第5話 致命的な乖離

「尻尾がねー美味しそうだったんだけどねー。毒があるかもだからって燃やしちゃったのよ、もったいなくない?」

「知るか。巨大トカゲの尻尾なんて別に食べたいと思わない」

 ライカが棚の端に背を預けながら“中ボス”討伐の報告をしてくる。もう三回目だ。ライカ的には結構ヒットな話らしい。ユレイは棚の商品を整理しながら、

「A級冒険者にもなるとモンスターも食材にも見えるの?」

「いやいや、私の故郷の方だとよく食べられるモンスターっていたわよ? 名物料理にして儲けている町もあったし」

 モンスターは動物とは異なる。

 動物は生殖活動によってこの世に生まれてくるが、モンスターは「魔素」による発生だ。ゆえに冒険者などによって倒された後、時間が立てば「魔素」に分解され消失していくことになる。そのたモンスターを食べるというのは基本的に不可能だ。

 しかし、モンスターの中には、動物や植物が「魔素」を過剰摂取することでモンスターに変異した種類のものも存在する。その種は「魔素」に分解されて消失することはない。そして、その死体を他の動物が食べることで新たなモンスターが生まれてしまう危険性がある。だから通常、燃やすなどしてその死体を処理する。

 “食べられる”モンスターはこの種のものだ。「魔素」抜き加工をしてから料理にされる。ボークルードがある東側、ユレイが以前住んでいた北側ではあまり食べられることはないが、南や西だとそういった文化が見られるのだ。

「何にせよ、あとは“中ボス”一匹と“大ボス”ね。まだ“大ボス”の姿は確認されていないけど、すでに最後の“中ボス”は見つけているわ。次は魔女を形どったスライムみたいなやつよ」

 そう、『巣』の攻略はライカの奮闘によって異例のスピードで進行していた。普通はこの状態までもう一ヶ月はかかるものだ。この分では、他の凄腕冒険者が来る前に終わってしまいそうだが、

「“大ボス”と戦うときは流石に援軍に頼ったほうがいいんじゃないのか? 一週間もすればそろそろ他の冒険者たちが……」

「いらないわよ。ワタシの実力を信用していないの?」

「……。いつか死ぬぞ」

「あら? ワタシたちは皆いつか死ぬのよ? 知らなかったのかしら?」

 舐めるような視線と声にユレイはイラっとするが、相手にしないことにする。

 一般的に“大ボス”と“中ボス”ではまったくその強さ・脅威度はことなる。“中ボス”は1~3パーティで対応できるのに対し、“大ボス”には10パーティ以上が必要とされる。それもエースを張れる凄腕が数人いての話だ。

 しかし、その常識を超えていくのがA級冒険者ということなのだろう。

「とはいっても、“大ボス”相手に一人で挑むわけじゃないんだろ?」


    ●


 ライカはソロの戦闘を好む冒険者だ。

 正直言って、“大ボス”相手だろうが、一人で戦いたい。しかし、現実そうはいかない。

 “大ボス”は基本的に巨大だ。そして『巣』の中核となっており、“大ボス”がいる限り『巣』の駆除は完了されてない。無限に「魔素」が増幅され、モンスターが発生し続けるのだ。

 そして、どうやら“大ボス”の方でもそれはわかっているらしい。だから、危険になれば逃げる。そして逃げた先を中心にまた『巣』が展開することになる。そうなれば構築してきた基地やモンスター・マップも意味がなくなる。つまり、“大ボス”と遭遇し、ピンチに追い込んだら確実にそこで仕留める必要があるのだ。

 しかし、ソロで戦闘した場合、取り逃がす危険性が高い。だから大勢の冒険者で取り囲むようにして戦うのが基本スタイルとなる。逃げようとしてもその方向にいる冒険者が牽制するのだ。相手が飛翔できるタイプの場合は、数名の魔法使いが逃亡阻止用の魔法を準備しておく。

