第6話 馳せる想い-未来 / 過去

 ユレイは昨夜、部屋の角、箱に入れておいた本を開封した。

 父さんが買って来てくれた冒険者の物語だ。両親の死後、開かれることのなかった本。箱に詰めていたため、ホコリを被っているわけではないが、それでも時間を感じる。

 それらを夜通し読んでいた。相変わらず面白かったが、寝不足だ。しかしおかげでわかったことがある。

……アレになるのは無理じゃないか?

 巨大なドラゴンに立ち向かっていく冒険者、ダンジョンの地下深くに隠された秘宝を見つけに行く冒険者、悪の教団と熾烈な闘争を繰り広げる冒険者。どれも現在のユレイからは想像もつかない。

 そもそもユレイには冒険者としての才能がない。身体は弱い。魔力生成回路も弱いため、魔法は使えない。さらには魔力に過剰に反応してしまう体質であるため、高位のマジックアイテムは装備できない。道具屋でもマジックアイテムを扱うが、ものによってはピリピリしたり手が弾かれたりする。一度は吐き気を催してメイに介抱してもらったこともある。

……でも冒険者になることが目標じゃないしな。

 そう、昨日夕暮れの道で決意したのは何も「冒険者になる」ことじゃない。

 今まで止まっていた時間を動かすことだ。かつての夢に向き合い、これからどう生きるのかを決めることだ。とりあえずの目標を整理すると二つ。

 ① 自分の生き方を決めること。

 ② ライカの信念「いつか失うなら得る意味などない」に対抗すること。

 まずはこれらを達成する。そのためにできることを朝から必死になって考えている。が、父母が死んでから昨日まで、ユレイは流されるように生きてきたのだ。知識や技術はウィルス、グルドから習い、身につけてきた。自分で考える頭もある。

 しかし今回のようなことは別だ。自分がどう生きていくか真剣に考えたこともなければ、得ることの意味について考えたことも当然ない。かつて憧れた冒険者の本を読めば何かヒントが得られるかと思ったが、たいして得られることはなかった。ユレイが持っている本の中では「失われること」なんて描かれていなかったのだ。

「ユレイ? どうかしたッスか?」

 と、コルトが声をかけてくる。

 現在は馬車置き場で積荷の移し替え中だ。ユレイの手は動いてこそいるが、いつもよりペースが遅い。その分をコルトが肩代わりしている形になっている。

「あ、悪い、ちょっと考え事してた」

「全然いいッスよ。でも珍しいッスね、ユレイが考え事なんて」

「あれ? 俺ってそんな考えなしに見えてる?」

「や、ユレイって手を動かしながら考えられるタイプじゃないッスか。道具屋とかでも品出ししながら結構難しめの質問に答えたりしてるし。考え事していて動きに影響出るタイプじゃないっていうか」

 コルトが言っていることは正しい。ユレイは深めの思考に入っていても慣れた作業なら精度を保ったままこなせる。ただし、この思考というのは、他人のことやアイテムのことについて考えている場合である。つまり、自分のことを考えている時は例外なのだ。

 ユレイは、コルトに指摘され、そんなことを考える。結局、今まで自分のことについてあまり考えずに生きてきたのだ。

……?

 ふと気になったことがあったので聞いてみる。

「コルト、お前って自分のこと考えたことあんの?」

「何ッスか! 遠回しにバカって言ってまスか!?」

 立場が逆転した。

「違うって。コルトって他人のことよく見てるよなって。コミュニケーション力高いし。だから逆に自分のことはあんまり考えたことなかったりするのかも……みたいな」

 コルトが商品を荷車の上のほうに積みながら、呆れたような目を向けてくる。

「それ、関係ないッスよ。むしろ自分のことも考えているから他の人の考えも予想できるっていうか、そんなもんじゃないッスか?」

 そんなもんらしい。そうするとユレイはどうなるのだろう。もしかして他人の気持ちがわからないからコミュニケーションがそこまで上手くないのか。いやしかし接客はそれなりにこなせていると……

