第5話
「うわ、気づかないうちにけっこう切っちゃってる」
自分の体を見て、ところどころから血が流れているのに気づく。傷はどれも葉先がかすめた程度の微小なもの。致命的な直撃こそなかったものの、無傷とはいかなかったらしい。
幹に叩き潰されなかっただけましか。
私がこうして息をついているのは、あの嵐の及ばない空間へと抜けたからだ。ここは視認できる限りでは植物が見当たらない。
心落ち着く。植物が目に入らないだけでこうも安心できるとは。
「安心はまだ早いと思うぜ。何せまだ試練の途中。第一の試練より第二の試練のほうが厳しいって、相場が決まってるもんだ」
ダンジョン市場の常識なんて寡聞にして知らないけれど、熟練のトレジャーハンターが言うなら間違いないのだろう。
まだ森を抜けたわけではない。安心は早い。
「そういえば試練試練って言いますけど、どうして? 旅人を試すような言い伝えは、この森にはなかったはずですけど」
「ああ、ついな。口癖みたいなもんだ。宝の前にある障害が、どうしてもオレに対する試練に思えちまう。お前はこの宝を手にするにふさわしいか、ってな」
「……難儀ですね」
「そうか? 楽しいぞ」
そうなんでもかんでも試練ばかりだと、気疲れしそうだ。
私なんて面倒くさがりなので、「そういうことなら結構です。辞退します。さようなら」とでも言ってあっさりと諦めそうなものである。
基本的には楽して生きたいのだ。
それならどうしてゴルドーさんについていくことを決めたのか。面倒くさがりなこの私が。
私が流されやすい人間である、というのは的を射ていない。ましてや彼の言葉にほだされた、というのも違う。私の意志力は案外と強固なのだ。
全ては打算的な計画のため。私は面倒くさがりでも、将来設計のできる面倒くさがりだ。
ゴルドーさんは、思考に歪な部分はあれど、凄腕のトレジャーハンターであることには違いない。そういう噂を、彼が村で滞在している間に耳にしていた。
だから彼についていれば、霊薬を手にする確率は非常に高い。
一時の、多少の苦労を経て、霊薬を手に入れる。そして霊薬を売って大金に替える。
これこそが楽な生き方だ。
「だが確かに、客観的に見て、ここは試練とは程遠いようだな」
私が脳内で自論を展開していると、ゴルドーさんが呟いた。
「何か別の意思を感じるぜ」
「意思、ですか。万年樹の?」
「ああ。まあ大したことじゃないし、ヤツの考えなんぞ、侵入するオレ達にとっちゃあ関係ないが」
そう言ってゴルドーさんは歩き始める。休憩はおしまいのようだった。
私はだるい体を持ち上げて彼についていく。まだ完全回復とはいかないのだけど。
外からでは霧と森林部分に阻まれて見えなかった地帯。周囲に木々はなく、開放的なものだ。
視界は開けており、故に次の障害が目に入る。
程なくして辿り着いた。
「これは……沼?」
黄緑色で、粘り気があり、腐臭のする、生理的不快感の付きまとう感じの沼だ。間違っても入りたくはない。
しかし行くべき場所は沼の向こう側にあるようだ。周囲をぐるりと沼で囲まれた、小島の中。
「む、これを渡るのか」
「どこかに橋とかありませんかね」
「あるわけないだろうが。舐めんな」
何故か怒られた。
「う……この臭い、なんだか気持ち悪くなってくる」
沼に近づくほどに不快感は増していった。水面から発生している瘴気を吸い込むと、鼻先が少し痺れる。なんだか顔が熱い。
ゴルドーさんは沼の淵に屈んで観察をしているようだ。
私も真似しようと、彼の方に寄っていった。彼と同様に屈んで、顔を近づけて。
意識が、奪われた。
「――――――」
わずかな空白があった。
「素人が。不用意に近づくんじゃねぇよ」
ブラックアウトした世界の中で声がして、私は目を覚ます。目の前の光景は変わらない。どうやら一瞬だけ気絶していたようだ。
瘴気から遠ざかろうと後ずさる。
「気持ちが、わるい……」
私は胃の中からせり上がってくる液体を自覚して、それを足元に吐いた。酸っぱい胃液が、湿った土の上でびちゃびちゃと無様な音を立てる。
吐き気が収まってきたころ、「水だ」という声と共に、顔の横に筒が差し出される。
「ありがとうございます……」
目の前で散々な姿を見せておいて、今さら恥も外聞もない。私は受け取り、水を一気に呷った。
うえぇ。気持ち悪い。もう嫌だ。帰りたい。家で温かいスープが飲みたい。お母さんが作ってくれる優しい味のスープ。飲んでお腹いっぱいになったらゆっくりとまどろみたい。そのまま朝が来るまで眠っていたい。とにかく動きたくないよぉ。
それはさておき。
「毒沼。それも精神汚染系か」
ゴルドーさんは呟きながら分析している。私ほどには瘴気の影響を受けなかったようだ。
私も深呼吸をし、息を整えて問いかける。
「ふう……これ、どうするんですか?」
「どうするって?」
「どうやってこの沼を渡るんですかって聞いてるんです。まさか飛び越えるわけにもいかないし」
沼の幅は一メートルや二メートルではきかない。幅跳びを二十回くらい繰り返してやっとたどり着ける距離だ。
目の前に明らかな障害があって、その先に目的とするものがある。なら障害を何らかの方法で取り除くか、やり過ごす必要があるだろう。無視ができれば一番いいのだけど、この場合は望めそうもない。
「ああ、そんなこと……」
けれどゴルドーさんに関して、私は考えが甘かったと言わざるを得ない。
「そんなことは関係ないだろう。行くべき場所が見えているなら、真っすぐ向かえばいい」
「うん?」
聞き捨てならない、というか、聞いてはならない言葉が聞こえてしまったような。
「だから沼を泳げばいいだろ」
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