が言動がそう感じさせた。目立ちたくないだけでも、それは慎ましやかさに。どこか遠くの人。少女が角が立たないようにすればするほど、互いに深みへ嵌っていった。愛想はあったが、なにかが欠けていた。例えば、教室に入ると同時に恥ずかしげもなく寒さを共有し合うような愚かさが。

 焚かれた暖房のむっとした気圧を感じた。籠もった重たい空気を押して自分の席へ。窓際後ろから二つ目。後ろは空席。十人も座っていなかった。時刻は八時十分を回ったところ。

 あと数分もすれば予鈴が鳴り、担任教師が入ってくる時間だが、これがこの学校の有り様だった。

 入学当初はもっと早い時間から席が埋まっていて、妙な緊張感があった。緊迫と言っていい。多寡はあれど皆、気を立てていた。ドアを開ければ顔こそ向けないが、一斉に意識を向けられている感覚があった。それが一人、一人と減っていき、今ではこのざま。真面目で怠惰な人間が自由を誤解した結果だった。

 もう電車が最寄り駅に到着している頃、数分もすれば大量の人間が群れをなして校門、階段と登ってくる。きっと、朝がどれだけ気怠くてもなんだかんだと動き回ることができているのはこの群れに巻き込まれたくないからだろうな、と浅く座りながら少女は思った。後ろ側へ外れるという突飛な発想はなかった。

 手持ちぶさたな時間。腿に手を挟んで時計と窓の外を行ったり来たり。暖房は正面ばかり乾燥させていて、背中はまだ冷たいまま。三度の席替えにも関わらず毎度隣人だった彼女は今日も遅れてやってくるのだろう。四十の中から二人が隣接しあうのはどれほどの確率なのか、考えてみようとしてやめた。前後はともかく左右まで考慮するのは面倒だった。

 今日はどんな言い訳をするのだろうか。昨日は捨て宇宙人を拾っていたらしい。色々聞かされてきたが、最早現実と夢想の区別は無かった。言い訳は形骸と化していた。いつでもきっかけはあちらから、それが少女の認識だった。

 先頭の話し声が聞こえてきた。反響していて何を言っているのかまではわからない。

 もうすぐ鐘が鳴る。ここまでくればあとは八時間弱、稲穂のようにここで揺られていればいい。それはやはり気楽で、だからこそこうして、日々悪態をつきながらも集まるのだった。

 男子の笑い声が響いた。

 扉が開かれると雑踏はより大きく。満員電車から排出されたエネルギーが学校を動かし始めた。人が途切れることなく扉をくぐり、教室を満たしていく。

 もう暖房は必要ない。それまでじっと動かずにいた者も反応して次の連鎖を生む、そうして互いが互いに熱し合いながらその日の為のエネルギーを蓄えていった。

 少女も例外にはなれなかった。

 見た目派手なギャルギャルしいギャルに、「おはよー」と言われれば言われるまま、「おはよう」と返すよりなかった。

 初日、一目でなるほどなと感じ、壁を建てていた。なるほど相容れそうもない。

 他人に好きも嫌いもなかったが、混ざりようがないものがある事はわかっていた。正反対の人間だと思った、なにもかも。

 しばらくは隣人、けれどそれが終わればもう関わることはないのだろう。もしかしたら何かの折にクラスメイトだった事実を思い出すかもしれないけれど、その時まで付き合いが続いている、なんてことはない。仲よさげだったとしても、そうなのだから。

 少女の思惑とは相反し、引き続き隣人は喋り続けている。顔だけを向けて、言葉が耳を滑り抜けていく。少女も口を開いてはいるものの、それは到底会話ではない。

 視覚に頼り、相手が不快さを表さなければそれでよかった。前の席に男子が座った。肩に糸屑が付いているが、気にしなかった。声もかけない。ギャルは隣で捲し立てている。

 騒がしさは加速度的に上昇している。大衆居酒屋と同じ理屈。

 実際にはここは学校で、声が枯れるまで騒ぐわけではない、極点があった。つまりは予鈴が鳴り、担任が入ってくる瞬間に最盛を迎え、静かにしろとの色々な合図で弧を描いて落下する。端で燻り続けもするが、それくらいが丁度いい日常だった。完全な静寂は支配と変わらない。