「それに最近は自分の人生についてよく考えるッスよ」

「――! 本当か!?」

「いや、なんでそんな驚いてるッスか!? そういう時期ッスよね、僕ら!?」

 そういう時期らしい。まさに今、ユレイも考えているので、ちゃんとユレイも時期遅れにはなっていないということか。よく考えればコルトの方がユレイよりも少し年下だったりするが、コルトは外見と雰囲気に対して実はかなり大人びている方だ。だから同世代としてカウントする。

「ちなみに、どんなこと考えているんだ? 夢とかあったりするのか?」

 聞いてみる。参考になるかもしれない。

「夢ッスかー、僕はないッスね」

 コルトが手を休め、伸びをする。

「ないのか……」

「でも、やりたいことはあるッスよ」

「やりたいこと?」

「“いろいろな人に会うこと”ッス。だから運送屋もこのまま続けていこうって思ってます。ウチとかはかなり多方面で仕事しているので、結構いろいろな人と会えるッスから」

 思えば、人を“拾った”というのも、そのやりたいことの延長にあるのかもしれない。ユレイとコルトはボークルードに移って以来の付き合いなのでもうそれなりに長いのだが、ユレイは全く知らなかった。

……俺、実は他人にもあまり興味なかったのか?

「だから、運送屋、か」

「この先ずっとかはわかんないッスよ? でも“いろいろな人に会う”っていうのは変わんないと思うッス。いろいろ考えた結果、いまはこのまま運送屋続けようかなって、そんな感じッス」

 勉強になる、とユレイは素直にそう思う。道具屋のバイトを惰性で続けていた身としては少し耳の痛い話だ。

 ユレイは勉強ついでにもう一つの方も尋ねてみる。

「コルト、でもそうやってたくさんの人に出会っても、ずっと一緒にいるわけじゃないよな。俺とコルトだっていつまでも一緒に働けるわけじゃない。別れはくるだろ?」

「そうッスね」

「寂しくならないのか、その生き方は」


   ●


 コルトはユレイの問いかけに考える。

 答えを、ではなくユレイの変化についてだ。

……こんなこと、聞いてくるタイプじゃないッスよねー。

 他人の人生に興味を持つこともだが、別れが寂しいだとか、そんなセンチメンタルな問いを臆面もなくするタイプではない。内まで知っているわけではないが、少なくともユレイが外に見せる顔はもっとドライだ。

 先程考え込んでいたこともだが、ユレイの変化がさらに加速している。そしてすぐに、ライカと何かあったのだろうか、と考えるくらいには、コルトは変化の原因があのA級冒険者にあると確信している。彼女が来てからユレイは変わり始めたのだ。

「そうッスねー、寂しいッスよ?」

 ユレイが真剣にこちらを見てくる。今はコルトも手を動かしていないが、ユレイもその手が品を持ったまま止まっている。真剣なのだ。

「別れが寂しいのは当たり前ッス」

「……なら、その寂しさを怖がって、出会いを避けるのはありか?」

 まるで他人の言葉のようだと、コルトは感じる。ライカに言われたことだろうか。

 わからないが、コルトは大事な友人の珍しい質問を嬉しく思う。

……止まるのは辞めたッスね。

 ユレイがボークルードに来て少ししてから二人は知り合った。ユレイが言っていたとおり、コルトは他人をよく見ている。昔から初めての土地を回ることが多かったこともあるのだろう。同年代の子どもに比べると、人を見る目にはかなり自信がある。

 だから気がつけた。両親を失い、叔父に引き取られた青年。彼が心の奥に何かを隠していることに。抑え込んでいることに。

 コルトはそれを刺激するようなことをしなかった。友人が選んだことなら、それを絶対に支持するのがコルトの信念だ。でも、

……こっちのユレイの方が、ユレイぽいッス。

 それはおかしな話だ。“こっちのユレイ”をコルトは知らないのだから。それでも思うのだ。蓋をするように生きるユレイよりも、“こっちのユレイ”の方がいいと。

 だから答える。

「その生き方もありかもッスね」

 その答えにユレイは下を向く。何かを考えている。

「でも」

 ユレイが顔を上げる。

「出会って別れても“思い出”は残るッス。その“思い出”の積み重ねが、今の自分を作っているんです――」

 言葉を届ける。

 きっと、ユレイを巡る他の人たちも、彼の変化に気がついているのだろう。これから、ユレイは皆と言葉を交わしていき、何かを得ていくのだ。おそらく、コルトは最初の一人だ。

