第38話 失った幸せを取り戻せるんだよ。

「せいやぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!」



 狙いは黒狼の心臓部分。

“レベルアップ”した膝が生む、未体験のスピード。


 モキチさんが作ってくれたタイミング。

 サワタリが与えてくれた最後のチャンス。


 わだかまっていた何かを超えたこの一瞬。

 全身を軋ませたこの一撃で決めなければ、もう次はない。



 急速に接近する黒狼の心臓部分。

 トンファーを振り抜くタイミングには理屈を超えた確信が宿る。



 そしてーーー



 ドパァン!



 体験したことのない感触を貫いた時、目の前には迷宮ダンジョンの壁があった。



「ぶべっ!?」



 顔面から壁に直撃する。

 無理やり海水を鼻から飲まされているような感覚だった。

 眼の前に星がチカチカする。


 そのまま無様に全身を床に打ち付ける。

 痛ったぁ……!肘打った。

 しまった、着地のことは考えてなかった。



「おおおおおっ!や、やったぞ!」



 サワタリの声に振り返る。

 黒狼の胸部に大きな風穴が空いていた。

 同時に、自分が体液でベトベトになっていることに気付く。



 もしかして、信じられないけどーーー黒狼の体を貫通したの?私。



「グロロロォ……」



 黒狼は私に向き直り、低く小さな唸りを上げる。

 私の体はボロボロで、その場に立ち上がることさえできない。

 サワタリがまた叫びをあげる。

 でも、大丈夫。私は地べたに這いつくばりながら、黒狼の姿をじっと見据える。



 すると、まるで糸が切れたみたいに。



 ドオォン……。



 あるいは天寿を迎えた巨象のように。

 黒狼の身体は真横に倒れこみ。

 やがて音もなく消滅した。


 直後、周囲に大量の純銀が発生する。

 ああ、拾得物ドロップアイテムか。忘れてた。

 反射的に、これいくらぐらいになるんだろ、なんて考える私は浅ましい。



 ーーーやった。やったよ、ウツミんさん。



「……ヨシ!」



 小声でお約束を決める。

 流石にポーズを決める余裕はないけれど。

 っていうか、サワタリに聞こえてたら嫌だな。



「う、うおおおお!

 やった!やったぞおい!

 ……見てたかオサム!取ったぞ!テメエの仇!」



 なんかめっちゃハイテンションになってて聞こえなかったみたい。

 よかった。

 ってか、サワタリ的には黒狼がオサムさんの仇ってことで確定してるんだね。

 よくわかんないけど、まあいいか。



「そうだ!モキチさんは!?」


「……気を失ってやがるな。

 大丈夫、呼吸はちゃんとしてるぜ。

 無茶しやがって、クソジジイ」



 必殺技を決めた体勢で失神しているモキチさんに、サワタリが肩を貸していた。

 サワタリ自身、杖に全体重を預けることで無理やり立っている状態だ。


 そう言ってる私だって、体中でいうことを聞いてくれる箇所が一つもない。

 筋肉が、血管が、神経が、骨格が、腱が、髄液が、関節が、内臓が。

 全身のあらゆる箇所が悲鳴を上げていて、ただ床に横たわることしかできない。

 頭の奥深くから、ズキズキという思い痛みが響いているのがとても辛い。



 全員、満身創痍もいいところ。

 ……これ、無事に帰れるの?



「少し休みてえところだろうが……ジジイがあぶねえ。

 ぶっちゃけ俺もだが、血を流し過ぎた。

 動けるか?マリ」


「相当キツイけど……私どうせここで休んで回復できるダメージじゃないしね。

 く……ああ!」



 無理やり立ち上がろうとして、体重を支え切れずまた倒れこんでしまった。

 ……どうしよう、こんな状態で他の魔物モンスターに遭遇したら……。



 フワァ……ン。

 独特の音が背後に響く。


 何度か耳にしたことのある音だ。

 主に、ボス狩りをしているときに。

 まさか・・・こんな時に・・・・・



「リ……リポップだと!?

 冗談じゃねえぞ!こんなタイミングで!!!」


 迷宮ダンジョンに響き渡るサワタリの悲鳴。

 おそるおそる後ろを振り返ると。


 黄金色の"魔素"の集約。

 出現する、杖を持った1体の魔物モンスター



「嘘でしょ!?こんなことって!!!」


 ゴブリンキング・・・・・・・

 無傷で出現したボスモンスターが、立ち上がることさえできない私に無慈悲な一撃を放ってくる。



 防御!防御!防御!