 ライカといえど、この決まりは無視できない。

「まあね。でも他の連中は“大ボス”が逃げないよう囲んでおくだけで十分よ。ワタシが倒し切るのを眺めていればいいわ」

 自信はある。今までも“大ボス”級のモンスターを何度も打倒してきた。ライカには優れた“勘”や剣術、魔力があり、なにより雷魔法がある。いくつかの例外を除いて、あらゆる敵に対して絶大の効果を誇る雷魔法。“大ボス”はその体積が大きいのが普通だが、その全身に雷魔法を通すことで通常の体積のモンスターよりもさらに大きなダメージを与えることができる。つまり余裕だ。

 商品を整理しているユレイをこっちを見て、ため息をついている。

 冒険者に憧れる青年。しかしその自我を仮面の下に隠している道具屋のバイト。ライカはその仮面の下を引きずり出したい。特別な意味があるわけではない。求めるのは刺激だ。『巣』の駆除も楽しいが、こういった人間の感情と相対するのも楽しい。

……A級冒険者と相対しようという人も、少ないものね。

 A級冒険者は“英雄”というやつだ。一般人からは憧れの対象、ともに戦う冒険者からは畏怖の対象。それは正面から感情をぶつける相手ではない。根本から自分とは違う存在であると認識するからだ。

 しかし、ユレイはライカの信念に反駁してきた。彼の信念を支える根拠があるわけではないのだろう。それでもライカのことが気に食わず、噛み付いてきた。今はその牙を隠している。

 ライカにとっては、脅威とそれを屈服させた時の達成感のみが生きがいなのだ。

……そろそろ、何か“きっかけ”が欲しいところね。


    ●


 ユレイは商品整理を終え、カウンターに置いてあったリストに戻る。現状のデータを反映させ、補充すべきアイテム、発注を抑制すべきアイテムを書き込んでいく。最終的に判断するのはグルドだ。ユレイも短期的な判断は可能だが、中長期となってくると知識も経験も足りない。

 後ろについてくるライカはポーションの棚をいじっている。

……そういえば、トロア製も補充しておかないとな。

 リストへの書き込みを追加する。

 ――ギルベルトたちは無事にシェアラたちを連れ帰ってきた。

 ユレイがマークをつけたポイントのうち、2つ目で『イビルウィンキー』六体と戦闘になっていたらしい。ギルベルトたちが発見した時、シェアラのパーティメンバー二人は“瘴気”に倒れ、シェアラは二人をかばう形で奮闘していた。

 ギルベルトたちはシェアラに引き付けられている『イビルウィンキー』らを背後から襲撃、戦闘は短時間で終了した。シェアラの意識はほとんどなく、本能で戦っている形だったと、ギルベルトの仲間の魔法使いが教えてくれた。

 ユレイたちが提案したトロア製ポーションと『エディンバの御札』は有効だった。

 織物商の話の通り、シェアラ達は渓谷でやられた冒険者たちよりも危険な状態だったが、トロア製ポーションを摂取すると、すこし症状が軟化したようだ。帰還後、教会に運ばれ、司祭らの治療を受けた。現在はエタンプ製の対“瘴気”ポーションも届いて、快復したパーティメンバー二人が道具屋に訪れ、礼を言われた。

 シェアラはまだ意識が戻っていない。孤軍奮闘の中で“瘴気”を吸いすぎたのだ。すでにエタンプ製ポーションも飲ませ、司祭らがつきっきりで看病しているため、命に別状はない。意識も数日で戻るだろうと言われている。

 シェアラを心配する声が街中で上がっている。だが、それ以上に多いのはシェアラを称賛する声だ。

 格上の『イビルウィンキー』六体を相手に、仲間を守り戦い続けた少女。冒険者は危機を乗り越えることで強くなっていく。ボークルードの期待の星は、確実に冒険者としての階段を登った。――それも数段飛ばしで。