……誇りに思うッスよ。

 踏み出した友人の幸いを祈って、コルトは言葉を繋げた。


    ●


「例えば僕が、このボークルードを去って、南の方で漁師を始めたとするッス」

 ユレイはコルトの話に耳を傾ける。

「この町で出会った人との関係はもうないとして、それでも“思い出”は残るんス。この魚、旦那が好きだったやつだなーとか、この魚はこういう風に運送されていくんだなーとか」

 紡がれる言葉は、答えになるかもしれないものだった。

「魚がとれない、ってなった時、ユレイならどう考えるかなー。ユレイなら他の漁師や町に来た冒険者の話とか、川の様子とかからいろいろわかっちゃうのかもなーとか。じゃあ、僕もいろいろ話聞きにいって、推論してみようかなとか」

 目を閉じながら語り続けるコルト。もしかすると、南の町にいる自分をイメージしているのかもしれない。

「それで上手く魚が獲れたら。それはユレイと出会っていなかったら出来なかったことッス。その時僕はユレイと一緒にいないけど……」

 コルトが目を開き、まっすぐユレイの目を見て、

「――僕の中に、ユレイがいるッス」

 考える。コルトの言葉を。深く噛みしめるように、脳と心に刻んでいく。自分のものにできるように、何度も何度も反芻する。

 そんなユレイの様子を見て、コルトは荷車への積み込みを再開する。

 喧騒にまみれているはずの馬車置き場で、友人である二人は木漏れ日の中にいるようであった。


    ●


 ユレイはカウンターで店番をしながら、横のミニテーブルにいるメイを見ていた。

 メイはこの店のポップや看板を描いたりする。色彩が明るいピンクとイエローなのがユレイ的には気になる部分だが、客(とグルド)には人気だ。最近ではライカの影響か、明度の低い色も使い出し、ちょっとコンクールに出せるのではないかという出来のときもある。絵のコンクールなどボークルードには存在しないが。

「メイ」

 声を掛ける。返事はない。

 絵を描いているのだ。ポップなどではなく、単純な趣味の絵。小さな手で精彩を放つ色々が生み出されていく。両の眼はどんどん染まっていく紙に集中している。紙が焼き切れるのではないかというほどの視線だ。

 メイは好きな絵を描いている時、こうなることがある。絵を描くことに没入した状態。圧倒的な集中。グルドが声を掛けても止まらない手。

 正直言って恐ろしい、とユレイは思う。また同時に羨ましい、とも。後者は以前まで抱かなった感情だ。ライカが来てからだろうか。きっと、メイは何者かになるのだろうと、おそらくそのことが嫉妬の対象となるのだ。

 と、メイが顔を上げる。汗が吹き出る。それほどの集中だったのだ。

 隣に用意しておいたグラス入りの水をメイに差し出す。受け取るメイは笑顔で、

「ありがとう!」

 先程までこちらが震えるくらいの集中を魅せていた少女とは思えない笑み。グルドが見たら気持ち悪い顔120%になることが確実なその笑顔を見つつ、

「メイは将来の夢とかあるのか?」

 聞いていた。節操ないな、とユレイ自身思いつつ、それでも聞きたいと声に出していた。

「夢ー? うーん、ある!」

「お、どんなの?」

「えー、お父さんに言わない?」

 ざまあみろ、グルド。とうとう娘が父親に知られたくないことを持ち始めたぞ。

「言わない言わない」

「うーん、じゃあ教える!」

 メイがこちらに近づいてくる。そして囁くのは、

「――このお店にもっとお客さんが来るようにして、お父さんがラクできるようにするの!」

 父を想う、娘の願いだった。

 メイを直視できない。なぜあのハゲからこの娘が生まれたのだとか、いや産んだのはグルドではなくメイの母親だとか、いろいろな思考が駆け巡るが、

……俺、負けてるだろ。

 ユレイより何倍もメイの方が未来を見ている。子供だからとか、そんな言い訳が通用するものではない。

 メイが七歳のとき、ユレイがボークルードへ移ってくる少し前にメイの母親、グルドの妻は病死したという。それ以来、グルドが一人でメイを育ててきた。道具屋を経営しながら、メイを男手一人で守り、育ててきたのだ。

