10章 黄昏の岐路に影が延び

34話 暗い、雨の日/亜種―UnKnown―



 ………暗い、雨の日だ。



 *



 その日の扇奈は、どこかおかしかった。

 心ここにあらず、そんな風情で、ひたすら迷いの中にいる――。


 暗い、雨の日だ。

 降りしきる冷たい雨が地面の雪を溶かし固めていく中、彼方の竜の小集団をその目に捉えておきながらも、扇奈はまだ、何も見ていないかの様に、遠く思慮に沈んでいた。


「……姐さん?」

「あ?……ああ、」


 部下に呼ばれようとも、扇奈は気のない呟きを漏らすばかり。

 そんな扇奈の横を、黒い鎧は歩んでいく。その背に、扇奈は声を投げる。


「鋼也。……いや。後、だな。後で………」


 余りにもらしくなく、煮え切らない様子の扇奈に、鋼也は足を止めたが、扇奈は追求を逃れる様に、その視線を無理やり竜に向けた。


「……あれ、倒したら驕ってやるよ。それだけだ。行くぞ、」


 らしくない様子で、その日は珍しく鋼也よりも先に、扇奈は竜の小集団へと歩んでいった。

 思考を放棄しようとして、だが捨てきれない、そんな風情のままに。



 *



 藤宮桜が生きている。

 扇奈は、そう知らされた。

 その情報を駿河鋼也に伝えるかどうか、その判断まで含めて、直属の上司将羅から委ねられた。


 鋼也にそれを教えない、と言う選択肢はないはずだ。扇奈は自身で、そう思っている。

 喜ばしい情報である事は明白で、それを伝えれば鋼也が喜ぶ……いや、喜ぶという言葉では言い表せないほどの、それこそ幸福を得ることは明白だ。

 だからこそ、伝えない選択肢は無いはずである。


 だが、それを告げようとするたびに、扇奈の口は重くなる。口を重くする自身に、気分までも落ち込んでいく。その重さが、体の動きにまで、思考の動きにまで現れ始める……。



 *



 派手な背中が精彩を欠いている。

 それは、戦場でも変わらなかった。

 反応が遅い。対処が遅い。立ち回りに常に迷いがある。


 それでも傷無くその戦場をくぐりぬける事ができたのは、紛れもなく部下の力が大きいだろう。

 

 雨が竜の血を勝手に洗い流していく………。

 そんな中佇む、まだ心ここにあらずな様子の扇奈に、鋼也は問いを投げた。


「………どうした?」

「あ?」

「らしくないぞ」

「………知ってるよ。言われないでも」


 冷淡な、どこか嘲るような雰囲気の混じった声で、扇奈はそう呟き、それから視線を鋼也に向け、何かを言いかけ………けれど何も言わず、迷うように目を伏せる。


 鋼也には、何が起こっているかわからない。扇奈が何を知って、何に悩んでいるか、理解しようがない。


 理解出来ないままに、鋼也もまた口を開きかけ――けれど声を掛け切る前に、扇奈の部下が、ある報せを投げてきた。


「姐さん!」



 *



 別働隊。

 他の場所で戦っていた部隊が、苦戦しているらしい………それが、報せの内容で、それを聞いた鋼也は、単身先にその地点への救援へ向かうことにした。


 集団で赴くよりも鋼也個人の方が足が速い。それだけが単独行動の理由だ。

 扇奈はついて来ようとしていたが、精彩を欠いた様子では、部下のサポートから外すのは危険、と、なだめて後から来るように告げた。

 鋼也だけでなく部下からもそうなだめられ、扇奈はしぶしぶ、後から追いかけることを選択した。


 扇奈の思考、選択、意欲、全てに霞が掛かっていた。

 いや、この暗い雨の中、自分すらも見失っていたのは、何も扇奈だけではなかったのだろう。


 ………そう、その日は何もかも、どこかがのだ。

 その、暗い雨の日は、あるべき緊張感が戦場全体から消えうせていた。


 連戦の結果、である。

 毎日、どこかに、楽に倒せる程度の敵が配置され、それを機械的に排除する事が日常になりすぎていた。


 竜への警戒。それが、知らず全員の中で薄れていたのだ。

 だから、戦場の中で悩んでいられた。

 だから、隻眼の死にたがりに、単独行動が許された。


 扇奈は、事実を鋼也に伝えた場合の後悔、伝えなかった場合の後悔………そんな未来の後悔ばかりを考え、だから、この瞬間、別の事柄に悩んだまま看過したこの瞬間の選択を後悔する事になるとは思っていなかった。


