第7話
苦難があるならぶち破れ、と言わんばかりに、ゴルドーさんは毒沼へ体を預けた。腰までずぶりと入り込み、一瞬だけ顔を歪めた。けれど自分の左腕を噛んで毒に耐え、落ち着きを取り戻したところで振り向く。
その視線の先、つまり自身と縄で繋がれた私に、来いと促す。
「お気に入りの服だったのになあ……」
この汚濁に浸かってしまえば、いくら洗濯しても無駄だろう。葉に切り裂かれて既にボロボロなのだけど、これで修繕も不可能になった。
さよなら、お母さんのお手製。また頼んで作ってもらおう。ゴルドーさんには内緒で。
そんなことを考えながら沼に足を踏み入れた。
「――――――」
あれ。
頭が浮く。
身体が閉じる。
わけも分からず、私が終わろうとする。
なんかもう死にそうだ。
「――――んが」
時間が飛んだ。身に覚えのある空白。
私は沼の中に立って、自分の左腕を噛んでいた。目が覚めるほど鮮やかな色合いの血と、じくじくと伝わる痛みで、現状を把握する。
行くべき場所、万年樹。障害、理性を奪う毒沼。目的を為す方法、沼を進む。
それだけ分かれば十分。
「行くぞ」
ゴルドーさんが歩き出すので、私も進むことにした。
沼の深さは私の胸辺りまでのようで、泳ぐ必要はなさそうだった。歩くだけでも大変なので非常に助かる。
何か恐ろしい生物がいるのかとも懸念したことはあったけど、その心配は恐らくいらないだろう。触るだけで気が触れそうになる沼には、どんな生物だって住めるはずがない。
――――――。
引っ張られ……そう、縄。私は腰に縄を巻き付けている。
ゴルドーさんのツールバッグには様々な道具が入っていた。ナイフにピッケル、ランタン、探検家の愛用道具に加え、特殊な効果のある手投げ玉や液体など。その中に全長十メートルほどの丈夫な縄が混じっているのは、むしろ当然と言えた。
時々足を止めてしまう私を、前を歩くゴルドーさんの歩みが引っ張る。
私が迷ってしまわないための道しるべであり、立つこともままならなくなった時の予防策。
意識のおぼつかない私は、彼の叱咤するような歩みで支えられていた。
彼の切り開いた道を歩くだけ、とは何だったのか。結局、それすら満足にこなせず、重荷となってしまっている。
それだけが申し訳ないなと、借りを作ってしまうなと、思って――。
――――――。
いた。
今度は右腕が真っ赤に染まっている。獣と見間違うほどの豪快な噛み跡だ。肉なんてちょっと心配されるくらい抉れてる。
それでも、意識を保つのは難しかったかもしれない。ゴルドーさんから渡された指輪がなければ。
白い花弁をかたどった指輪。なんでも精神汚染から身を護る指輪らしい。これも一つの宝らしいけれど、よく気軽に渡すものだ。
まあ、同じようなものをいくつか持っているのだろう。そうでないと今、彼の分の指輪がないじゃないか。きっとそう。
――――――。
また、空白。
さっきよりも間隔が短いかもしれない。憶えてないけど。
対岸はまだ遠い気がするし、すぐ近くの気もする。どっちだろう。目がかすむ。
辿り着くまでに、意識は残っているだろうか。
「――――――あ」
自分の存在確認。どうやらここにいるようだ。
「帰ってきたか」
ついでにゴルドーさんも発見。ぶっきらぼうな声だから間違いない。
自分の体を見下ろす。黄緑の泥に彩られたお気に入りだった服を着て、二本の足で立ち尽くしている。両の腕にはいくつもの噛み跡。
現在地は、どこだろう。周囲の景色に沼はない。
代わりに一段と眼前に迫った万年樹と、野に広がる茨。
「オマエ、ここまで自分で歩いてきたんだぜ。憶えてないだろう」
きょろきょろと視線が落ち着かない私を見かねて、ゴルドーさんが呆れる。
「声かけても無視で、引っ張っても力づくで振り切ろうとしやがる。危うくアレに突っ込むところだったぜ。そういう罠だから仕方ないが。すんでのところで正気に戻ってよかったな」
アレ? 罠?
よく分からない。ん……いや、ついさっき何を見たんだっけ? しっかりしろ、寝ぼけ頭!
