一章. バンシーズ・クライ
レイニーガールの逃避行
ぽつり、冷たい雫に鼻先を叩かれたような気がした。
気の所為だと思った……と言うより、そうだと決め付けようとしたが、どうやらそんな些細な抵抗さえ、狭量なカミサマは許してくれないみたいだ。
ぽつ、ぽつりと雨が降る。ただの気の所為で済むかもしれなかった小さな水の雫はやがて数を増していき、柔らかな音を立てる小雨になった。なってしまった。全ての人間が常日頃から傘を持っている訳でもなければ、そういう環境にいると限られている訳でもないのに、どうして天気ってのはこうも空気を読まないんだろう。
「……サイアク……」
濡れるのを避けるのはもう諦めて、代わりにニナは小さく溜息を吐いた。背負っているリュックサックは安物で、防水性には期待出来ない。入っているのはニナが個人的に持っている着替えが数点だけなのだが、今回の場合においては最悪の事態だ。どっかで雨宿り出来る事になっても、その頃には着替えは全部濡れているだろう。
そもそも此処は、町外れの街道だ。周辺に避難出来そうな建物なんか無いし、それ以前に雨の所為か視界が煙って周囲の見通しが全然利かない。脇に広がっている森は鬱蒼としていて、雨は避けられそうだが暗くて不気味だ。かと言って、踵を返して町に戻るのは、それこそ有り得ない選択である。
結局ニナには、前進するという選択肢しか残されていないのだ。胸の内で燻る苛立ちをもう一度吐いた溜と一緒に吐き出して、ニナは少しだけ足早になって街道を歩く。
「……ん?」
それがニナの視界の中に現われたのは、雨が降り始めてから数分後、といった所だった。
最初は、異様に背の高い男かと思った。霧で煙った視界の中、そいつは脇に広がる森の一番外側の木、街道に面した高い枝の下で、ブラブラと所在無さげに揺れていた。ペースを落とさずに近付いていくと、直ぐにそいつは別に背が高い訳ではない事が分かった。頭は高い位置にあっても、足は地面に着いていない。強いて言うなら首は長いが、多分それは後から長くなったのだろう。
もしかしたらヤバい奴かもしれなかったが、そういう奴は基本オーラからして違う。普段だったら関わる事も無いけれど、今は状況が状況だ。道を尋ねてみようとニナは思った。
……誰が何と言おうと、彼は其所に居るのだ。ニナの妄想でも嘘でもなくて、確かに其所に居るし、嘗ては其所に居たのだろう。別に道を聞くくらい、いいじゃないか。
「ねえ」
ゆっくり、本当にゆっくりと、ニナは揺れている彼の足下にまで近寄って、恐る恐る声を掛ける。彼は返事を返してこなかったが、その目はギョロリと動いてニナを見た。会話の意志有りと勝手に決め付け、ニナはそのまま言葉を続ける。
「何してんの?」
「……ブラブラしてるのさ」
今度は、答えが返ってきた。物凄く掠れた、低く呻くような聞き取りにくい声だったが、それは正直見た目のまんまだから仕方無い。
「どうして?」
「……それしかやる事がないからさ」
「楽しい?」
「……そう見えるか?」
「全然。雨に打たれて寒そうだしね、アンタ」
ギィ、と縄の軋む音。どうやら彼は身動ぎしたらしい。ほんの少し警戒して身構えたニナだったが、やがて聞こえてきたのはくつくつと低く喉を鳴らすような音だった。どうやら男は、笑ったらしい。
「……寒いなら」
ゆらり、と男の片手が持ち上がる。軽く握った拳から人差し指だけ突き出して、彼は元々ニナが歩いていた方向を指差した。
「この道をもう少し進んだ所に……デカくて古い屋敷がある……主はちいっとばかし気難しいって話だが……まぁ、
「へぇ」
ニナは首を巡らせ、男が力無く指差した方向に視線を遣った。小雨と霧で視界が悪く、見えたのは雨と霧の灰色と、森の暗い緑だけだ。“デカくて古い屋敷”とやらは影も形も見えないが、もう少しこの道を歩けば見えてくるだろうか。