 テキトウな生徒には相応しく、テキトウな担任だった。最低限の管理と業務連絡だけ、カップ麺より早く朝礼は終わった。いつも通り。今日も重要なことはなにも無い。隣の教室ではまだまだ熱心な情報寄与が行われている中、廊下側でじゃれ合っている男子達は運がいいな、と少女は思った。

 本鈴が鳴った。暇そうに座っていた担任はすぐに「じゃ、そういうことで」と立ち上がった。誰一人、どういうことなのかわかっていなかった。

 教室には未だに空席が目立つ。離れた位置の友人同士の逢瀬に使われ、空いたところへまた誰かが座った。授業まで十分弱、特別話したいことは無いが、なんとなく、そんな人の流れが渦巻いている。

 誰もがそれなりに楽しそうに映った。そろそろロッカーから教科書を取り出さないと、混む。立ち上がろうと椅子を引いた。

 一人、渦の外にいる少女の視界の端に扉で立ち往生している担任が入った。背中に隠れているけれど誰かと鉢合わせたのだろう、少し話した後に黒い帳簿を開いた。

 気づけばじっと見ていた。背中がどくと目が合った。

 一瞬、嬉しそうに微笑んだ気がした。黒板前を通って少女の側へと寄ってきた。途中何度も立ち止まって名前だけのクラスメイトとの小話を挟みながら。愛されているとはきっとこういうことなんだろう、少女は思った。誰といる時でも笑っていたし、仲良くできる奴だった。私とは違う、と。そして、今までの誰とも違う気がしていた。

「おはよう。サキちゃん。今日も寒いね。今日もかわいいね。サキちゃん」

 結局は少女とて、誰かとの小話の一部なのかもしれなかった。

 後ろの席、窓際最後尾という無気力には最上の立地に座った。運が与えたテリトリー。教室の流動もここまでは及んでおらず、邪魔者はいない。

「起きたときにはもうこれはダメだなと思ったんだけれどもさ」

 けれども。

「遅れなくて良かったよ。歩いてみればなんとかなるもんだね」

 追って開いた体が用事を思い出した。諭すより前にやらなければならないことがある。

「ちょっと待ってて」

「ちょっとだけね」

 ロッカーを開けた。

 しゃがまず、高すぎず、二十五%の奇跡の中はきちんと整理されていた。努力は必要ない、不要なものを押し込まず、出した通りに入れ直すだけのこと。どうしてそんなに、例えば、彼女のロッカーなどは荒れているのか、わざととしか思えなかった。

 忠犬のように、いや、それよりも忠実に、待っていた。いかなる雑音にも気を散らさずに主人の消えた扉だけを見つめていた。

 その横に戻った少女は三冊の紙束とカバンから取り出した筆箱とを重ねるまで何も言わなかった。忠犬はそれでも待ち続けていた。

「遅刻でしょ」

 一息ついて言った。気持ちは既に授業へと傾いてた。

「いやいや、なに言ってるんだい? 授業はまだ始まってないじゃないか。ほら、あと五分以上ある。学生の本分が勉学だとしたら、授業にさえ間に合えばいいと思わないかい?」

 自分の基準が絶対で社会を顧みないくせに、理不尽さも我儘も笑顔と器用さで誤魔化していく、小動物的魔性の使い手だった。

 誰も気づきはしない。複雑な起伏も遠くから見れば単純な一本線だった。

「って言ったら、なかったことになりました。やったぜ。鬱陶しいと思わせれば勝ちだね」

「なるほど」

 どうでもよかった。自分が使うことになるとは思えなかったから。言いくるめるよりも真っ当にいるほうが割に合い、性に合った。

 私とは違う。それは関わる程に溜まり続けていた。

 出会いは四月七日、今から半年以上前の入学式。

 偶々、式典で隣の席に座っていて、偶々、彼女が鼻血を出し、偶々、少女が気づき手を差し伸べたというだけの退屈な出会いだった。

「大丈夫?」と小声で聞くと、うんうんと頭を振って返事をし、余計に飛び出た血で真っ赤に染まったティッシュは未だ忘れられていない。

 さては、馬鹿だな? それが第一印象だった。

 だから、仲良くなったというよりも、捨て猫に情をかけたら懐かれたというほうが正確だった。

 他人の血を見て冷えていく頭で、面倒にならなければいいなと思っていた。が、願いは届かず、一方通行気味な親密はこの教室の日常になっている。二人にとっては不本意なものにも関わらず、ゆらゆらと続いた。

 惰性でも慣性でもない、社交性とも違う関係だった。誰が見ても、凸凹な二人組に見えるのだが、少女にそのつもりはなかった。

 独りだろうと、周りに孤独な人間だと見られようと、少女は構わなかった。どちらかと言えば放って置いてほしい。九年も続いたしがらみはもう御免だった。徒歩五分の小学校から徒歩五分の中学校へ進学すれば当然中身は同じだった。苦しければ逃げ出す気にもなれたのだが、むしろ楽だった。わざわざ遠くへ行くほどでもなかった、少しのくすぐったさを我慢するだけなのだから。そして、ちっぽけな違和感の為にわざわざぬるま湯から出る気にもならなかった。

 やがて月日が高校を運んできたことで、近場を選んでも偏差値という安易な境界に守られ、少女はようやく自由になる、はずだった。

「でねでね。信号を待っていたらね――」

 はずだった。

 半身のまま聞き流す。

 構うわけでも親身になるわけでもないのだが、彼女はいつも嬉々として話し続けていた。側に居られればそれでいい貞淑な妻の如く。それにしては喧しすぎたが。

 辟易としたのは最初のうちだけで、今もう諦め、仕方ないと受け入れていた。まあいっか、楽しそうに記憶を広げ微笑む顔を見て少女は思った。

「それにしても、だ。今日の寒さはなんなんだろうね、ほんと、暴力的だよ、我々学生にとっては。着込むにもなんとなく限度があるんだ。後一時間でも遅らせてくれれば日が出てきてまだマシになるのにね。下校がズレるって言ったって、精々一時間じゃないか。選択の余地があるだけ朝の方が辛いんだ。ていうか、なんで僕達女子生徒は冬もスカートなんだ? タイツを履いたところで寒いじゃないか。まあ一応標準服ってことで何を着て来ても許されるわけだけども、結局行き着く先はスカートだ。そういえば自転車組はスエットを履いている娘もいる。あれはつまり、同情を買うからだ。なんとなく許される気がする。男子がそうしていてもズボラに見られるだけだし、徒歩でそうしていてもなんだか急に老けてくる」

 一人で議題を掲げ、納得しているのだから何も言うまいと、蚊帳の外、眺めているつもりだったが、つい、「男子は下に履いてるんじゃないかな」と呟やいてしまった。

 飴をもらった子供がそこにはいた。

「そういえばサキちゃんだって自転車じゃんか。下に何も穿かないの? もしや私が来る前に生脱ぎお披露目とか。まさか。なら徹夜待機も辞さないけど」

「穿かないね。寒いなとは思うけれど」

「なんで?」

 なんで?

 微笑んだままだった。純粋無垢な疑問だった。試そう、あるいは追求しようというふうには映らない。

 理由なんて考えたことがあるはずもなく、閉口するよりなかった。

「理由は特にないけれど…… あんたなら穿くの?」

 何か言う為、常套手段に訴える。

「もちろん、穿かないさ。かっこよくないもんね。お洒落とかはさ、そこそこでいいんだけど、フォルムは重要だよ。それに、そうしていたらいつか腰のひらひらに疑問を持ってしまうからね。そうなったらもう、アイデンティティの崩壊だよ」

「それはそうかも。スカートは夏までいらないね」

「いっそ男子が夏はスカートになれば、理には適うんだ。全て丸く収まる。現実には毛が厳しいところだけど」

 想像しないように目を向けた分針はほとんど真下に到着していた。

「サキちゃんはそのまま何も穿かないでいてね。見えなくなっちゃうもん」

 どういうことか問いただすより早く、ほらほらと急かされた。

「今日も授業が始まるよ」

――――

 鐘が鳴った。

 英語、数学と特別なことはなにも起こらなかった。それがどれほど尊いものなのか、その時分には知る由もない。

 いつも通り。教室は騒がしかった。物が飛び交い怒声が聞こえるような荒れ果てた状態ではなく、茶番の中で進んでいた。生真面目な老婆が静寂を好もうが、若男が騒ぎに乗じようが、同じ事だった。どちらにせよ話し声は止まず、授業は止まらない。

