予兆
翌朝、顔を確認するため、テレビを見ながら食事をしている裕子をチラッと覗いた。……間違いない。
裕子は急いで箸を置くと、画材を手にして出掛けた。
食堂で、遅い昼飯を摂っていると、習慣にしている昼寝から親父が起きてきた。
「俺も、うどん食うかな」
と、俺の丼を覗き込んだ。
「さっき、食べたばっかじゃないか。
「麺類はすぐ腹減るんだよ」
嫌がるでもなく、玉うどんにかき揚げと葱を載せると、出汁をかけて持ってきた。
「まだ彼女を疑ってるのか?」
親父は前に座ると、うどんを啜った。
「……物的証拠は無いけどな」
「動機は?」
「訊かなきゃ分からんよ」
「動機も物的証拠も無いのに疑ってるのか?」
親父は呆れた顔をした。
「事情聴取してないから、スッキリしないんだよ」
「で……いつ訊くんだ?」
「……今夜あたり」
自信なさそうに
「
親父が茶化した。
「馬鹿言え」
俺は鼻で笑った。
「お前の好みは偏ってるから、すぐに分かる。お前の別れた女房も悪くなかったが、少しばかり気が強すぎたな」
「大きなお世話だ」
急いで、うどんを食べ終わると、親父から離れた。
――裕子は帰って来るとテーブルに着いて、テレビを見ながら俺の料理を待っていた。
「絵は出来上がりそうですか?」
小鉢を並べながら訊いてみた。
「ええ。明日には描き上がります。ぜひ、見てくださいね」
「はあ、ぜひ。……今夜、少し飲みませんか」
「え?」
「話がしたくて」
「でも、私、あまり飲めなくて」
裕子は乗り気がしない様子だった。
「美味しい杏酒があるんですよ。甘いのが」
俺はまるで、女の子をお菓子や玩具を使って誘拐するような心持ちだった。また、ナンパして、断られないように言葉を選ぶ時と似ていた。
「……じゃ、少しだけなら」
「ありがとうございます。じゃ、食事が終わったら、ここで飲みましょ」
「その前に、温泉に入ってもいいですか」
「あ、勿論です。では、後ほど」
「はい。分かりました」
裕子はニコッとすると、箸を持った。俺は、十七、八歳に戻った思いだった。
――酒肴が出来上がった頃、あの写真の裕子を
「湯加減はいかがでしたか」
「結構な
わざとか、裕子は料理の味加減で答えた。
「それはよかった。どうぞ、一杯」
杏酒の瓶を手にすると、裕子の前に置いたクリスタルのグラスに目をやった。
「あ、すいません。頂きます」
裕子は綺麗な爪の指でグラスを上げた。
「絵描きさんですか?」
「いえ、単なる趣味です」
裕子は大袈裟に横に手を振ると、恥ずかしそうに苦笑した。
「ご主人の趣味は?」
突然訊かれて、俺は慌てた。
「……料理だったんですけど、今では仕事になったので。……たまに親父と指す将棋ぐらいですかね」
「あ、だから、料理が上手なんですね」
ママの眞弓が言ってた通り、あしらい方が巧かった。
――結局、平湯大滝や絵の話をしているうちに、裕子はグラス二杯くらいで頬を染め、
「ごめんなさい……眠い……」
肝心な話ができる状態ではなかった。
裕子の小さな体を支えると、階段を上がった。湯上がりの爽やかな香りがしていた。布団を敷いてやると、寝かせた。苦しそうに荒い息を立てながら、潤んだ唇を開け閉めしていた。唇を奪いたい衝動に駆られながらも、俺は明かりを消してやると、ドアを閉めた。
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