 ユレイはグルドを親バカと思っているが、同時に尊敬もしている。グルドは森羅万象にメイを優先させている。メイがあっての世界と、そう考えているのだろう。去年一度、メイが重めの風邪を引いたときがあった。グルドは四日間、メイが完治するまで一睡もすることがなかった。ユレイに看病を任せ、教会に土下座で治療を頼みに行っていたこともある。

 それだけの想いは通じているのだ。

 グルドがメイに苦労している様子を見せたことはないはずだ。それでも、メイはグルドの苦労を知っている。思いやっている。そしてその思いやりを、自身の夢に合わせているのだ。

 それも、「したい」ではなく「する」。メイにとってそれが確定事項なのだ。

「ユレイ?」

 メイがこちらを伺ってくる。

「ユレイも一緒にやる?」

 一緒に。それは道具屋を、ということだろうか。

「ユレイがアイテムで冒険者さんたちを助けて、メイが絵で皆をしあわせに出来たら、たぶんいっぱいお客さん来るよ!」

 アイテムで冒険者を助ける。

 アイテム「は」冒険者を助けるだろう。その目的で作られたのが冒険者向けのアイテムだ。だが、道具屋がアイテム「で」冒険者を助ける。ユレイはそんな風に考えたことはなかった。

 シェアラの件で、ユレイは自らの責任を感じていた。あれはネガティブな方向だが、ポジティブな方向もあり得ると、メイの発言はそう聞こえる。メイからはそう見えているのだろうか。

「ああ、それができたら、良いのかもな」

 わからなかった。ユレイにはその光景が自分の道にあるのか、わからなかった。

 ひとつわかるのは影。冒険者の影。

 そこに背を向けて、歩いていくことはできないのだ。何らかの結論を出さなければならないのだと、思い始めていた。


    ●


 ユレイはウィルスと夕食を食べていた。

 朝食と昼食はそれぞれ、夕食は二人で交互に作るのがこの家のルールだ。ちなみにウィルスは料理が上手い。薬草を扱っているからだと本人は言うが、どことなく母さんと似ている味に彼らが姉弟であることを思い出す。

 メニューは、パン、ベーコンとアスパラガスのソテー、そしてスープなのだが、

「このスープ、何か溶かしてる?」

 ユレイが気づく。赤みがかったスープは少しドロドロしていて、口に入れると重量感がある。しかししつこくはなく、喉をスっと通っていく感覚が気持ちいい。

「ああ、キャロットンを煮込んで溶かしてあるよ」

「キャロットン? これが?」

 キャロットンは、オレンジから赤色の円錐のような形の根がなる野菜だ。比較的どのような土地でも育つので、様々な場所で食べられる。調理のされ方も多様で、ほぼすべての料理に登場可能な食材である。おまけに栄養もある。一家の料理番にとっては強い味方なのだ。

 一方、キャロットンには独特の苦味がある。育てられた地域や時期によっても変わるが、この味を苦手とする人も多い。特に子どもにとっては。

 ユレイも苦手で、皿の端にキャロットンを集めては父さんにからかわれた。その当時、母さんに渡された絵本が『キャロットン大戦争』。絵本の中ではこどもの国とキャロットンの国の戦争がコミカルに描かれ、しかし最後には意外に感動的な結末で終わる。子どもがキャロットンを嫌っている場合はその本を渡せ、というのはこの国の母親たちの共通理解である。

 しかし、ユレイが今飲んでいるスープについては、

……甘い……。

 あの独特の苦味が消えて、マイルドな味にまとまっている。いまだにキャロットンの味が少し苦手なユレイでもスイスイ飲める。

「これ、どうやって作ってるの?」

 ユレイが尋ねると、ウィルスもスープをスプーンで回しながら嬉しそうに、

「長い時間を掛けて煮込むんだけどね、その前に小さく切ったキャロットンを塩もみして漬けておくんだ。そうして煮込むと優しい味に仕上がるんだよ」

 そう言われると、しょっぱさも感じる気がする。わけのわからない味だ。しかし美味い。

「でも塩もみの加減が難しいんだよ。少しでもバランスが崩れると味が不気味になってしまう。キャロットンは時期ごとに味も変わるから、それに合わせて調整しないといけないしね。久しぶりだから上手くいくか不安だったけど、おいしいのならよかったよ」

