クローゼットよりハロー、ハロー!③

 やがて少女は廊下の途中にあった扉を開けて、客室らしき部屋にニナを通してくれた。


 先ず何よりも先に目に入ってくる豪華なベッドに、一目見ただけでふかふかだと分かる大きなソファー。大きくて曇り一つ無い窓の向こうには雨模様の森が広がっていて、部屋の隅に置かれているクローゼットは、何故か


 部屋の中の家具を見る限り、一応そこは一人用の部屋だった。けれど部屋の広さも設備も、ニナが知っている“一人用の部屋”の範疇を遙かに超えてしまっている。


 こんな部屋が世の中に本当に存在するのかと、感心を通り越して軽く目眩すら感じてしまったニナだった。そんなニナを、白の少女はニナの手を引いて部屋の中央まで案内すると、その場でクルリと踵を返す。


「え?」


 戸惑うニナには一切構わず、白の少女は迷い無い足取りで部屋の出口まで歩いて行くと、その場で一旦ニナの方に向き直り、しずしずと一礼してみせる。待って、とか、何処行くの、とか色んな言葉が喉の所まで出掛かって、けれど結局詰まらせてしまってニナが何も言えないでいる内に、白の少女は再び踵を返し、そのまま扉の向こうへ消えていってしまった。


 「……うそ……」


 見知らぬ屋敷の人気ひとけの無い部屋の中、知り合いも、頼りになる存在も無く、一人きり。途端に何だか心細くなって、ニナは部屋から飛び出して、玄関広間に駆け戻りたい衝動に駆られた。……が、そんな事をしたら、白の少女は何をしてくるか分からない。怒らせてしまうかも知れない。今のところ彼女から悪意や敵意は感じないが、もし彼女が敵に回ったらと思うと怖かった。


 自分が段々と引き返せない状況に嵌まりつつあるのを自覚しつつも、一先ずニナはこの場で出来る事をしようと思った。玄関広間での会話を思い出す限り、あの少女は「着替える為の場所」としてニナにこの部屋をあてがったのだろう。つまりニナはここで着替えないといけない訳だが、濡れた服の代わりに着る服が、この部屋には無い。一応、軽く周囲を見回して探してみたが、やっぱり見つからなかった。他に考えられる可能性としては、クローゼットの中に着替えが入っている、という可能性だが……


「……開けたくないなぁ……」


 思わず呟いてしまいながら、ニナは改めてクローゼットを見る。無駄に大きく、華美な装飾で着飾っているそれは、まるで尊大で胸を張り、ニナが近付くのを待ち構えているようにも見えた。


 最後の抵抗として、ニナはもう一度辺りを見回してみる。ソファーやベッドの上に着替えがさりげなく置いてある事に期待したが、残念ながらそれらはさっきも見た所だ。見つける訳が無い。


 更に数瞬の間逡巡してから、ニナは遂に覚悟を決めた。


 一歩、また一歩。


 どうしてこんなに気が進まないのか、ニナには分からなかった。確かに見慣れない程度に大きくて豪華ではあるものの、只のクローゼットだ。やる事も、ただ扉を開けて中に着替えが無いか確認するだけだ。別に怖がる要素なんて何処にも無い筈なのに。



 ……ああ、でも、ニナは元々クローゼットがそんなに得意ではないのだ。だって、其処に入っているのは衣類だけとは限らないから。真っ暗なあの中はにとって心地良いのか、たまに変なヤツが潜んでいたりするのだ。


 例えば、そう。こんな風に。



『──ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおりゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!』



 唐突だった。


 ニナがまだ十分に近付ききっても居なかったクローゼットの扉が、内側から大きく開け放たれて、中から黒くて大きな“何か”が飛び出してくる。


 避ける暇も、ましてや逃げる暇もありはしなかった。


 そいつは突風すら感じるレベルでニナの目の前にまで突進してくると、絨毯敷の床の上ですら分かるレベルで大きく足を踏み鳴らし、急ブレーキを掛ける。更にニナの両肩を遠慮無く掴むと、ガクガクと力任せに揺さぶりながら、至近距離で怒鳴ってきた。