 少女は黒板を写し取れていれば満足だった。端で男子がじゃれていようと成績には関係のないこと。今日も平穏無事、何事もなく過ぎ去っていくはずだったのだが、三限四限と続いた生物は重く響いた。

 少女は一人、窓に頭を乗せながら教室を見渡した。

 どんよりと沈んでいる。ただでさえ喧しいクラスなのだ、昼休みにもなれば各々友人との逢瀬に励み、他クラスとの交流も相まって愉快なサーカスじみているのが常なのだが、ピエロは一人も見当たらない。

 誰もが常識的な感覚に則った気分の悪さを抱えていた。少女もその一人。

 生物教師は嬉々として言った、「今日は解剖です!」と。

 その時にはまだ余裕があった。やいのやいの、いつものように騒ぎ、自分たちのペースに持ち込んだつもりだった。結局は教師と生徒のコミュニケーションなのだ、授業の一部であり、それが通じない“本物”を相手どるのはこのクラスにも難しかった。

 彼はそれを、知的な実技体験に喜んでいるのだ、と受け取った。よくわかるよ、僕も楽しみなのだから。

 目を閉じると生々しい感覚が蘇ってきた。

 皮の抵抗を押し破り割いた瞬間の柔らかい感触、薬品と有機物の混ざりあった空気、死んだ眼……

 うっ、と悪心が。

 教室を探してもまだ帰ってきていない。購買にしては遅すぎる。一体どこへ。ため息が漏れた。誰かに捕まっているのだろうか? 肝心なときにいないんだから。

 体の要求に従って一応、弁当箱を机に置いてみても封を解く気分は湧かない。そもそも時間割がおかしいんじゃないのか、と難癖は湧いた。

 腕を組み、考えた。

 誰が悪いかといえば、昼前に生物を配置した人間が最も罪深いのではないか? カリキュラムというものがある以上は解剖は避けられない。心底嬉しそうではあったけれども、先生は仕事をしたにすぎない。飼育され、死んだカエルにも罪はない、代わりはいくらでも。

 またため息を漏らし、決まり悪そうに目が動いた。

 どうでもいいじゃないか、そんなこと。

「どうしたんだい、そんな顔をして。伏目も魅力的だけども」

 小柄な体躯に合わない量を抱えて戻ってきた。やはりというか、彼女だけは平気な様子だった。

「食べないのかい?」

 いつもより、鮮明に聞こえた。

 一つの机を囲むのが暗黙の了解になっていた。ある時は椅子を動かし、ある時は誘い、今では少女の方から振り向いてしまうほどに慣れさせられていた。行儀良い人間の習性を彼女は知っていた。性格も嗜好も、何もかもを。

「いや、ね…… お腹は空いてるけれど」

 まごつく少女を尻目に食料を手だけで漁った。ガサゴソと音を響かせ引いたおにぎりからビニールを剥ぐと、少女までその匂いは届いた。

 小さな口いっぱいに頬張り、咀嚼と思索の後、飲み込んだ。

「引きずってるんだ、実験のこと」

「そうね」

「ついさっき終わったことじゃないか。気にしない気にしない。ここは生物室でもないし、手は洗ったし、あとは忘れるだけで痕跡ゼロの完全犯罪さ。知りたくないことは憶えていなければいいんだよ」