どのみち、今は他にアテが無い。見つかればそれで善し、見つからなければそれはその時考える。取り敢えずは、そんな行動方針でいいのではないだろうか。
「助かったよ。ありがと」
軽く手を上げて挨拶しながらも、ニナは既に後ろ向きに歩き出していた。幾ら話の分かる奴とは言え、彼の姿は見ていて気持ちが良いものじゃないし、何より寒い。
数歩後ろ向きに歩いた所で踵を返し、ニナは自らの旅路に戻ろうとした。鬱々とした声が背後から追い掛けて来たのは、前に向き直って二、三歩歩いた時の事だった。
「……怒ってんのかい……?」
「!」
足を止めてしまったのは失策だった。
ニナが足を止めるのを確信していたように、背後から聞こえてくる男の声は、面白がるようにくつくつと笑った。
「……お前さん……俺と……同じ匂いが……するな……世界で……自分は独りぼっちだって……そう、思ってるんだろう……?」
「……」
ギィ、と嘲笑うように縄が軋む。小雨の柔らかい音を押し退けるように、ゆっくりと、そのくせ一定の間隔で聞こえてくる縄の音は、何故かひどくニナのカンに触った。
「今に……お前さんも、俺と同じようになる……世界を、憎んで……皆を、憎んで……」
「――自分で、勝手に、一人で、死ぬ」
くく、と喉を鳴らすような嗤い声。カッと身体の奥が熱くなったような気がして、気が付くとニナは、男の方を振り返っていた。
「可哀想に……可哀想に、なぁ……どいつも、こいつも、好き勝手に叩くクセに……飽きたら途端に……知らんフリだ……お前さんが……どうなろうと、どうなろうと……知らん、フリだ……」
「五月蠅い」
その時、自分はどんな顔をしていたのか。ニナには分からなかったし、気にする余裕も無かった。ニナの反応を見て満足したのか、男はそれ以上言葉を紡ぐ事はなく、ただただ陰鬱な嗤い声を上げるだけだった。
それ以上その場に居る必要は無かったし、何よりそれ以上その場に居たくなかった。踵を返して再び男に背を向けて、ニナはその場から駆け出した。
男の陰鬱な嗤い声は、一体何時まで聞こえていただろうか。縄が揺れて軋む音は、一体何処まで追い掛けて来ただろうか。
何時までも耳と頭から離れてくれないそれらの音を振り切るように、ニナは霧煙る小雨の中、走って、走って、走って、走って――
「あ」
やがて白っぽい灰色の霧の中、黒く浮かび上がる大きな屋敷の影を見付けた。霧の中から不意に現われたようにも思えたそれは、門灯も灯っていなければ窓から光も無い。完全に真っ黒なシルエットで、人が住んでいる気配など微塵も感じられなかった。
……飽くまで、「人は」の話であるが。
「此処、か」
黒いシルエットとして浮かび上がる屋敷の前の、黒いシルエットのような背の高い鉄格子の門。試しに触れてみると、それはまるで歓迎するかのようにあっさり開いた。随分長い間、手入れされていないらしい。軽く押しただけで半ば勝手に開いたそれは、金切り声のような甲高い音を立てる。
「……」
嫌な予感がする。
正直、屋敷を目にしたその瞬間から、ニナは背中の産毛がゾワゾワと逆立つような、そんな不快な感覚を覚えていた。
でも雨に降られて寒くて、食べるものも無くてお腹が空いて、何より自分にはもう帰る場所が無いというプレッシャーは、ニナにとって初めての経験だった。
それが、判断を鈍らせた。
雨宿りするだけ。玄関で雨を避けるだけだ。雨が止めば直ぐ出て行くし、ヤバいと思えば直ぐに逃げ出せばいい。さっきの男も言っていた。「主は気難しいが、
「……」
雨足が少し強くなってきて、何処か遠くの方で雷が唸る声まで聞こえてきた。直に雨は強くなるだろう。もしかしたら、雷まで降ってくるような酷い天気になるかもしれない。
「……まぁ、大丈夫……だよね?」
自分に、言い聞かせるように呟いて。
ニナは、間違いの第一歩を踏み出したのだった。
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