平湯大滝
翌日、裕子が下りて来たのは、他の客が朝食を終えて、帰っていった後だった。裕子は頭を重そうにしていた。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい。寝過ぎちゃいました」
「僕こそ、無理に誘って、申し訳ない」
「そんなことないです。楽しかったです」
裕子は少し怠そうだったが、朝食を済ますと絵の仕上げに出掛けた。
午後、食堂でコーヒーを飲んでいると、親父がやって来た。
「昨夜は話できたのか?」
「……いや」
「何だ、口ほどでもないな」
「…………」
「お前、もしかして、惚れたのか?」
「分からんよ!」
俺は腰を上げると、厨房に入った。
……今日は予約客が無い。裕子に話を訊くのは今日しかない。
厨房の窓辺で
裕子は早目に帰って来ると、F6のキャンバスに描いた平湯大滝の二枚の絵を見せてくれた。
「……上手ですね」
写実的でありながら、内に秘めた熱い想いのようなものまで表現されていた。それは、素人目にも分かった。
「ありがとうございます。お父様はどちらがお好きかしら」
「え? 親父ですか? ……オ・ヤ・ジ! ちょっと来て!」
頭をピョコピョコしながら、小走りで親父がやって来た。
「完成しました」
裕子はそう言って、二枚の絵をテーブルに置くと、壁に立て掛けた。
「ほう、これは素晴らしい……」
親父は絵に見惚れていた。
「……どちらも、それぞれの良さがある。左は滝と新緑のコントラストが美しいし、右は右で滝の飛沫が飛び散り、流れ落ちる音まで響いてる感じだ」
「スゴい。絵にお詳しいんですね?」
親父の評価に、裕子は驚いていた。
「で、お父様のお気に入りはどちら?」
「うむ……迷うが、右じゃなぁ。滝の音が聞こえそうじゃ」
「じゃ、これ、お父様にプレゼントします」
親父に差し出した。
「えー! こんな大切なものを頂いていいの?」
親父は信じられないと言った顔をした。
「ええ、どうぞ。もう一枚ありますから」
「ありがとう」
礼を言うと、少年のような笑顔で俺を見た。
「よかったな、親父。部屋に飾ってくるといい。さあさあ」
親父は何度も礼を言って下がった。親父を追い払うと、
「あんな大切なものをありがとうございます」
と、俺も礼を言った。
「お父様に喜んでもらえて、よかった」
「お話があります。座ってください」
「……はい」
深刻な俺の言い方に、裕子が改まった顔をした。
「……僕は、元刑事です」
「えー? ……ホントに」
裕子はまるで、サンタに会えた子供のように、目を丸くしていた。
「鈴木裕子さんですね?」
「はい、……そうですけど」
「どうして、偽名を書いたんですか?宿帳に」
「えー? 旅館の主をやってて、客の心理も分からないんですか?」
逆に尋問された。
「旅先では誰でも、多かれ少なかれ、別人になりたいものよ」
……そんなものか。しかし、宿帳の偽名は犯罪だ。
俺はそれを言葉にせず、本題に入った。
「『凛』のホステス、飛鳥の殺人事件を担当した刑事です」
すると裕子は、昔の友人にでも会えたかのように懐かしそうな顔をした。
「私が働いてた店です」
「知ってます。それで、話をしてるんです。まだ、犯人が捕まっていません」
「えっ、嘘……すぐに捕まったと思ってました」
その言葉に驚いたのは、俺のほうだった。
「……どうして?」
「どうしてって、検挙率No.1の日本の警察なら、いとも簡単かなって」
皮肉を言われた。
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