……そんな期待の星を救う手伝いができたんだから、まあよかったかな。

 ペンを走らせながら、ユレイは思う。同時に失っていたとしたら、今ライカとこんな風に話せていないだろう。アイテム選びを手伝った身として、後悔の渦に飲み込まれてたはずだ。

 ユレイが起点となったことはあまり知られていない。ギルベルトやコルトの周辺、そしてシェアラ達くらいか。

グルドが関係者に告げたらしい。シェアラのことが騒ぎになるのはわかっていたので、その騒ぎにユレイが巻き込まれないようにするためだろう。

 グルドはバイトが仕事にならなくなったら困る、などと笑っていたが、おそらくユレイの精神状態を鑑みてのことだろう。

……ちょっと、アイテムのアドバイス、怖くなったもんな。

 いままでは上手く行っていた。しかし一度ミスがあれば、次もやってしまうのではないかと考えてしまう。

 今回は特殊な状況だったため、学習だけすれば過剰に気にすることはない。しかし騒ぎになり、それに巻き込まれる形で何度もそれを回想することになれば記憶に刷り込まれてしまうかもしれない。グルドはそれを危惧したのだ。

 なんだかんだ、ユレイはいろいろな人に助けられている。普段は馬鹿に見えるグルドやギルベルトは、それでもやはり頼りになる大人だ。ウィルスに仕込まれた知識も役立っている。

 安価なマジックアイテムで遊び始めたライカを見る。光る指輪で空中に字を描こうとしているようだ。

 ライカもシェアラが倒れたことを知っているが、ユレイの関与については知らない。

 一人“大ボス”を倒すと豪語するライカ、A級冒険者。ユレイとはまったく違う存在だ。

……なんで、噛み付いてしまったんだろうな。

 ライカはよく道具屋に来ては、ユレイやメイと喋っていく。始めは避けようとしていたユレイも慣れてきた。慣れてきて、やはり自分とは違う存在なのだと認識した。

 きっともう、感情をぶつけることはない。手の中のペンを回しながら、

「ユレイさん!」

 シェアラが勢いよく入ってきた。


   ●


 ユレイは勢いよく店に飛び込んできたシェアラを見る。シェアラはすぐにユレイを見つけると泣きそうな表情を浮かべてこちらへ駆けてくる。

 狭い店内だ。すぐに距離は詰まる。

「ユレイさん! 本当にありがとうございました!」

 ユレイの眼前で勢いよく頭を下げるシェアラ。背筋がまっすぐ、腰が直角に折れたその姿勢は育ちの良さを感じさせる。

「ああ、シェアラ。もう身体は大丈夫なのか?」

「はい! 一時間くらい前に目が覚めて、リオンとエルザから話を聞いて、それで!」

 リオンとエルザというのはシェアラのパーティメンバーだ。二人ともほとんど家に帰らずシェアラの傍にいたと聞いている。

「まだ安静にしておいた方がいいんじゃないのか」

「いえ、クエストや訓練はまだ厳しいかもしれませんが、普通に動く分には問題ないそうです! それよりも本当にありがとうございました!」

 いつもよりかなりテンション高めである。何度もユレイに対して頭を下げるシェアラ。

 思わず、ユレイも“瘴気”対策を事前にできなかったことを謝りそうになるが、自分は予知能力者ではないと思いとどまる。それに、そのような発言がシェアラに気を遣わせるだろうことは、予知などなくても予想できる。

「いや、まあ無事で良かったよ」

 少し、かなり落ち着かない気分になりながらユレイはシェアラに頭を上げさせようとする。

 そこへ不思議そうなライカがやってきた。

「? なんでシェアラがユレイに礼を言うの? ワタシにも言ってくれていいのよ?」

……なんでだ。

 詳しい事情を知らないライカにとっては、シェアラの行動は確かに不思議だ。

 シェアラはライカの言葉に一瞬戸惑い、すぐに察したらしい。ユレイの方を伺うように見る。伝えてもいいのか、と尋ねる目だ。

 まあ積極的に隠しているわけでもないので、ユレイは頷いておく。それを確認するとシェアラが経緯を丁寧にライカに説明しだす。どうやら仲間たちからかなり詳細に話を聞いたようだ。おそらくコルトあたりがユレイの推論部分も含めて仲間たちに喋ったのだろう。

「へえ、何か大変なことになっているのは知っていたけど、まさかユレイも関わっていたなんてね」

 ライカが意外そうにこちらを見てくる。

 ユレイはなんとなく目を合わせることなく、リストを片付け始める。ライカという遥か格上の存在に自分の努力的な部分を知られるのが、少し変な気分にさせるのだ。どう思うのだろうか。

 ライカが言葉を継ぐ。

「で、なんでアンタはシェアラを助けに行かなかったの、ユレイ?」

 ――冷たいものが、ユレイの背筋を駆けた。

 ――振り向く。

 ユレイの視線の先、こちらに眼光を放っていたのは、赤茶色の冒険者だった。


   ●


「で、なんでアンタはシェアラを助けに行かなかったの、ユレイ?」

 赤茶色の少女が告げた言葉が意味するもの。

 シェアラの危機を推測し、その対策を用意したユレイ。

 しかし、それを実行したのはギルベルトたち冒険者だ。ユレイではない。

「…………」

 ユレイではない。そんな当たり前の事実をユレイは静かに思う。

 シェアラがライカに向かって、

「ライカさん! ユレイさんが気づいて、考えてくれなかったら私たちは確実に死んでいました! だから……」

「“さん”はいらないわ、シェアラ。あと、その事実は私も把握している。私が聞いているのは、なぜユレイもギルベルト達と一緒にあなたを助けに行かなかったのか」

「ユレイさんは冒険者じゃありません! 危険だとわかっている場所に行くべきではありません。それでもユレイさんは私の命の恩人で……」

「もちろん、あなたがそう思っていることを否定しているわけじゃないの。でもワタシは気になったからユレイに尋ねた。それだけ。だから……」

 シェアラと話している間もユレイの方に視線を向けていたライカが、ゆっくりとシェアラの方に目を向ける。

「――あなたには関係のないことよ、シェアラ」

 刺すような視線と声にシェアラが圧倒される。それでもシェアラは震える声で、

「で、でも……」

「シェアラ、いい。大丈夫だから、今日は帰って休め」

 ユレイの言葉にシェアラが不安そうに二人を見る。ユレイは無言でうなずき、

「コイツはいつもこんな感じだろ? リオンとエルザも心配してたんだから、二人のところに行ってこい」

 これは少し卑怯な言い方だ。シェアラは仲間であるリオンとエルザを大切にしている。二人をダシにするような発言を少し悔やむが、

「……わかりました。失礼します。また……」

 しかしシェアラはこれで帰る。

 ゆっくりと出口の方へと向かうシェアラを見送りながら、ユレイは思う。

 これから先を、見られたくないのだ。


   ●


「で、答えは?」

 一応シェアラが出ていくのを待っていたライカが短い問いを発する。

「…………」

 考える。

 ユレイに冒険者としての技能はない。だから、

「俺が行けば、ギルベルト達の負担になっただろう。行って何ができるわけでも……」

「そんなのわからないでしょ?」

 食い気味で言葉をぶつけてくるライカ。

「あなたの推論は合っていたけど、間違っているかもしれなかった。ポーションは効かなかったかもしれない。でもアイテムと薬草の知識があるあなたが現場にいれば何か対処ができたかもしれない」

 確かにそうかもしれない。しかし、

「できることはなかったよ。そのはずだ」

 弱い。あまりにもユレイの言葉はライカのそれに対して弱かった。

「そもそもシェアラ達のピンチを予測したのはあなた。あなたは推論の結果だけ伝えて満足しているけど、それじゃ変化に対応できない。『イビルウィンキー』とシェアラ達は見つからなかったかもしれない。他の人はあなたの中にある推論過程を持っているわけじゃないんだから」

