第12話 深い瞳
僕、藤倉一弥は静柰さんの命で町から出ていた。道は険しくバスも日に何本かという完全な田舎に目的の屋敷がある。
彼はもともと名の知れた研究者だか作家だか教授だか良くわからない知識階級の人で、この手の人種はやはり類に漏れず訳のわからない研究ばかりしている。
彼の部屋に通されると幾千冊かの小さな図書館がガラス張りに区切られていて隣接している。
元の主は几帳面な性格らしく本に虫が付くのを嫌ったようで、小さな図書室は病院でいえば無菌室のように、湿度や温度が空調で適切に管理されていた。
おまけに司書のような執事がいるのを見ると丁寧に守られているというのが正しいのかもしれない。
僕は執事と共に彼の部屋の中で最も重要な部屋に通されて在るものを見せられる筈だった。それは卵のオブジェだった。
彼は昔、ヨーロッパで流行った石の中の石というものの蒐集家であったに違いない。
石の中に自然に生まれた様々な形状、古代ヨーロッパでは絵のある石という総称で呼ばれていた。
前に読んだことがある。
たしか作者はプリニウスだったっけ。
件の依頼品は天使の卵と呼ばれているものなのだそうだ。
だが僕はそれを見ることが出来なかった。
何故なら宝箱のような厳重な包みの中身はもともと何も無かったように空っぽだったから、それは氷が溶けたように綺麗さっぱり無くなっていた。
やっぱり静柰さんの云うとおりになった。
「いいか一弥。もし目的の物が見つからなかったなら直ぐに戻ってくるんだ。今回の目的はあくまでも回収であって調査じゃない。もし無ければ無いで回収なんてしなくて良いからな。それだけは肝に銘じてくれ。まあ、玲奈とでも一緒だったら良い婚前旅行にもなるんだけどね。あそこは穴場の湯治場らしいぞ……」
と、静柰さんは調査の打ち切りと帰宅の条件を提示してくれた。
それは、ここ数日姿を現さない玲奈を引き合いに出して嫌味のひとつでも言うところからも滲み出ていた、先ほどの性質の悪い冗談も余り乗り気でない現われだろう。
玲奈の話では静柰さんは一年に一度くらいは冗談を云う日があるらしい。それが何故今日だったのか良くはわからなかった。
でも僕が思ったほど反応しないので面白くなかったのか、その話は打ち切られてしまった。それを聞きつけたのか玲奈は何処かに雲隠れしてしまっていた。
だとしたら素直に帰り支度でもするのが本当なのだろうけど、何故だか思ったよりも興味の方が強く心を占めて、指示は無いが僕は少しだけこの場所に止まり調査をしてみようと思った。
幸い、この屋敷にはひとりくらい客人が紛れ込んでも訳も無いように幾つもの部屋が口を開いて待っているのだから……。
僕は執事に少しばかりこの地に止まりたいという趣旨を告げると彼は何処かに内線を入れに出かけた。部屋に一人残されて書籍を見渡すと気になる書物を見つけた。
それは「蛇と世界の断片」という古い童話だった。
それを手に取ろうとすると執事と別の足音が近くに聞こえたので本は手にすることは出来なかった。執事は給仕を連れて現れると僕が泊まる客室をあてがった。
給仕に案内されて屋敷の中を巡ると改めてこの洋館の広さが実感できる、事前に調べた資料によれば屋敷は三階建ての部屋数三十五部屋、敷地面積。六ヘクタールほど。
私有地の敷地面積なら八十ヘクタールはあるらしい。
広いわけだ。
建物に囲まれた小さな中庭も見える。
土地は小高い丘の上にあって小山がそのまま私有地だから、もちろん下からの道路も私有道ってわけか。
なら調べた資料もまったく無駄じゃないな。
裏には千獄谷もある。
あれは伝承によれば千年前の地層らしい。
実際に伝承より百年ほど足りないらしいのだが。
僕は取り留めのない考えを巡らすと時間が虚しく過ぎていった。
現在の主人と夜の食事を取る頃にはすっかりと帳が落ちて深い夜が辺りを包み込んでしまった。
この辺りは驚くほど闇が深い。
キャンドルに薄っすらとうつる此処の主人は黒いドレスを身に纏い漆黒のように深い髪を肩口までおろして僕を静かに見つめている。
彼女は少女でありながら古から脈々と続く血統の特徴である厳かで近付き難い処女性と神秘さをその美しき風貌と共に身体の内外に持ち合わせていた
「すみません。父の為にこのような山奥まで、今日はさぞお疲れでしょう。お食事を取られたら直ぐにお休みください。給仕には仕度をさせてありますから……」
彼女の声は静かに透き通り、まるで深い森の中にある聖なる泉のように純潔で、穢れというものを知らない可憐な少女を思わせた。
「いえ。これも仕事ですから。それに僕は山の中っていうのも結構好きですから……」
などと僕は目線を少しずつ外しながら取り留めの無い言葉を使う。もっと気の利いた言葉でも云えば知的にも見えるのだろうが。
いや、そんなに器用じゃ無い、もっとも彼女の深く美しい瞳を真正面に見据えて的確に話を返す事は至難の業であるといえた。
どうも彼女の瞳を見ながら話をすると妙な気恥ずかしさが内から込み上げてきて、不思議だけど全てを見透かされるような深い黒い瞳には何者も偽る事ができないように思えた。
何時からこんな風になったのかわからない。
もっとも彼女を瞳に入れたときから既に魅了されていたのだろうけど。
美味しそうな食事を一口も口に出来ないまま、香りだけは堪能して僕は深い眠りに落ちた。やっぱり静柰さんの忠告を聞いていればよかった。
ごめん。玲奈。
君を厄介事に巻き込んでしまった。
すまない。彩加。
素直に帰っていれば久々に、お前の手料理を食べられたのに……。
ああ、僕は馬鹿だな。
ああ、本当に馬鹿者だ一弥は!
――やっぱり玲奈に怒られた。
最後に鋭く睨む彼女の姿が目の前に鮮明に見えて、後は意識と共にその輪郭は薄れていった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます