第20話 近接戦闘
奴は無造作に歩を進めた。
爪先が殺傷圏内に入りこむ。
この間合いならば一息で殺れる。
そう思う前に身体は反射的に低く傾き地は深く踏み込まれ相手の前に。
――距離は零。
踏み込みと同時に右腕は内側に織り込まれて張り詰めた弦の如く。先端の鋭い切っ先は伸びきる直前で弾けるような速度を求める。無駄は一切ない。
後は右腕が奴の首筋に自動的に振り込まれるだけだった。
でも、奴は動かない。
先ほどの蒼い瞳が瞬きすらせずに恐ろしいほど冷徹にあたしを見下ろす。だが、口元は僅かに歪み同時に奴の両腕が瞬時に消え失せ左右から突如現れるのが読めた。
――刹那、あたしは首筋に蒼白い光が入り込む幻覚を見て、思わず後ろに跳躍する。すると首筋から数ミリを蒼白い切っ先が掠めるように幾重にも残像のように鋭利な線を引いた。
その光をスローモーションのように瞬きすら忘れて、あたしは見つめた。見つめるしかなかった。身体は死んだようにピクリとも動かず、されど意識は肉体の伝達よりも早く動き、覚醒した意識は悲鳴のように肉体に幾度も信号を送った。だが、それは光よりも早く伝達はされず、あたしは糸の切れた人形のように目の前の拷問のような永い刻を噛み締めるだけだった。
その永遠のような刹那は瞬時に戻り、覚醒した肉体はその意識の下に置かれた。
あたしは首筋を左手で何度も撫でる、その首がついているのを確認するように何度も何度も……。
躱せた。だがそれは、あたしの踏み込みが甘かっただけ。決して褒められたモノではない。むしろ躱せた事の方が僥倖だかもしれない。あと半歩深く踏み込んでいたらお仕舞いだった。
「中々だよ。もし隙だらけの首筋を狙ったらあんたの首は落ちていたのに。惜しかった。でもそれが今は嬉しい。命すべてをぶつけられる相手なんて相手はこの先たぶん存在しないだろうから」
などと、奴は嬉しそうにほざく。
「この先なんて存在しない。お前は、あたしに殺されるんだから。それにしても身体の方も温まってきた。これならお前を始末できるよ」
相手の気に押されまいと虚勢を吐く。
――にしても奴は本物の化け物だ。
奴が屋敷全体から溢れるように感じる存在の正体で無いとしたら今回は元々難しい物かも知れない。
静柰が焦ったわけだ。
――ともかく今は奴を殺すことに集中する。
本気の本気で殺す。
手加減が出来る相手ではない。
この身体能力を全開にして倒すしかない。
それが例えあたしの美学に合ってないとしても……。
苦無を手元に数本取る。
そのヒンヤリとした肌触りに身体が高揚しているのがわかる。
投擲と同時に奴の前に出てあの首筋を捕らえる。
手に握る刃に入れ込んだ力を緩める。
身体はあくまでも自然体で力みも無くし身体を支えるだけの力を腰に込める。
基本動作。
型通りの打ち込み。
左手は踏み込みと同時に身体の外から内側に振り下ろされる。
奴はそれに反応し最低限の動き、体軸を傾けるだけの無駄のない動き。
その軌道すべてを読んだ見事な動き。
だが、あたしの手にはまだ苦無が握られている。それを捌き終わる身体の到達地点に向かって放る。読み込んだ見越しの投擲だった。だが奴はそれをも躱すだろう。
だから踏み込む向きを変え奴を自分の間合いに招き寄せる。
先ほどと同ように首筋に刃を入れる。
だがそれも奴は受けるだろう。
今度は躱せない。
いや躱さない。
身体の軸が乱れているからだ。
今度も躱そうとすれば奴の首は落ちる。
だから刃で受ける。
腹に力を込める。
鮮やかに奴の手は握られた刃物で、あたしの刃を優しく包み込むように受け流す。
それは見事に殺されてしまう。
奴は一流の使い手。
一流の使い手は、特に刀を扱う者は刃を刃で受けるのを嫌う。
得物が傷を負うからだ。
それによりも得物の切れ味が落ちるのを良しとしない。受けることで形状が変化すれば本来の切れ味はでないからだ。
それでなくとも日本刀という代物は西洋の剣と違い乱打戦などにそもそも向いていない。あくまでも人体を切ることを目的に作られているため、叩き殺すことを想定していないからだ。
そういった類の鉄の塊も日本には存在しているが、それは刀とは程遠い存在である。
もっとも、あたしに取ってはそれすらも関係がなかった。
何故なら、わたしには切り札がある――この太刀が。
だが、其れこそが戦いにおいては鬼札に違いなかった。
握られた左手には苦無の切っ先、奴の左よりも少しだけ早く奴の軀に届く。
――これは躱せない。
首筋への起こりと同時の流れでは逃げ切れない。されど奴の歪んだ笑みと冷徹な瞳には微塵の動揺もない。刹那に肌と肌が触れあうほどの間しかない。それは身体の熱と熱が混じり合うような感覚に似て、右手はそのまま彼の腹を割く。しかし、オレの見開かれたその瞳は焦点が游いで定まらない。確かな手応えと紅に染まる切っ先が見えているのに,
急激な不安が身体を包み込み恐ろしく冷たい汗が静やかに背に流れ落ちた。それは先ほどの一撃が思いのほか浅かったからでも奴の反応速度が眼で追えないほどだったからでも無かった。
オレは決して人体の急所を狙ったわけではない。この身体に宿る蜚廉。この不可視の刃を奴に使った。この異形の魔技で奴の気の流れを断ち切るはずだった。
断ち切った筈だった。
それを敢えて人体の急所で受けた奴の読みと動きに気圧される。
しかもこの蜚廉を認識している。
あの藤倉一弥が見れなかったモノを。
余程、命のやりとりを積んでいるのか、それとも天才的に読み慣れた手合いなのか、それとも奴にはこの蜚廉が見えているのか?