「うん、美味いよ。でも今まで作ったことなかったよね? なんで?」

「まあやっぱり手間がかかるからね。でもほら……」

 ウィルスがにこやかに微笑みながらユレイの部屋の方を見る。

「この前、ユレイが自分の本を整理していただろう? だから僕も自分の本を久しぶりに整理してみようかと思ってね」

 ウィルスは薬草関連以外にも多く書籍を持っている。読書家なのだ。おそらく今言っているのは薬草関連でない本のことだろう。

「そうしたら、懐かしい本を見つけてね。それで昔を思い出して作りたくなってしまったんだよ」

「本? 料理の?」

 ユレイの質問にウィルスは嬉しそうにして席を立つ。ウィルスの機嫌が良さそうなのはいつものことだが、今日は特に良い。ウィルスの周りだけ春の陽が当たっているような錯覚さえ覚える。まったく変な中年だ。

 戻ってきたウィルスの手には一冊の本が握られている。普通の書籍よりも少し大判のそれは、

「ユレイも知っているかもしれないね。この絵本」

……『キャロットン大戦争』?

 記憶を探るが、絵本の中にこんなスープは登場しない。キャロットンの兵士たちが入ってた風呂がスープになっていた気もするが、少なくとも目の前にあるそれとは異なる。

「母さんが読んでくれたのは覚えてるけど……」

 確か『キャロットン大戦争』が発売されたのはユレイが幼い頃だった。つまり、ウィルスが子どもの頃にはまだないはずだ。なら、

「その絵本に何の思い出が?」

 ユレイの質問にウィルスは少し眉を上げながら、すぐに先程以上の嬉しそうな顔になる。もはやウィルスが太陽だ。

「僕の初恋の人のはなし、姉さんからどれくらい聞いてる?」

 賢く柔和で、それなりに収入もあるウィルスがいまだに結婚をしていない理由。忘れられない初恋の人。ユレイは母さんから少しだけ聞いていた。

「学院で出会って、それで確か卒業する時に他の人に嫁いだんだっけ?」

 ウィルスは、高等学院に通っていた。この国では地域ごとに学校環境は異なるが、大体六歳から十五歳のうち、六年ほど学校に通うのが平均的だ。ボークルードでは八歳から十四歳。メイが今通っている。

 高等学院というのは、その通常の学校を卒業後に優秀かつ裕福な人間が通う機関である。大きな都市にしか存在せず、そこではより専門的な内容を学習する。ウィルスの家、つまりユレイの母さんの家は裕福と言える程ではなかったが、ウィルスは相当優秀で学費のほとんどを免除してもらったという。

 高等学院は貴族も多く通う。そして貴族の中には在学中に結婚相手を見つけ、卒業と同時に結婚する者もいるらしい。ウィルスの初恋の人の場合がまさにそれだ。

「そう、それで合っているよ」

 好きな人が他人に嫁いだ話なのにすごく嬉しそうだ。ユレイは少し叔父さんの趣向を心配しつつ、

「その話とこのスープと『キャロットン大戦争』に何の関係が?」

「うん、少し長くなるかもしれないけど、いいかい?」

 頷くユレイ。

 手の中の絵本を撫でながら、ウィルスが懐かしむようにポツリポツリと語りだす。

 ――とても大事な、柔らかく崩れやすい何かを撫でるような、そんな語り口だった。


    ●


 ウィルスとその人は同じ植物系の学科を履修する学生だった。初めての実験を行う時に席が隣で、それからよく話すようになったという。

 誰でにも優しく、しかし自分の意見ははっきり主張する、そんな優しくて強い女性だった。ウィルス以外にも多くの友人がいて、よく相談にのっていた。

 彼女は一般家庭の出身であったが、一度は友人を貶めた貴族を激しく怒鳴りつけたこともあったらしい。青ざめた学院長が飛んできて彼女は謹慎処分になるが、ほどなく友人たちの嘆願により処分が解かれた。