 鋼也は、そもそも何も知りようがない。

 自身の幸福が、今目の前に無いだけで、確かにまだ続いていると言う事も。

 そしてこの雨の先に、確かな脅威があるという、その事すらも―――。



 *



 ……暗い、暗い、雨の中。


 駿河鋼也の目の前に広がっていたのは、だった。

 雨の中、雨に濡れた、黒い鎧、“夜汰鴉”、駿河鋼也の隻眼に映るそれに、鋼也は眉をひそめる。


 血の沼に雨が落ちている。そこら中に、死体が転がっている。

 それら全てが、……オニの亡骸。あるべき竜の死体が一つたりとも転がっていない。


 一部隊丸々、為す術も無く殲滅された。それ以外の解釈がない、それこそ、鋼也が片目を失ったあの日に、鋼也が竜へとやったように………。


 同じことをやり返してきた奴がいた。

 同じことが出来るだけの、ただ一匹の竜が、その惨劇の中心に立っていた。


 ……黒い竜。

 単眼を半透明の皮殻で覆い、四肢は地を猛獣の様に踏みしめ、背中から生えた腕のようなモノには、片方には刃。片方には杭。

 そんな黒い竜が、静かな惨劇の跡地に佇み、黒い鎧スルガコウヤを眺めている。


 どこか、嗤っているような貌で………。


「……こいつは、」


 先日、見た影だ。そう、鋼也は思い出した。

 幻覚か、見間違いか、そんな風にまで思った、鋼也の装備と似すぎている竜。

 実在したらしい。どころか、部隊一つを、一匹で………?


 無意識に欠けおちた危機感。それは、意識的に戻せるものでも無い。

 鋼也はこの時点で、撤退する選択肢を取るべきだった。サポートなしで未知の敵と戦闘するのは愚策だ。まして隻眼。

 負けるとしても、単身で負ければ脅威の情報が後続の味方に伝わらない。

 この雨の中、誰もかもが錆びていた。あるいは、目の前の事実から、目を背け続けていたのか。


 ――ただし。錆びていようといまいと、あるいは鋼也の行動は変わらなかったのかもしれない。


 鋼也は野太刀を引き抜いた。雨の中に、長大な刀が刃鳴りを軋ませる………。


 死地を願う……までは行かない。ただ、死を前にして引くほどに命を惜しいと思えない。

 危機感も。

 激情も。

 目も。

 失って尚戦場に立つのは、他に何も知らないからだ。

 他の生き方を。他の道を、物心ついて以降、提示された事がない。

 駿河鋼也にとっては、鼻から、日常は戦場だったのだ。だから、味方を殺した敵を前に、背を向けるという発想自体が浮かばない……。


 空虚な鎧スルガコウヤを、黒い竜が嗤った……そんな風に鋼也には見えた。


 その竜は動き始める。雨霞の中を、飛沫を飛ばす……事も無く。

 他のザコの様に、よだれを撒き散らしてただ、殺到してくるのでもなく。


 ゆっくりと、黒い竜は歩き出す。近付いてすら来ない。距離は一定に、鋼也を中心に円を描くかの様に、狩人を思わせる慎重で鋭敏な足取りで、鋼也の左側死角へと回り込もうとし続ける。


