始めは全体の半ばである


 その提案は、俺にとって願ってもないものであると同時に、かつてない驚きを与えるものだった。


「ロイドの言う例の場所だが、何度か下見をしてな。今度オレが調査することになった。それで頼みがあるんだが、お前も一緒に来てくれないか?」


 書類の整理を手伝う俺に、ケルティスは仕事の片手間にそう言った。正直なに言ってんだこいつというのが最初に浮かんだ感想だ。


「ケルティス……忘れてるかもしれないけど、俺は正雇用のセキュリティーホール職員じゃない。ほぼ日雇いと同義のアルバイターだ」


「忘れてねえよ。いやな、お前なぜかアンドロイドが普及する前の知識があるだろ? だったら、パソコンも使えるんじゃないか?」


「まあ、簡単なプログラミングくらいまでなら。…………もしかして?」


「ああ、ロイドが言うには、あそこの地下にはパソコンが置いてあるらしい。もちろんそんな科学技術の塊、今の時代には存在してない、博物館に壊れたものが展示してあるだけだ。それがなぜか稼働していた。何かあるに違いない。だが肝心の使い方が分からねえんだ」


「だから俺にこの知識を利用してパソコンいじれってこと」


「その通りだ。もしかしたら、アンドロイドについて何かしら情報が手に入るかもしれない。他に目ぼしいものがなかったらしいからな。パソコンの中に何かあるはずだ。お前の身はオレが必ず守る。だから頼むよ」


 両手を合わせ懇願するケルティスに、俺は頷いた。恩人にそうやって頼まれれば断れるわけがない。この無駄な記憶を役立たせられるのも嬉しいことだ。


 それに、アンドロイドについて、そして奴等が関わっているかもしれない『バグ』について、情報を得るチャンスだ。恐怖を押してでも、行かないわけにはいかなかった。






 決行は夜も深まった時間だった。夜というより、明け方を待つ方が早い。もちろん人の姿は他になく、新聞売りですらまだ働きに出ていない。


 しっとりとした霧にけむる工場地帯に、俺とケルティスはいた。数日間の見張りの結果、この時間帯が最も警備が手薄だと分かっている。それでも念のためだろう。闇夜に紛れるようコートの下には真っ黒い作業着のようなものを着せられた。


「オレの後について来い。絶対に遅れるなよ」


 念押しするケルティスに俺は首肯を返した。緊張で手の平が汗ばむのを感じる。頭の中まで心臓の動悸が響いてくるようだ。必死に深呼吸を繰り返していると、ケルティスが前触れなしに動き出した。つんのめりながら後に続く。頼むから一声かけてから行動してほしい。


 テムズ川を臨む、かつて発電所があったという一画。今は倉庫が立ち並ぶそのうちの一棟こそが、ロイドさんから聞いた建物だった。


 ケルティスがどこから入手したのか、あっさりと鍵を開ける。カチャンと響く金属音。背筋が一息に冷たくなるが、反応はない。扉をくぐり真っ暗な廊下へ進んだ。


 ケルティスは中の構造を暗記しているようだ。迷うことなく歩を進め、どんどん階段を下りていく。


 地下二階の一番奥から二番目の一室が、ケルティスの目指した場所だったらしい。人気のない室内に俺を押し込み、当人は周囲の探索に出た。同じ階に人が誰も居ないことを確かめて帰ってくる。


「よし、あとは頼んだぞ。オレはよく分からんから見張りに徹する」


 と匙を投げられる。俺は振り返り、会社のロッカールームくらいの広さがある室内を見渡した。なるほど、部屋には三台、ディスプレイがあった。本体の電源は入れっぱなしで、待機状態で保持されている。俺の知るパソコンと大差ない。だからこそ、今の時代にこんなものがあること自体に違和感があった。


 俺はパソコンの一つに近づいた。液晶モニターの電源を入れる。チキチキと起動音が鳴り、光が灯る。表示されるOSは知っているものだ。勝手は違うがなんとか使えるだろう。


 驚くことに、ロックはかけられていなかった。起動と同時に警報が鳴るようなプログラムも走っていないようだ。すぐにデスクトップが映る。真っ青な画面に見慣れたアイコンが並んでいた。


 不用心と思いつつも、そもそもパソコンを操れる人間がこの時代にほとんどいないことを思い出す。俺がマウスを動かしていくつかのファイルを開くのを、ケルティスが物珍しそうにちらちら見てきてやり辛い。


 やはり目立ったプログラムは仕込まれていない。開いた文書は、そのほとんどが予算や入荷物の報告書だった。会社でよく見たものと変わりない。


 その一つ一つをケルティスに見せる。ケルティスとしては重要な情報であるらしく、ところどころをメモしていた。


 ほとんどのデータを確認してケルティスがまた見張りに戻ってから、俺は気になっていたファイルを開いた。俺が三つあるパソコンからこの一台を選んだのは、ここだけUSBが一つ差しっぱなしになっていたからだ。俺は満を持してUSBの中を開く。中には、PDFファイルが一つ保存されていた。