 全速反応でトンファーを掲げようとするが。

 カラン。失われた握力が唯一の得物を床に落とす。



 絶体絶命。

 絶望に目を閉じたその瞬間。



 ドスっ……。



 肉をえぐるような音が響き、キングの動きが止まる。

 見ると、キングの胸部から白い針のような物が生えている。



「ギ……」



 直後、キングがその場に崩れ落ち、一切の活動を停止する。

 キングの後ろ、迷宮の入り口側に一人の男が立っていた。



 知っている人だ。ていうか、顔見知りだ。



「タナカさん……!」



 同期冒険者のタナカさんが、つまらなそうに、その手の白い針?棒?を振るってキングの血を払った。


 そこでようやく、彼がキングの背後から心臓を一突きにして、倒してくれたことに気付いた。

 ……不意打ちとはいえ、キングを一撃で倒すほど強かったんだ、この人。



 って、それどころじゃない!



「タ、タナカさん!助けてくれてありがとう!

 す、凄いタイミングだったね!

 あのさ、負傷者がいるから回復薬ポーションを譲って……」


「サワタリの奴はどこだ」



 平坦な口調で私の発言をさえぎる。

 丁度こちらがサワタリやモキチさんの救助をお願いしようとしてくれるところだったから、すぐに彼らを指さす。

 気怠い態度で、タナカさんはサワタリらのもとへ歩いて行った。



 すごいな大人は。話が早い。



 でも、よかった。

 これでみんな助かる。


 気持ちに余裕ができたせいか、タナカさんの武器が気になった。

 長さ30センチ強くらいの白い……針?棒?

 あんな短い武器、不便じゃないのかな?ていうか、何なのあれ?

 見たことはないけど……あの形状には何故か見覚えがあった。



「お、おう。タナカのオッサンじゃねえか。

 いいとこに来てくれたぜ。回復薬ポーション持ってねえか?


 へへ、アンタに勧められて買った例の靴。

 滅茶苦茶役に立ったぜ。あれがなきゃ死んでた。

 援助してくれた30万円、近いうちに必ず返すからよ……」



 サワタリが友好的にタナカさんに話しかけている。

 へえ、そんな付き合いがあったんだ、あの二人。意外。



「ああ、いいんだそんなことは。

 そんなはした金、気にしなくっていいよ」



 言ったその瞬間。


 タナカさんはサワタリの杖に手をかけ、その先端を足払いのように蹴とばした。



「う、うおおお?」



 たまらずモキチさんごとぶっ倒れるサワタリ。

 ……え?



「気にしなくていい。

 本当に。何も気にしなくていいよお前は。永遠にな」



 勢いに乗じて、禍々しい"魔素"を纏った”餓者の杖”を奪う。


 それを高々と振り上げたタナカさんはーーー


 パカァン!


 ーーー倒れたサワタリの頭部をゴルフスイングのように撃ち抜いた。

 一切手加減せず。



 え?……え?

 な、な、な、



「何やってんの!?アンタ!?」


「あれ?なんでこいつ裸足なんだ?

 例の靴はどうしたんだよ、おい」



 私のことなど眼中にもないのか、タナカさんはサワタリの足元を物色している。

 わけがわからない。

 頭が混乱する。い、一体何が起きているの?



 ビク!ビクビクビク!



 突然、視界で何かが暴れだした。

 タナカさんが倒したはずの、ゴブリンキング。

 消滅せずに私の横に倒れていたその体がーーー突然激しく痙攣しだした。


 初めは手足だけが、次第に全身が、より激しく、より小刻みに。

 最終的には携帯電話のマナーモードのような震え方になったキングの死体は……前触れなくパッと消滅し、拾得物ドロップアイテムの金片に変化した。



「チっ。調教テイム失敗か。

 折角の大物兵器が殺されちまったから、代わりが必要だってのに。

 やっぱりボスモンスターの調教テイムは不可能って噂は本当なのかね?」



 ……思い出した!

 あの武器!あの形状!

 ショップで見かけたあの武器とそっくりだ!



 それは、”指揮棒タクト”!

 ウツミんさんやオサムさんと一緒に見た奴だ!



 モンスターを調教テイムして仲間にできるっていう!

 でも、調教テイムは相当難易度が高いはず……。

 100万円近くする、”指揮棒タクト”ですら、ゴブリンの調教テイムがやっとなくらいに。



 ……それにしてもあの”指揮棒タクト”。

 あの純白の輝き。

 素人眼にみても相当の高純度の"魔素"が籠められてる……。

 見たこともないくらいに。

 まさか相当の、常識外れの高性能品なの……?



「物欲しそうな目で見てんじゃねえよ、貧乏人のクソガキが。

 まったく。こいつがガチャで出るまでどんだけ苦労したか、想像もできねえだろ?

 お前みたいなガキにはよ」



 ペシペシと。

 ”指揮棒タクト”の先端で自分の掌を何度も叩く。

 まるで神経質な教師がそうするように。



「あの黒狼を調教テイムするのにも随分と手間がかかったんだぜ?

 足のつかねえガイド冒険者を見つけるとこからしてよぉ。

 冒険者専用SNSでマッチング相手を探して、身元を隠して話を付けて。

 ……どうもあの野郎、日本人じゃないっぽいけど、まあどうでもいいよな。金になるならなんでもいい」



 吐き捨てるように、苛立ちを吐き出すように。

 いや、彼は明らかに苛ついている。

 そわそわと、身体をゆすって。つま先でトントンと床をついて。



 ……ちょっと待って。

 今、なんて言った?

 あの黒狼が、なんだって?



「元手がかかってンだよ。

 コストがかかってンだよ。

 あれは大事な資産なンだよ。


 それをこのガキ。潰してくれやがってよお。

 しかも、一人で死んどきゃいいもんを。

 マリだのモキチのジジイだの。余計な目撃者を増やしやがって!」



 心底うんざりという表情で。

 タナカさんはーーータナカは。

 決定的な一言を口にした。



「おかげで、3人もバラさなきゃいけねえじゃねえか。

 やれやれ、割に合わねえなあ。餓者の杖に魔導靴エーテルシューズ

 黒狼を潰されて3人殺すんじゃ、割に合わねえ。


 ……潮時かもな。

 オサムの時も3人始末しちまったし、渡辺の野郎といい、やりすぎた。

 いい加減に、足がつきかねねえ。


 ……お袋連れて、金沢にでも移住するか。

 あっちでまた、いい魔物モンスターを調達して稼ぎ直しだ」



 言った。

 はっきりと。

 殺す、と。殺した、と。


 こいつが。この男が。



「アンタが!

 アンタがけしかけたの!この黒狼を!


 ……何を考えてるの!

 死ぬところだったんだよ!?いや、死んでてもおかしくなかった!

 モキチさんなんて、腕を食いちぎられたんだよ!?」


「あぁー?

 ああ、そうだよ。

 ったく、キッチリ殺されとけっての。

 余計なマネしてくれたおかげで、わざわざ俺が手間かけてリスク取って殺しに来なきゃ行けなくなっちまったじゃねえか」


 平然と。

 見知った顔で。聞き覚えのある声で。

 後ろめたさも何もなく、自分の犯行を自供してくる。


 この男ーーー本当に、あのタナカなの?



「な、なぜ!?

 なんでこんなことをしたの!?

 サワタリが何をしたっていうの!それとも私が気に入らなかったの!?

 アンタに相棒バディに誘われた時、断ったのを恨んでいるの!?」


「あぁ?

 どーでもいいよそんなこと。ホンっトどーでもいい。

 目的なんざ簡単だ。


 金だよ金。

 手前らの持ってるアイテムをゲットするのが唯一の目的だよ。


 オサムの野郎は羽振りが良かったなあ。グローブといいネックレスと言いブレスレットといい、高級装備のオンパレードだ。

 ま、金は女に出させてたみてえだがな。いい気味だ。

 中華系のルートでこっそりさばいて、いい金になったよ。

 でも連中にこれ以上借りを作んのも避けたいリスクだな。


 だから、これで最後だ。

 餓者の杖に魔導靴エーテルシューズ

 これをゲットして自分で使って勝ち組冒険者生活突入だ。


 お?靴はお前が履いていたのか。

 じゃあ早速頂くとするかい」



 彼が何を言ってるのか理解できなかった。



 ……お金のため?

 お金のために、人を、殺したっていうの?


 オサムさんも、この男に?

 それで私やサワタリ、モキチさんも、これから、殺そうっていうの!?



「理解できない……どうかしてる。イカれてるよ、アンタ!

 あ、頭おかしいんじゃないの?


