第12話 11

 ひとしきりセシルをおもちゃにし、彼を湯あみに送り出したフィリナは、少年の部屋を後にした。そして体中の空気を一斉に吐き出した。なんて不器用な人たちなのかしら。

「フィリナさん」

 蝋燭の灯火に似た静かな呼び声が、廊下の闇の中からにじみ出てきた。ナズレだ。彼の手にした明かりが初老の男の顔にくっきりとした陰影を浮き上がらせている。

「スヴェンナさまから、お電話が」

 フィリナはナズレに礼を言うと、きわめて静かに、けれども精一杯急いで階段を滑り降り、一階の電話機のもとへ向かった。外れた受話器の向こうには、メイド長の大切な人がいるのだ。待たせるわけにはいかない。冷えて白くなった指を伸ばし、受話器を取る。

「ハロー、フィリナです。お待たせして申し訳ありません――ええ、お陰さまで――わたしもバーバラもなんとか。殿下のこと、ですね? 大丈夫だと思います。今のところは。セシルくんが来てから、たったの一日でいろんなお顔を見てしまって。……? そうですね、いい子です、とても。〈記憶の君〉に似ているというのだけ、ひっかかりますが……。殿下はまだお話しするつもりがないみたいです。……。まあ! うふふっ! ありがとうございます。きっと、殿下の驚く顔が見られることでしょうね……!」

 電話の向うにいる彼女は、朗らかな笑い声をたてておやすみを言った。じゃりんとひとつベルが鳴って、二人の会話のピリオドを打つ。フィリナが次に吐き出した息には充足感が多分に含まれていた。稲穂の海のように波打つブロンドのレディ、その健在を手に取るように知ることが出来たから。

 自然と微笑みがこぼれるフィリナの肩に、なにかが掛けられた。じんわりとした暖かさに体ごと驚くと、犯人がくつくつと小さな笑い声を立てた。

「スヴェンナさまは、なんと?」

 ナズレだ。彼は長旅から戻ってすぐ、この長い一日を過ごしたというのに、宵闇においてさえ一矢の乱れもない。フィリナはつくづく、彼こそが紳士、執事の鑑だと思うと同時に、心配で眉を傾けた。ナズレさんには、休まる時間がないのかしら。

「わがままな探偵王子に困ったら、すぐに連絡をしなさいと。そのときは家臣を一式くださるんですって」

「それはいいことだ」

「あら、どうしてです?」

 二人はどちらからともなく、使用人の部屋へと足を踏み出した。

「執事と下僕、ランドリーメイドにキッチンメイド、ハウスメイドが増えれば、わたくしどもは晴れて昇進できる。いや、あるべき位置に立てるとでも言おうか」

 ナズレの太い眉が愉快そうに上下した。それを見て、フィリナは少しだけ安心した。彼はまだ、冗談を言えるだけの余裕を持っている。メイド長もそれに乗ってみようと思った。

「いやだわ。また悩みができちゃう」

「どんな?」

「年上の部下ができたらわたし、どうしたらいいかわからないわ」

 白髪まじりの執事は満面の笑みで、彼女の肩をやさしく抱いた。それは、父親が娘にするのとそっくりだった。

「なあに、いつもと同じことさ、メイド長どの。世話を焼くのはお手のもの。だろう?」


〈了〉

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〈探偵王子前日譚〉世話を焼くのは、お手のもの 黒井ここあ @961_Cocoanna

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