「………わかってやってるのか……」


 ゆっくりと死角へと消えようとしてくる黒い竜………その行動に、身体ごと向きを変えて右目の視野に黒い竜を捉え続けながら、鋼也は呟いた。


 判断仕切れなかったのだ。左手側に回ってくるのは、この黒い竜の習性なのか、それとも動いているのか。

 鋼也の戦闘を観察していたのなら、弱点とわかって死角を突こうとしている可能性もある………。


 その黒い竜は、余りにも、鋼也の知っている竜と違いすぎたのだ。行動も、武装も。


 隻眼でも鋼也が騙し騙し戦えたのは、竜を良く知っていたからだ。

 群れに突っ込んでも自殺をしても無事だったのは、やはり竜をよく知っていたから。

 革命軍3機を相手取って上回れたのも、戦術的な意味では、“ヒト”と“夜汰鴉”のことを知っていたから。


 だが、黒い竜コレは余りにも……行動を予測できない。

 抜き身の野太刀を握ったままに、鋼也は動けなかった。


 銃があったら撃っていただろう。左手が見えていれば、玩具バンカーランチャーを使っていた。

 だが、隻眼の鋼也には、それが出来ない。


 対して、黒い竜の方―――鋼也の装備を真似コピーしたらしいそれは、使えない武器を装備していたわけではなかったらしい。


 不意に――黒い竜が跳ねる。それまでのゆっくりした足取りとは違って、俊敏な足取りで速く深く、鋼也の死角左手へと回り込む。

 一瞬、視野から消えた黒い竜―――即座に、身体ごと目で追った鋼也の視界に、自身へと飛来する“杭”が映った。


「ッ………」


 鋼也の反射はおぼつかなかった。

 遠距離攻撃。竜からそれを受けた経験がない。隻眼のせいで、跳んでくる物体に対して距離感が掴み切れない。


 たどたどしく跳ねる―――狙いが雑だったのか、それだけで鋼也はその杭をかわす事ができた。

 同時に、思考が鋼也の脳裏を過ぎる。

 杭。おそらく、黒い竜のにあった、杭のような棘だ。あれを、飛ばせるのか?明らかに鋼也の装備をコピーしている。遠距離攻撃と駆け引きを覚えた?それだけで、一匹で部隊を―――。

 ……あの、黒い竜は何処ドコだ?


 鋼也の視界に、黒い竜の姿がない。杭を放ち、鋼也にそちらへの対処をさせている間に、また更に、鋼也の死角へと動いたらしい―――。


 レーダーを見る。竜を示す点が、左側にある。

 先程よりも、黒い竜は鋼也へと距離を詰めているらしい。

 だが、まだ、肉薄されてはいない安全圏だ―――。


 頭では理解している。遠距離攻撃があると。安全圏とは言えない、と。

 だが、習性、積み上げすぎた経験則が、隻眼をカバーするほどには、この竜相手には通用しない。

 気付いてから動く、では遅い。

 身体を竜へ向ける―――飛来する杭は、目前に迫っていた。

 再装填リロードが出来るのか、あるいは生えてきでもするのか。そんな事を分析する余裕もなければ、出来たところで現実は変わらない杭は迫っている――。


「……クソ、」


 ぎりぎりで回避する。肩の装甲を“杭”がかすめ、引っかくよりも僅かに深い傷が、降りしきる雨に血を混ぜて彼方へ――。


 その間に、黒い竜は肉薄してきていた。狩人の様に鋭く素早く、ご丁寧に一々左側死角から―――。


 光点レーダーで距離を測り、尾も爪も牙も届かない位置、安全圏と判断する身体よりも、あるいは未知への怯えが勝ったのか。

 鋼也は飛び退く。同時に、どこか無様に、黒い竜がいるのだろう方向へと、身体を向けながら闇雲に野太刀を振るう。


 火花が散り、音が聞こえ、弾きあった刃が雨の中流れていく――。

 鋼也の右腕、野太刀、それは手放さないまでも跳ね上がり、黒い竜のもまた、弾かれ流れていく。


 ただし、飛び退く途中で体勢が不安定だった鋼也と違い、黒い竜は四肢を踏みしめており、隻眼で左の武装を使えない鋼也とは違い―――黒い竜の杭は、まっすぐと、飛び退く鋼也を狙っている。