沼は見当たらなくて、万年樹が近くて、野には茨。
茨の、棘が、舌なめずりして――。
「危なっ!」
茨の群生地は目と鼻の先。無意識の間に顔からダイブする直前。本当にすんでのところで目が覚めたようだ。
「どうして止めてくれなかったんですか」
「どうしてって、だから止めたんだよ。けどオマエ、すげー力で振り切るし、抱きかかえても暴れるし」
「抱き!? 私の、体を!?」
「やかましいな……」
と、つい過剰に反応してしまったけれど、さすがに私だって状況をわきまえている。助けてもらった手前、わーきゃーと騒ぐのは失礼だろう。
「コホン、失礼しました。私、うら若き清純乙女ですゆえ、殿方との接触には慣れていないのです」
「泥だらけの血まみれでそんなことを言われてもな……てか、急にお嬢様っぽくなるな」
「元からですわ」
「違うだろ」
「その場のノリですわ」
「ボケるんじゃねえ」
何気にツッコミが板についているトレジャーハンターだった。
ともあれ、そうか。あの毒沼を乗り越えることができたのか。すごく長い時間苦しんでいたような気がするし、一瞬で終わってしまったような気もする。とにかく実感がない。夢の中の出来事のようで、つかみどころのない感覚だけが残っている。それもとびきりの悪夢だ。
というか、帰り道でまた通らなくてはいけないのではないか。
うん、今は考えないようにしよう。
「そうだ、これ返しますよ」
私は借りていた指輪を外して、彼の手に返還する。
「役に立ったか?」
「あまり実感はありませんが、はい。それがないと溺れていたと思います」
沼に、狂気に、溺れて死んでいた。何度かの空白から戻ってこられたのは、多分指輪のおかげ。
「この白い花は抵抗を象徴しているのだそうだ。曰く、どんな色にも染まることのない純白、なんだと」
「へぇ……」
ゴルドーさんはその綺麗な指輪をツールバッグの中にぽいと入れた。指に嵌まらないせいだろう。彼の手は私とは比べるべくもないとして、同じ年の男と比べても大きい方だと思う。
なんだかもったいない。
「いよいよ近いぜ。距離的に考えて、茨を抜ければすぐ万年樹に辿り着くだろ」
じゃあ行くか、とゴルドーさんは足を踏み出す。
ろくに休んでもいないのに、この人は元気すぎる。疲れ知らずなのか。
「あの、その前に。さっき言ってた罠って、どういう意味ですか?」
休息がてらに話を振る。気になっていたのは事実だけど。
「ああ、それは何でもない。この森自体がそういう構造になっているだけだ」
「どういうこと?」
理解の及ばない私。見かねたゴルドーさんは気だるげに頭を掻き、足を止めた。
「フツー、宝をこういうダンジョンの奥に隠すのはどうしてだと思う?」
「そんなの、宝を守るために決まっているじゃないですか」
「残念。それじゃあちょいと狭すぎるな」
「狭い?」
「講釈なんぞ柄じゃないが、まあ特別だ。大まかに宝を秘めておくのには、三つの理由がある。一つは宝を守るため。宝をあるべき人の手に渡すため。そして、宝に釣られた人を捕らえるため、だ。ここまで言えば分かると思うが、この森は確実に三つめだ」
宝を釣り餌に人を捕らえる。つまり、罠。
ゴルドーさんが言わんとしていることが電流のように頭にはしる。それはつまり、この森の存在、ひいては霊薬の存在すら疑うような結論に及んでしまうのではないか。
「この森……いや、万年樹には一つの悪意がある。本能と言った方がいいか。どんな生物だって何かを喰って生きている以上、それ自体は自然な流れだからな」
「喰うって、つまり……」
「帰れずの霧で退路を断ち、木の幹や植物の葉で噛み砕き、毒沼で精神を融かし、茨に絡めとる。オレたち人間もやっているだろう。こんな一連の食事行為なんてのは」
まさか。そんな原初的な、動物みたいな行いが、ここで?
霊薬という餌に釣られた人を、初めから万年樹は狙っていたというのか。食虫植物のように甘い香りで誘い、立ち寄った人を、その根の下に埋め、栄養とするために。
霊薬を求めて何人もが行方知れずになった。何人も何人も、私は見送った。彼らが自ら
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