 ライカは剣を抜いていないし、魔法も使っていない。しかし確実にこちらに迫り、

「でも、それを持っているあなたなら、現場で新しく得られる情報から推論を検証できる。新しい推論を練ることができる」

 一言一言、ライカはユレイを追い詰めていく。

 しかし、ユレイは自分が追い詰められていっているとは感じていなかった。ライカの言葉を理解しつつ、論理として受け入れつつ、しかし心はそこに向いていない。

 ライカの告げる論理は、ユレイに新しい示唆を与えているわけではない。

 最初の質問。ライカが最初にそれを発したときにはその論理がユレイの中を駆け巡っていた。でも、そんなこととは別の、一つの事実がユレイに重くのしかかっている。それは、

……そんな『選択肢』、なかった。

 自分がギルベルトたちと一緒にシェアラ達を助けに行く選択肢など、あの時のユレイには存在しなかった。

 怖いとか、邪魔になるとか、そういうデメリットを計算してすらいない。

 ただ、そういうものとして。

 当たり前のように。

 その『選択肢」は存在しなかった。

 その事実を強烈に自覚したユレイは、目の前の赤茶色の冒険者ではなく、自身の中の何かに殺されそうになる。

 震え。吐き気。痺れ。痛み。浮遊感。そのどれも感じていないのに感じているような錯覚に陥る。

「あなたはそこで“行かない”人間なのね」

 赤茶色の少女が紡ぐ言葉。それはもし他人が聞けば、ただ当たり前のことを告げているに過ぎない。

「あなたは、“冒険者”じゃないのね」

 二人の間ではそうではなかった。

 揺れている“それ”を“事実”に変える言葉。

 青年の仮面を引き剥がすようにして、その下にあるものを覗き見て、否定する。

 それはあまりにも残酷な。

 “始まってもいないなにか”を、――“終わらせる”一撃だった。


   ●


 ライカは、目の前の青年を見つめていた。

……折れちゃったか。

 シェアラの話を聞いて、その状況を思い浮かべて、「ここだ」と思った。ユレイの仮面の下を刺激する契機として、いまが最適だと感じたのだ。しかし、

……クリティカルすぎたかー。

 もっと噛み付いてくるかと思っていた。そうしたら、その噛み付きをいなしつつ、徐々に青年に仮面の下を自覚させようと考えていた。しかし青年は、

……ワタシが思っている以上に自覚していたと、そういうことかしら?

 青年は意識しようとしていないだけだったのだ。きっと自分が何かを押し殺していることに気がついていた。でもそのことによって、自分がどのような影響を受けているのかまでは知り得なかった。

 ライカの質問はそれを明らかにするものだった。青年がどのような思考パターン、行動パターンを持っているのか。それが青年の根源とどれだけ乖離しているのか。

 きっとその乖離は致命的だ。

 青年にとって大きな、何らかの出来事があったのだろう。ライカが有している情報の中だと、両親の喪失だろうか。その出来事は青年のアイデンティティ確立をストップさせた。しかしアイデンティティを持たず生きていくのは難しい。青年を取り巻く状況はそんな猶予を認めなかったのだ。だから、

……仮面を、作らざるを得なかった。

 そうして生まれた仮面は本来、ストップされたアイデンティティの確立を守るためのもの。いつかまた、そのアイデンティティが動き出すときまで、代わりに青年を演じるもの。

 しかし時間が経ち過ぎた。その間に両者は離れてしまっていた。

 もしかしたら、青年は仮面を被ったまま、平穏に生きていけたかもしれない。ライカは知らないが、本当はそれが普通なのかもしれない。被った仮面を、それが本物だと信じて生きていくのが人間なのかもしれない。