 そ、そんな理由で人を!?

 それも、たかだか何百万円のお金のために!?」


「ーーーはっ。笑わせやがる。

 金の重みも知らねえようなクソガキが、一丁前に吹いてんじゃねえぞっ!」



 そこで初めて、タナカは私の眼を見てきた。

 ぞくりとするほど、暗く濁った眼。


 ーーーさっきまでこの男は、人間と会話している感覚さえなかったんじゃないだろうか。

 面倒な作業・・の前の、単なる独り言。

 どうせ殺す相手だからと、秘密も何もなく、ただ頭の中身を垂れ流していた言葉。



 ーーーこんなところでやられてたまるか。

 ーーーお前なんかに負けてたまるか。



 トンファーにしがみつきながら無理やり身体を起こす。

 自分で自分の体重を支えきれない体たらくだけど、それでも構わない。


 そっと足の裏で、靴と床の感触を試す。

 うん、いける。

 とにかく床を蹴りつけさえすれば、"魔素"の反発で跳ぶこと自体はできるはず。



 一歩目は左脚で床を。

 二歩目は右脚で壁を。



 その二歩でホントに打ち止めだけど、それで十分。

 横の角度からの一撃で、この男を倒して見せる。

 そのあと警察に突き出してやる。

 絶対に許すわけにはいかない。



「お金が大事だってことぐらい、私でもわかるよ。

 ーーーでも、だからって人を傷つけていいわけがない!

 そんなことで、幸せになんてなれるわけがないんだ!!!」



 一歩目。予定通りの速度と角度で踏み出せる。

 うん、大丈夫。いい感じ。


 二歩目。予定通りに壁を蹴り付け、タナカの左半身に向けて跳ぶ。

 ーーー完璧!この角度からの攻撃なら、絶対反応できないはず!



 ぐるり・・・



 あっさりとこちらに向き直るタナカ。

 なっ……!なにその反応速度!?こんなオッサンが!?

 私の攻撃の軌道上に、餓者の杖を差し込んで壁を作る。



「そんな……!?」


「舐められたもんだぜ。

 うだつの上がらねえオッサンなんざ、ごり押しで潰せるってかい?


 この俺を低能な魔物モンスターどもと同じに考えてやがって。

 オラよっ!」


 こともなげに私の攻撃は受け止められ。



 ガシィン!



 脱力して振るわれた杖が、トンファーの上から私の肉体を何メートルも吹き飛ばす。



「ぐ……が……!?」



 ーーーなんて力!?

 どれだけレベルアップしてるの!?


 やばい。

 やばいやばいやばい。



 今のでさらに脚が利かなくなってしまった。

 しかも同じ方法はさっき以上に通じない。


 どうしよう。

 ……両足を揃えてなら、まだ跳べるかもしれない。

 どれだけのスピードが産めるかは賭けになるけど、なんとか角度を予想外にして……



「そんなことじゃ幸せになれねえってか。

 は、ガキが知ったような口ききやがって。


 なれるぜ。幸せに。

 有り余る金があって。広くてデカい家があって。今後ずっと大きな収入が得られる見通しがあれば。


 出て行った家族を呼び戻すことができる。

 嫁と娘とお袋と。また皆で暮らすことができる。

 失った幸せを取り戻せるんだよ。ええ?わかるか?おい」



 ……!