 それができるんだから、キミは。とぼそりと付け加える。

「でも。皮をさ、引き裂いた感覚っていうのかな、まだ残ってるし、思い出しそうで」

 ラジオの解体ならよかったのに。

「駄々っ子だね? いいとも。そういうところも嫌いじゃない。それもまた私の役割だ」

 話しながらも手は休まず栄養を探し続けていた。

 非効率にも、乱数が気に入らなければ引き直す。せめて中を見て決めればいいのに、と少女は譲歩した。引いた順に食べない理由は思いつかなかった。

「てゆーか、サキちゃん。本当に覚えてるのかい? 初めだけだったじゃんか」

「そうだけれど……」

 彼女の言う通り、少女がカエルに触れたのはほとんど初めの一刀だけだった。

 実験は班毎で行われた。普段はどうでもいいと一蹴されている出席番号が少女を救った。

 なんとなく回ってきてしまった刃を握り、息を止めながら刺した感触は生きているものが見せる柔らかさだった。

「やってもらってなんだけれど、最初から代わってくれればよかったのに」

「平気そうだったからさ。経験自体はしておくべきだ、何事も。他の二人はもう使い物にならなそうだったし、見守っていようと決めたわけ。駄目なら駄目って、もっとわかりやすく必死にアピールしてくれたら声もかけたんだけど。黙って覚悟決めちゃうのがらしいんだけど」

 血の気が引くとはこういうことなのかと少女は身を持って知った。顔が冷たくなった。重力を強く感じ立っているのが精一杯で、それ以上手は動かなかった。

 見かねた彼女が手を差し伸べた。「私に任せて」と聞こえた気がした。

 感覚器官を桶に漬けて洗いたい気分だったが、そういうわけにもいかず、手だけを洗ってみても綺麗になるのは皮膚ばかり。手袋に守られ血の一つも付いていない手が冷えたにすぎなかった。

 騒がず楽しまず、横で作業を続けている姿は少しだけ頼もしく映った。

 実習中に見学しているだけというのはなんとも微妙な心地だったが、どうにもならないことはあった。

 前の二人は突っ伏して動かなかった。一人にしてしまうのは悪いと思いつめ、努めて見ているだけでも遠くなる気を掴みながら、このまま恩恵に預かるよりないと自分を納得させた。

 生物教師は一度様子を見に来ただけで、恵まれない他の班の手伝いに奔走していた。どこもぐったり同じような有様だった。

 いつの間にか描きあげられていたスケッチと見比べていると、そのうち鐘が鳴った。

「覚悟というか、余裕がなかったというか」

「とりあえず、感謝だよ、感謝。ほら言ってみなよ、あいしてますって」

「行きすぎでしょ。でもまあ、ともかく、やってくれたのは助かった」

 目を見ては言えなかった。

 生物室の外で彼女に纏わりつき、べたべたと感謝を述べていた同班の二人の姿が空間に浮かぶ。自分もああするべきなのだろうか、同じ役立たずならせめて媚びるべきか、どうか。

「じょーだんだよ、変に真に受けちゃうんだから。人間なら好き嫌いはあるものさ、それでいいんだ、そうでもしないと一緒にはいられない。意味もない。うん、もし今日のおかずが気に入らないって言うなら僕が全部食べてあげようじゃないか」

 しょうがないなー、と宣いながら少女の弁当箱に手を伸ばした。

 分けてあげるのはやぶさかでもないが、奪われるのなら手を払う程度の勇気は持っていた。しかし今はされるがまま、蓋が開けられてしまうのを見過ごすことしかできなかった。

 豪華絢爛とはいかないが、堅実で手慣れた造りだった。栄養を頭の片隅にいれつつも、娘を理解したおかず。それがいまや悪の手に堕ちていた。

「ところでさ、知ってるかい、サキちゃん。カエルって鶏肉に近いらしいよ、味」

 ピックに刺した鶏の唐揚げをくるくる回しながら言った。

「ん?」

「食感と風味はササミ、後味白身魚なんだってさ。退屈な奴だよ、見たまんまで面白くない。しかも、割高でさ、鶏と比べて特別美味しいわけでもないのに卵は食べられないんだ。かといって貴重でもないから一生に一度の珍味として自慢にもならない。食用として発展しなかったのは理由があるわけだな」

「ねえ」

「どうしたんだい?」

「今は、カエルの事は忘れたいかなって」

 ふむ、と、まず一口。

「逃げても避けても同じことだよ、サキちゃん。カエルは斜めに跳ね回ってキミを取り囲むのさ」

 視線は次の獲物を探していた。

 結局、次も唐揚げ。他は細かく、ピックでは手が出ない。

「料理はするかい?」

「しない」

「手伝いも? お義母様はこんなにお上手なのに」

「尚更ね。忙しいときにはお父さんがするし。あんたもしないでしょ」

「するさ。どうかな、嫁に貰ってくれても――」

「え?」

「なんだよ、その鳩みたいな顔は。そんなに嫌かよー、傷ついちゃうぞ」

「そうじゃなくて。料理、できるの?」

「さっき見ただろう? 結構上手いんだぜ。材料とレシピさえあればなんだって作ってみせるよ」

「さっきって。実験じゃない」

「一緒だよ。包丁で雑にいくか、どうかの違いだけでさ。丁寧に言えば目的が違うだけで、行為自体は同じだよ」

 見せつけるように唐揚げを振った。大切なものから失われていく。

「あのまま塩振って油で揚げていたら、こうもどんよりとしていないはずだよ。油がハネて怖かったーとか、生焼けだったなーとか。似た味だっていうのはさ、つまり、視点を変えれば鶏と大差ない食材なんだ、カエルは。どっちも飛べない。ただ効率が悪かっただけなのさ。タンパク質には変わりない」

 急に喋るんだな、と少女は思った。いつもそうだ、言いたいことを言うだけ言って、好きなように振る舞って。その気になったところで後の祭り。

「うまい」

 キメ顔とともに66.6%目が胃に飲まれていった。

「ほら、食べなよ」

 まるで下賜のように差し出されたが、気にはならなかった。気にしなかった。不自然な隙間があるけれど、なにか小さな詐欺に見舞われた気がするけれど、私は全然気にしない、と思うことにした。

 そんなことよりも今は空腹が優先課題だった。昼休みはまだまだ続く。

 詭弁饒舌がうつる前に箸を持った。

 唐揚げは唐揚げだった。

 寸止めされていたせいで普段よりもずっと空腹は強かった。黙々と本能に従っている間、言葉は無かった。

 一息ついて蓋を閉めても、なにか話しかける気にはならなかった。

 目の前の愛くるしい怪獣はまだ食事中で邪魔をするのは憚られたから。

 代わりに、静かな気分に浸った。


――――――


 午後に向かって回り込んだ太陽は暖かく、自然と落ちていた目蓋にハッとした。

 喋っていた分を取り戻そうと彼女は食べ続けていた。

 普段から小柄な大食いはよくあるキャラ付けだと主張していた。珍しくはないよ、と。しかし、相応の口腔には相応の量だけしか入らず、時間いっぱい付き合うのが毎日だった。

 また、なにかが飲まれていった。

 精確で一定だった。咀嚼回数すら規定されている気がした。背もたれに寄りかかって、少しだけ足を伸ばす。右側だけが暖かい。

 目を閉じた。

 何か言おうとしたが、声は出なかった。次の瞬間には何を言おうとしたのかも思い出せなかった。

 会話は呼吸よりも難しい、そんな考えが頭を泳いでいる。

 ぼんやりと、永遠とも思える食事は続いている。

 食べる者と視る者だけが時間から外れてしまったような感覚。

 音も無い。

 手や口の動きをバラバラに捉えるとゲシュタルトが崩れて意味は曖昧になった。目の前の動くモノは何をしているのか。自分と同じ人間とは思えなかった。

 椅子との境界はすでに感じられない。

 昼過ぎて、時計回れば、夕方に。

 ぐるぐる針は廻り、音も無くというのはこんな感じかな、と感心する暇もなく、下校時刻がやってきた。

 急いで帰ってやりたいことは無かったが、周囲の浮足にあてられ、帰らなければ、とは感じた。

 静かな教室に滔々と連絡事項を述べる担任。内容はまるで頭に入ってこなかったが、不安は無い。その時になれば動き出せると知っていた、これまでのように、明日も続いていくに違いない。

 今日もまた一日が過ぎていった。

 担任が終わります、とあいさつを締めくくり教室から出ていった。

 部活動、委員会、各々の役割へとクラスが散っていく。後ろの席の彼女も「それでは、また」とあいさつだけを残し、出ていった。

 見送った後、少し遅れて立ち上がった。

 少女は一人階段を下りた。

 自転車で埋め尽くされた地下から外、スロープを登らなければならない。一切、朝とは反転した世界を見上げた。とっくに陽は落ち、地平からの赤い光が空を染めている。

 冷たい風が吹いた。

 さっさと帰ろう、そう思った。

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