 しかし青年は赤茶色の冒険者と出会ってしまった。

 おそらくライカの在り方は、止まっていたアイデンティティの方を刺激してしまった。そうして不安定な状態に陥っていた青年に、ライカがとどめの一撃を放ってしまった。

「でも、謝らないわ」

 だって、すべてはいつか失われる。青年がその乖離に苦しむのは仮面を得てしまったからだ。仮面による安寧を得た。その安寧を得た瞬間に、青年はその安寧の喪失を覚悟しなければならないのだ。

 おそらくこの青年から得られる面白いことはもうないだろう。

 青年がどうなっていくのか。少し興味はあるが、青年からすればもうライカに絡まれるのは嫌だろう。道具屋は他にもある。

 立ち尽くす青年を背に、

「さようなら、ユレイ」

 赤茶色の髪を流しながら、その店をあとにする。


   ●


 閉店後、ユレイは日が落ちていく道を歩いていた。

 その歩みは緩やかだ。下を向いて歩いていく。砂利が後ろに流れていくのを見ている。

 親子とすれ違う。その声は聞こえない。

 遠くで冒険者たちが騒いでいる。風にとけていくその声を、ユレイは払う。

 ――いま、ユレイがしなくてはいけないこと。

 修復作業だ。明日も、今日と変わらず生きていくために自分を保たなければならない。今までの自分を修復しなければならない。

 だから、道具屋でのライカとのやりとりを思い出していく。すでに通った流れを、もう一度通っていく。自覚しているものを無視して、望むものだけを拾っていく自己正当化の作業だ。

 ――「で、なんでアンタはシェアラを助けに行かなかったの、ユレイ?」


 道具屋の青年・ユレイとしてその行動は間違っていない。

 冒険者としての技能がないユレイが行ってもギルベルト達の負担を増やすだけだ。しかしライカの言もわかる。ユレイの推測はあくまで推測である。すべてが推論どおりとは限らない。そこでアイテムと薬草について知識のあるユレイが現場にいれば何らかの対応ができたかもしれない。

 しかしそれは道具屋の青年・ユレイとしての行動ではない。

「そう、別に間違っちゃいない」

……本当に?

 仮面はその行動を肯定する。それがユレイの生き方として相応しいもののはずだ。

……本当に?

 凄腕だから言えることだ。A級冒険者に一般人の気持ちがわかるわけがない。中級以上の冒険者たちが“瘴気”にやられたんだぞ。シェアラたちだって苦戦していたんだ。自分が行けるわけ、

……でも本の中の主人公たちならどうした?

「アイツらは英雄だ、冒険者だぞ! 俺は違う!」

……でも憧れた。

「子どものころの話だ」

……でも諦めたわけじゃない。

「……違う」

……だって、ライカを否定した。

「…………違う」

……憧れの冒険者たちは現実なのだと、そう考えたから。

「………………」

……自分もそうなれると、心のどこかで思っている。

「違う…………」

 誰と話しているのだろう。外から見れば独り言だ。

 しかし確かに対話は行われていた。

 一方は、流されるように生まれた仮面の上。

 そしてもう一方は、あの日から止まっている仮面の下。冒険者に憧れ、挫折し、しかし諦めると決めることもなかった子どものユレイ。

 涙をこぼすことはない。汗は流れていく。

 きつく結んだ唇から血が流れることはない。握りしめた両のこぶしからは紅い線が伸びる。

……もう、止まっているのは飽きたよ。

「ならどうする?」

……決めよう。

「何を?」

……どう、生きるのかを。

「…………」

 手を開く。袖で額の汗を拭く。前を向く。


 その日、ユレイ・リーウェルは仮面を脱ぎ捨てた。

 かつての憧れと向き合うために。

 幸か不幸か、今はその“憧れ”が実体をもって現れている。

 赤茶色の冒険者と決着をつけよう。自らの生き方を示すことで。その生き方は間違っていると示すことで。

 まだ何者でもない一人が、静かにボークルードの町を歩いていく。

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