「オラぁっ!」



 タナカの蹴りが私のどてっぱらに炸裂する。



「……っ!!!」



 呼吸が止まる。

 痛みや苦しみなんてもんじゃない。

 自分の命が薄れていく感触。


 私は悲鳴さえ挙げられずに、ただ床をのたうち回った。



「おー、やっぱ男女で蹴られた時の反応って違うもんだなー。

 こんな時でも女ってのは、子宮を守ろうとするもんなんだな。

 どうせどのみち死ぬから無駄だってのに。


 まあどうでもいいか。

 さて、まずは靴を頂くかい」



 タナカが乱暴に私の足首を持ち上げる。

 スカートを抑えながら抵抗しようとするが、反対側の腿を強く踏みつけられ、反射的に身体を引いてしまう。


 なすすべもなく、サワタリの靴を脱がされた。

 痛みが、恐怖が、身体を竦ませる。

 反対側の靴もあっさりと奪われてしまう。

 どころか、目の前で悠然と靴を履き替えるタナカに対して反撃を試みることさえできない。



「へ、へへへ。

 女子高生の脱ぎたてを履くなんざ、なんだか元気になっちまうねえ。


 さて、じゃあ用は済んだし、そろそろ死んでもらうとするか。

 死体はまあ、ここに置いときゃリポップしたゴブリンキングが適当に荒らしてくれるだろ。

 他に金目の物は……ロクに持ってそうにねえな」



 無関心そうに私を眺めるタナカだけどーー不意にその眼が変わった。

 さっきまでより、熱く、粘ついたものに。


 ぞわり。

 不快さが、悪寒が、私を芯から震えさせる。



「いや待てよ。

 どうせ死ぬんだ。折角だから、ちょいと楽しませてもらおうか。

 いいだろう?どのみち一緒なんだから。


 へへ、へへへ。嬉しいねえ。

 なにしろこんな生活だ。随分とご無沙汰だったからなあ」


「い、嫌だ……!!!やめて……!!!」



 タナカがやけに熱い掌で私の両腿を乱暴に掴む。

 気色の悪い感触に、全身が氷漬けになったように冷たくなる。

 必死で追い払おうとすると、ドスっ、と下腹を殴られる。


 私の呼吸が詰まったのを見て、タナカが覆いかぶさってくる。

 何度突き飛ばそうとしても、強引に腕を押さえつけられるとなすすべもない。

 むしろ、そんな反応を楽しんでいるようにさえ見えた。

 私が、自分の無力さをより深く認識する様を。



 ウツミんさんやオサムさんと、殴り合いや取っ組み合いの練習をしたことは何度もあった。

 その時だって、こんな絶望的な腕力差を感じたことはなかった。

 普段、私が男の人達からどれだけ手加減されて生きているのか。

 それを嫌が応もなく気付かされる。



 本気で体重をかけられるとまるで動けない。

 もがいても暴れても、タナカは執拗に私にのしかかってくる。

 粘ついた脂の匂いが鼻を突く。

 どろりと、額から流れ落ちる汗が私の顔にかかって弾ける。


 嘔吐したい感触と、喉元が締め付けられるような感覚がせめぎ合う。

 口中で歯が激しく震えて、ガチガチという音が響き続ける。



 心がログオフする感覚。

 絶望的な状況を、どこか他人事のように眺めている自分がいた。

 なんで?なんでこんなことに?

 私が悪い子だったから?

 だから今、罰を受けているの?



 流すべき涙も枯れたようだった。

 私が悪いんだ。私が悪いんだ。

 もうしませんから。もうしませんから。もうしませんから。

 だからどうか許してください。


 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいーーーー



 タナカの手が私のスカートに伸びる。



「や……め……て……」


「ここでやめるバカがいるかよぉっ!!!」



 いよいよ私が奪われる。

 そう思ったその時。



 パキィンっ!



 何かが砕けるような、乾いた音が響いた。



「いっ……てぇ!な、なんだ!?」



 同時に、タナカが突然側頭部を押さえてうずくまった。

 ポタリ、ポタリ。

 何かが雫となって床に零れ落ちる。


 赤い。血だ。

 見ると、タナカが頭から出血している。



 床に散らばった破片に気付く。

 これは、魔石。

 いつだったか、ホブゴブリンと戦った時に使った武器。



「何やってんだアンタ……」



 とても聞き慣れた、低くて響く、暖かい声。

 タナカの向こう、10数メートル。

 特徴的なシルエット。

 中肉中背の標準体型なのに、独特の姿勢のせいか、妙に印象に残るその雰囲気。



「あ……き、君かあ!

 ああいや、違うんだよこれは。

 ただの誤解っていうかさ、そんなつもりじゃ……」


「……れろよ」


「え?」



 タナカが汗を流して話しかけるが、対応はにべもない。

 投球ーーいや投石直後のポーズから身体をこちらに向け直し、油断なく歩いてくる。

 よほど全力疾走でここまで来たのか、呼吸が激しく乱れている。



 怒りに燃えるその瞳を、さらにカっと見開いた。

 彼のこんな表情を見るのは初めてだった。



「今すぐマリから離れろって言ってるんだ!

 汚ねえ手で俺の相棒に触ってんじゃねぇっっ!

 聞こえねえのか、タナカぁぁぁぁっ!」



 その顔を視ただけで。

 その声を聴いただけで。


 前触れもなく、涙が溢れる。

 まるで凍った心が溶け出すように。



 来てくれた。

 来てくれたんだ。



 私の相棒ヒーローが。

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