いや其れはない。
考えすぎだ。
しかし、零ではない。
蜚廉。この魔技の前では一切の術は無価値になる。
それを目の前の男は天才的な読みで外したのだ。それも人体の急所から遠く離れた場所を避けるために敢えて人体の急所を裂かれる為に差し出した。
そんな馬鹿な。
だが考えられる可能性などない。
それは『見えている』事に他ならない。
証拠はオレの右手にあった。
先ほどまで肉体の一部にまで同調していた使い込まれた鮫肌の先の触感が、今は自重を放棄して綺麗に落とされている。
本来ならば、わたしの頸まで届くのだろうが、それは寸前で戻っていった。
なぜなら、わたしの右手が奴の首筋を狙っていたからだ。
「おい、お前。もしかして見えているのか?」
「あんたの、今のは良かった。まるで躊躇が無いのだから本当に危なかった」
そう奴は嘯いて次に続く恐ろしい言葉を紡いだ。
「しかし、自分の死が映しだされるというのは怖いものだ。あまり衛生的には良くない。まあ、代りにあんたの相棒は壊してやったからもう悪戯は出来ないよ、次はあんたの首を落とそうか」
「お前は何だ?」
「俺か、おれは那由他。御色那由他。璃世の言葉では、この世で最も悪い夢らしい」
「御色。そうか父から聞いたことがある。名の知れた退魔の一族。まだ残っていたのか……」
「ああ、俺は御色の最後の継承者。まあ、その記憶すらマガイモノだが……」
奴の声の最後の方は風に叩かれた窓にかき消されて聞こえることはなかった。
「さあ、殺し合おう。雨宮玲奈」
「ああ、殺し合おう。御色那由他」
そう懐から何本かの苦無をバラバラと落とす。それらは血のような朱い絨毯に吸い込まれるように落ち込んでカラカラと乾いた高音を響かせていた。そして開かれた懐から最後、手に馴染んだナイフを取り出すと片腕で青眼に構える。
「重いはずだ、いつもよりも、あんな数の苦無がバラバラと落ちる程では屋敷に来る前からずっと、お前に入れ込んでいたようだ。どおりで身体が堅いはずだ。こんなことじゃ赤子にすら避けられる」
肩に手をかけて首振るとポキポキと鳴らす。
もちろん、はったりに違いなかった。
武器を捨てたのは頼るからだ。
変に頼るならない方が良い。
どのみち虚実なんて無意味だ。
もう、あたしは次の一撃に賭けている。
――後の先。
奴の速度に追い付けないのなら奴の攻撃を掻い潜っての交差法しかない。
それは奴もわかっている。
故に変な小細工も出来ない。
故にまともに斬り合うしかない。
もう呼吸は奴にピタリと合わせている。
もう、あたしの身体は奴の一撃にあわせるだけの単純で精密な動きをする精巧な人形に過ぎない、奴は微笑むと、こっちに音もなく、距離感も感じさせぬまま、易々とあたしの制空圏の内に入ってきた。少しだけ早さを読み違えた。これでも先ほどの倍の早さに備えていたのに奴の早さは予想よりも更に五割りも増しだった。殺傷圏内に入ったのを意識は0.01後で認識した。だが身体は意識よりも早く自動的に反射する肉体の神経だけで型の如く動き、無意識の中で右手に宿るまるで神経の通うような銀色の無機質を左斜め下から右斜め上に振り込んでいた。
それは達人が出会い頭に身体だけが反応して無意識に技をかけてしまう状態に似て喰らった方は意識できずに無防備な身体を晒してしまう。そんな殺気の無い自然な反射的な動きなどというモノは完全な技の状態の行いであって、その状態なら例え神でも避けることが出来ないもの。これは誰の言葉だったのか。もう思い出せなかった。
意識が肉体を取り戻すと目の前の男は黒い制服だけを残してきえていた。
残された黒い上着は左右に分かれるとふわり舞うように地に落ちた。
反射的にうしろを振り返る。
奴は虚空に足元から吊された受刑者の如く逆さまに、恐ろしく鋭いあの蒼い眼で、あたしを貫いた。
一瞬、天と地が反転した錯覚に襲われて反射的に足元を見た。もちろん逆さまなのは自分ではなかった。虚空を足場に息が触れあうほどの距離で真逆の瞳に魅入られて、眼をこらせば天に伸びる足元に僅かに残る細く精巧な微光が張り切るように玲瓏と闇の中に煌いたのを瞳に入っていたのに魅入られた意識は見逃していた。
あたしは布越しに冷たく堅い何かが触れるのを感じた。触れられたところから熱い流れが生じてゆくのを知りながら、あとは意識が途絶えるのだと思った。
それが少しだけ情けなくなるような妙な気持ちになった。
そして覚悟が足りないと思いながら浮かぶのは一弥の顔だった。
こんな時でも、私の中の一弥は微笑んでいるのだった。
それは普段意識しない自分の女々しさと素直な気持ちだった。
こんな時にしか素直になれない。
それじゃ気持ちなんて伝わらない。
そんな事わかっている。
でも一弥にはもう会えない。こんなに好きなのに。もう一弥には二度と会えやしない。こんなに愛しいのに。もう二度と。
それだけが無性に悲しかった。
心が閉じるように意識も白く途絶えてしまった。
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