第3話 モンブランの萬年筆
野坂昭如も、五木寛之も、それに、私が殊の外お気に入りのタモリも、実は、私の卒業した大学を中退しています。
私が、早稲田に入学した時のことです。
日本を代表する新聞系週刊誌の二誌が、同じように早稲田特集を組んでいて、それを買った記憶があります。
今でも、我が宅の本棚のどこかに隠れているのではないかと思いますが、その中で、かなり沢山の先輩が誇らしげに書いていた言葉を覚えているんです。
ろくに授業に出なくても卒業させてくれたって。
だから、いい大学だ、これからバラ色の大学生活が待っているんだと、そんな甘い夢を抱いて通うことになったのですが、現実は、さほどのものではありませんでした。
きっと、あの先輩たち、嘘とは言わないまでも、バンカラぶりを誇張したに違いないって、そう思っているんです。
それでも、私が選んだサッカーの体育の授業で、ジーパンを履いたまま、実技に臨んでいると、先生が、古いジャージを持ってきてくれて、これを履け、君にあげるとそんな先生もいて、おお、これこそ青春の門だとえらく感動をしたこともありました。
そうかといえば、宗教学では、二ヘロクと渾名されていた先生が、キリちゃんとキリストのことを言って、恐らくは信仰している女子学生からクレームを受けるという事件が勃発したこともありました。
文学部で一番大きい181教室で、先生が、ちゃんとは敬意を込めた言葉であると、僕にとっては、マホちゃんであり、佛(ぶっ)ちゃんであるとそのようなことを述べて、けむに巻いていたことを思い出し、実に早稲田らしいと思っていたのです。
堅苦しいことなど言いなさんなと、私なども大いに早稲田風に染まっていったのですが、中退した先輩のように、とりわけ才能があるわけでもありませんから、単位を取ることに必死というのが、実は私の早稲田での情けないありようであったのです。
そんなわけですから、就職試験では惨敗に次ぐ惨敗、ほとほと自分が嫌になったことも覚えています。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、私はなんとか教職に就くことが、早稲田の就職部のおかげで出来たのです。
こんな私でも、長年、教職についていますと、何十年後には、若い人たちの面接をするようなそんな立場にもなります。
理想に燃えて、面接試験を受けにきてくれる人たちを見ていると、そんな私の若き日のだらしない自分の姿を思い出すのです。
同時に、それらの若い人たちの立派なことにも感動をするのです。
だって、自分では到底送れそうにない学生生活をその人たちはして来ていると感じるからなのです。
その学生は、私と同じ早稲田の文学部を出て、おまけに、大学院修士まで出ています。
メガネの奥に光る瞳の輝きが印象的な青年でした。
大学生活では、何を学んできましたかって、問いますと、古文書を読むことで、実証的な姿勢を何事も持つことが必要だと、そして、根気も身につけて来たと思っていますと、その青年は答えました。
到底、私には答えられないような返答ではありました。
それだけなら、私の記憶は、きっと保つことも出来ずに、深い闇の中に埋没をするはずですが、その青年、言葉を続けて、私の学生時代は、勉強一途、「チノトレーニング」をして来ましたと言ったのです。その青年のちょっとアクセントが微妙であった分、わたしには聞き取りがむずかしくなってしまったのです。
チノトレーニング、チノ、それって何?てな具合で、私の脳は急速回転をし、それが「知の」だとわかったのは、程なくしてのことでした。
そんなことを大上段に言う奴が我が後輩にいるんだ、でも、こう言ってはなんだかが知のかけらしかまだない子供たちと、この青年、やっていけるかしらって、一抹の不安も私の胸に去来したのです。
そんな私の表情を読み取ったのか、その青年、立て続けにこう言ったのです。
私には、子供が好きだと言う特技がありますって。
その時の、なんとも必死な表情が印象的でした。
後日、聞くところによれば、何としても就職をしなくてはならない、どこもかしこも落ちて、もう、ここが最後だったと言うのです。
そこに、ニコニコした私がいて、しかも、早稲田出身と聞いて、藁をもすがる気分だったと言うのです。
ですから、私は君にとって藁ほどの存在にすぎなかったのかと嫌味を言いますと、彼、今でも恐縮するのです。
どう言うわけか、わたし達は気のあった先輩後輩で、付き合いも長くなりました。
私が学校を変えても、この後輩とは付き合いが続いているのですから、余程、ウマが合っていたのではないかと思っているのです。
この四月、辞令を受けて、彼は一校を任せられる立場になったことを、わたしは彼の手紙で知りました。
中退をして大物にはならなかったけれど、卒業して、その部門で、責任ある立場になるのですから、褒め称えなくてはなりません。
それも立派な一つの人生であるのす。
立派だと、私、一筆したため、祝いにモンブランの万年筆を贈ったのです。
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