 杭が、放たれる。

 鋼也には、かわしようの無いタイミングだ。


「ぐ………」


 ………痛みに鋼也は顔を顰めた。

 腹部、胴体。……深々と、杭が突き立てられ、身を裂く恐怖が鋼也の身体を走り抜ける――。


 ――黒い竜が嗤っている。

 スルガコウヤのコピーが、勝ったとでも思ったのか、……あるいは、殺してやると喜んでいるのか、どこか自分に嘲笑われているかのような気分――。


 痛みの最中にありながら、鋼也は見ていた。黒い竜の杭、それが、その様を。

 再装填リロードはするらしい。

 そんな事実を観察する。

 この距離で即死する場所頭か心臓を狙い切れていない。

 そんな事実を観察する。

 再装填のタイミングが隙だと、そう理解するまで、この黒い竜はを理解していない。

 そんな事実を観察する―――。


 いつも、死地に身を置いてきた。

 助けられて生き延びた事もある。だが、自力で生き延びても来た。

 痛みには慣れている。死の恐怖にも、慣れている。

 ………この程度でオレスルガコウヤが死なないことは、オレが一番良く知っている――。


 瞬間、スルガコウヤの脳裏で何かが沸き立った。殺意、激情………それに近い狂気と暴力性。

 いつも通りの、スルガコウヤの身体に、精神に染み付いた、

 ただでは死なない。死ぬくらいなら殺す。見えている脅威には――。


「…………アアアアアアアアアアアッ!」


 ケモノの咆哮が雨を揺らした―――。

 鋼鉄の鎧スルガコウヤは、腹部に杭が突き刺さったままに、目の前の脅威へと飛び込んでいく。

 再装填の隙。勝ったと、そう考えただろう黒い竜の隙へと、殺意以外の何も宿らせず。


 激情に近いようなに踊らされながら、けれどあくまで、行動と分析は冷静に――。


 黒い竜は嗤ったような顔のままに、迫る黒い鎧へと、左腕を向ける。射出機構筋肉が身震いする。……けれど、何も起こらない。

 放てるほどに、それは再構築リロードされきっていなかったのだ。


 ………その一瞬が、スルガコウヤが見抜いた隙が、黒い竜の命運を分けたのだろう。

 間合い。

 鋼也の野太刀が竜に届く距離。

 そこまで鋼也が踏み込むことを、黒い竜は許していた―――。


 黒い竜の右腕―――その刃が奔る。横薙ぎか、袈裟か、自身の死角側で

起こっているそれ雨粒を裂く刃を、駿河鋼也はその目にする事は出来ない。ただ、だから対処が出来ないという話ではない。


 鋼也の左手には玩具バンカーランチャーがある。飛び道具としては使えない、……鋼鉄の杭の束。

 それは、盾として、即死しない位置をカバーするには十分な装備だった。


 あてずっぽうに左手を上げ、鋼鉄の杭の束で、首や胴を守りながら、同時に鋼也は右足を踏み込む。右手の太刀を、黒い竜の首へと振るう―――。


 雨音に、別の音が混じった。

 軋むような、金属音が。

 肉を切り裂く音が。

 雨に混じる。

 噴水のような、首の無い竜から吹き出る赤が。


 黒い竜―――その首は嗤った貌のまま泥の中へと転がり、その全ての動きを止める。

 鋼也の目の前で、趣味の悪いオブジェが横へと崩れていく―――黒い鎧の左手の玩具に、半端に食い込んだその刃もまた、抜け、泥の中に落ちる―――。


 また、雨の音だけがその場に響き出した………。


 鋼也は、今倒した黒い竜の死骸を眺め、それから、自身の体に刺さった杭を見ようとして、胴の左側だったために、首を捻らなければ見えない事に笑った。


 足が動いた以上、脊髄は無事だろう。……それすらもオニの異能でどうにかしている無理やりFPAを動かしている可能性もあるが。


 内臓は、わからない。この状況では、判別のしようがない。

 即死しない場所ではあった。それは間違いない。

 だが、死なない場所なのかどうかはわからない。

 

 左目が機能していれば……傷を負うことは無かったかもしれない。一々死角を疲れなければ、少なくとも致命傷になりえる傷は避けられたはずだ。言っても仕方のない事ではあるが。


 倒したは倒したが………薄れ始めた意識の中で、相打ちかも知れないと、鋼也は笑った。


 それはそれで良い、と。

 駿河鋼也は意識を失った。

 ………自身の幸福が、未だ今生にあると知らないままに。


 数分後に、その光景を前にして、知らせていないと後悔する女がいる事もまた、知らずに。


 *



 …………暗い、雨の日の出来事だ。


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