『こんな所で何やってんだこのクソガキャアアアアァアァッッッ!!!!!』


 人間じゃない。それは一目で分かった。


 真っ黒なフードを被って頭を隠し、同じく真っ黒な丈の長いコートを着て身体のラインを隠しているものの、そいつは一応、人間の大男に見えなくもなかった。が、ニナの肩を掴むその手は黒い手袋に覆われているにも関わらず氷のように冷たかったし、何より今、ニナが真正面から覗き込んでいるその顔だ。


 だ。フードの陰に隠れているとか、そういうレベルじゃない。人間にはお馴染みの血と肉の気配は無く、代わりに冷たい闇がフードの中に詰まっている。そして人間で言えば目と口に当たる部分には、温度を感じない青い鬼火がメラメラと燃えていて、それがの顔を形作っていた。斜めに吊り上がった半月形の両目に、大きく裂けたギザギザの口。まるでハロウィンのジャック・オー・ランタンのようだ。


「……」


『……』


 沈黙。


 沈黙。


 沈黙。


 ニナが喋らなかったのは、喋る事が出来なかったからである。心臓は早鐘のようになっていて、身体は力の抜き方を忘れたように硬直したままだ。自身の心臓の音がやたら大きく聞こえていたのは、もしかしたら呼吸すら忘れていたからかも知れない。


 対して黒衣の男の様子は、かなり奇妙なものだった。


 怒鳴った瞬間はあんなに真っ直ぐニナを見据えていたのに、今はもうマトモにニナを見ているかも怪しい。ニナの肩を掴む手の力は緩み、至近距離だった筈の顔は幾分か離れている。


『ハァ』


 そして、多分。


 ニナの聞き間違いでなければ、彼は今、溜息を吐いた。


『――……なーんつってな。どーせ聞こえてないんだろ。分かってるよ』


 どこか投げやりな、呟き声。ニナに向かってではなく、明らかに独り言で呟きながら、黒衣の男はニナの肩から手を離し、あっさりと踵を返す。クローゼットの中に戻るつもりなのだろうか。人間じゃないくせに、のそのそと気怠げに歩くその背中は、どことなく人間臭かった。具体的には、夕方から夜に掛けてよく見掛ける仕事帰りのおっさんっぽい。


『飽きたらさっさと帰れよクソガキ。父ちゃんと母ちゃん、きっと心配してるからな』


「……それは、無い」


『あるんだって。お前の父ちゃんと母ちゃんが、なら……――』


 今まさにクローゼットの扉に手を掛けようとしていた黒衣の男の動きが、ピタリと止まった。一拍か、二拍か、或いはそれ以上か。とにかく少しの間静止した後、彼は物凄い勢いでニナを振り返った。


『今、俺に言ったのか……?』


「他に誰が居るの。って言うか……――」


 声を出したのがキッカケになった。何処かに吹き飛ばされていた感情や感覚が戻って来て、ニナは自分が、段々と腹を立て始めたのを自覚した。


「迷惑なんだけど。いきなり出て来て、大声で怒鳴って、挙げ句の果てには偉そうに説教とか。何様? キモいんだけど」


『……』


 黒衣の男は答えない。ニナが喋っているのを聞いているのかいないのか、そのままフラフラと歩み寄って来る。


「ちょ、寄んないでよ」


『……』


 流石に無言で寄ってくれば、迫力はある。相手はニナより遙かに大きい大人の姿をしていたし、顔の形態といいさっきの荒っぽい行動といい、異質な部分も結構ある。


 思わず一、二歩後退ってしまったニナだったが、黒衣の男はそんなの意に介さない。ニナが退がった分なんかあっという間に埋めてしまって、彼はニナの前に立つ。


が、見えるのか』


「……見えるけど」


『声も、聞こえるのか』


「さっきから返事してるでしょ。なに、頭悪いの?」


『……』

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