 彼女はどんどん人気になっていく。同じ授業をとってこそいたが、ウィルスが学院で彼女と話す時間はあまりなかった。しかし、彼らには二人の時間が存在していた。

 授業のない休日。ウィルスは学院のある街の郊外、あまり人の来ない丘でスケッチをしていた。そこに偶然彼女が通りかかり、休日は一緒に過ごすことが多くなっていく。

 いつ彼女に恋をしたのか、ウィルスにはわからない。気づけば彼女を目がおっていた。本を読んでいても、彼女の声が聞きたくなった。スケッチの時は彼女の姿を思い浮かべた。

 ある日、彼女が恥ずかしそうに相談してきたことがある。

 ――キャロットンが苦手なのを直したい。

 すでに学院で人気になっていた彼女。それを相談するのは少しバツが悪かったらしい。しかし、これはユレイにもわかることだが、ウィルスは相談しやすい。絶対に自分を否定せず、受け止めてくれる気がするのだ。

 ウィルスは彼女と一緒に考えた。ウィルスは、彼女のキャロットンに対する認識を変えるアプローチを取ろうとした。“慣れる”アプローチの場合、彼女がキャロットンに対してさらなる苦手意識を得てしまうかもしれない。

 それはあってはならないことだと、ウィルスにはわかっていた。

 試行錯誤の結果、生まれたのがあのスープだ。実はあれ以外にもキャロットンの苦味を消す調理法をいろいろ生み出したらしい。その中でもあのスープを一番美味しそうに、彼女は飲んでいた。

 時間が経ち、彼女はキャロットンを克服していた。喜ぶ彼女を見て、ウィルスも喜んだ。

 ――それから少しして、彼女が貴族に嫁ぐことが決まった。

 相手は、かつて彼女に怒鳴りつけられたあの貴族。あの時からどんな物語があったのか、詳しいことをウィルスは知らない。知らないが、それはきっと素晴らしい物語だったのだと思う。

 貴族の家は、その地域の農業を司る家だった。キャロットンは主力ともいえる品目だった。

 きっとその街に住んでいるなら誰もが知っている。その家の紋章にはキャロットンの絵が含まれているのだから。学生たちも知っている。その貴族子弟の豪華な服にも、その紋章はあるのだから。

 そしてウィルスはその想いを一度も外に出すことなく、卒業の日を迎えた。

 数年が経ち、『キャロットン大戦争』が世に出た。

 ――作者は、彼女だった。


    ●


「叔父さんは、後悔してないの?」

 ユレイはウィルスに尋ねる。

「叶わない恋なら出会わなければよかったとか、彼女の苦手克服を手伝わなければよかったとか……」

「思わないよ」

 ウィルスがユレイをまっすぐに見ながら言い切る。

「彼女を好きになれてよかったと。心からそう思う」

 優しげな眼で言葉を紡いでいく。

「あの時間はぼくにとって最も幸いな時間で。そんな幸いな時間が僕の人生に存在することにいくら感謝してもしきれない」

「でも……」

「それにユレイ、考えてみてごらん」

 ウィルスが笑顔で『キャロットン大戦争』をユレイに手渡してくる。受け取ったユレイに、

「キャロットンが苦手だった彼女が、キャロットンの“見方を変える”本を描いた。多くの子どもたちにそれは届いたよね」

 ユレイの方ではなく、窓の方を見て言う。

「その行動は僕が彼女の苦手克服に付き合わなければなかったかもしれない。だとすれば、僕はあんなに素晴らしい彼女に少しでも影響を与えられたのだと……」

 再び、ユレイの方を見て笑う。

「そう誇っても、いいんじゃないかな?」


    ●


 ユレイは、ウィルスから借りた『キャロットン大戦争』を自室のベッドでめくっていた。

 ウィルスは後悔していないと言う。

 幸せな時間を得られたことこそが幸福なのだと。

 彼女の行動に影響を与えられた自分が誇らしいと。

 きっとそれは嘘ではないのだろう。ウィルスは本気でそう思っているのだろう。

 しかし、

「それだけじゃないだろ、叔父さん……!」

 ――めくるページにあったのはシミだ。

 いくつも、いくつも、シミがあった。

 それは嬉しさの発露なのだろうか。

 一人、かつて愛した女性の描いた絵本をめくる男の、二人の思い出を象徴するような絵本をめくる男の、それは嬉し涙の跡なのだろうか。

 きっと、それは――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る