 タイトルの無いその文書をクリックする。そして表示されたのは、一本の論文だった。


 数十ページに渡る論文だ。英語で書かれたそれに俺は見覚えがある気がして、適当にスクロールする手を止めた。


 文字列に目を走らせる。やはり俺はこの論文を知っている。どこかで読んだことがある。


 ロボット工学系の専門論文らしい。俺はそのタイトルに見知った単語を見つけた。


「人工実存じつぞん…………」


 それが決定打だった。

 これは間違いない、だ。


 人工実存とは、とあるSF作家の提言した存在のことをいう。人工知能のさらに先、人間と同等の感情活動を行うAIと考えると受け入れやすい。しかし実際に人工実存が目指した概念はさらに遠い。


 機械的に産みだされた。人間の心を機械で作りだしたものだ。


 過去の時間に生きた俺の記憶。その中で母親として記録されている存在は、この人工実存を本気で作ろうとしていた。この論文はその報告レポートのようなものだ。俺は母さんの書いた論文には全て目を通している。これはその内の一つ――――いや、違う。


 読み進めるとすぐ分かる。俺の知らない領域まで、研究が進んでいた。


 冒頭こそ以前見た論文と同じだ。だが、まだ続いている。なぜなら、論文の中ほどで、あれほど熱心に論述されていたAIによる人工実存の存在が否定されていたから。続くのは人工実存を別のアプローチから再現するための方法論。つまりこれは、俺が知るより未来に書かれた論文だ。


 ありえないことじゃない。そもそも今、この時こそが、俺の記憶より百八十年は未来の時代なのだから。


 問題なのは、母さんの論文がなぜここにあるのかということだ。ケルティスに意見を聞こうと振り向きかけて、その動きを止めた。とある可能性に思い至ったのだ。


 そうだ、俺は前提を見失っていた。母さんは、俺に植え付けられた偽の記憶にある不実在の存在じゃなかったのか。

 俺が母と記憶する人物。それは、実在した人間だったということか?


 ケルティスを始めとしたセキュリティーホールの認識も、モナドノック先生の見識も、『バグ』に宿った過去の記憶は偽物で、意識の混濁によるものだと意見は統一されていた。


 だがそれが間違いだったら。

『バグ』の記憶が全て本物だったら。


 その記憶はいったいどこからやって来た。『バグ』の肉体はあくまで当代に生きる現代人のもの。過去からタイムスリップしてきたわけじゃないのに。


 記憶だけが時間を飛び越えてここにある。そして記憶のままに、記憶の人格に沿って、俺たち『バグ』は生きているのだ。だったら、この身体にもとからあったはずの意識はどこへ消えた……?


 身体が恐怖に冷えるのと同時に、皮膚の下を這いまわるような一筋の嫌悪感が俺を襲う。それは四肢から始まり、胴体を弄び、心臓の周りを廻る。まるで血管が多足虫になって這っているようだ。自分という存在が気持ち悪くて、全身を掻きむしりたくてたまらない。


 頭の裏側でそんな衝動を必死に抑えながら、半ば放心状態でむさぼるように論文を読み進めた。


 そこに書かれた理論は、アンドロイドに搭載されているAI理論の原型とも言うべきものだった。この論文があったから、現行のアンドロイドは完成した。それが分かる。なるほど革新的だ。科学技術の、一つの到達点だろう。


 しかし内容そのものは目を疑うようなものだった。おぞましいほどに非人道的、論理観の欠如。ページを送る指を切り落としたくなるような文章が書き連ねられていた。


 あと数ページで論文が終わる。その時だった。背後から急に声をかえられ、俺は悲鳴を飲み込んだ。


「人が来るっ」


 舌打ちを堪えるようなケルティスの言葉に、俺の意識は現実に引き戻された。知らぬうちに息を止めていたらしい。肺が酸素を求めて喘いでいた。俺は頭が働かないままウインドウを閉じ、ディスプレイの電源を切ってUSBメモリを引っこ抜いた。


 直後ケルティスに頭を掴まれ地面に倒れ伏す。ドアの下にできた隙間からランプの光が入ってくる。頭上にはめられた不透明な凸凹ガラスを二つの人影が通り過ぎる。足音はだんだん遠ざかり、どうやら一番奥の部屋に入ったようだ。鍵をかける音が響く。


「…………ここを出るぞ。足音に気をつけろ」


 ケルティスの指示に無言でカクカクと頷く。口を覆って声が洩れるのを堪えながら彼の後を必死に追った。一歩一歩が慎重になる。しかしケルティスは送る歩調を緩めない。俺は吐きそうになりながら彼の背中に喰らいついた。


 コートのポケットには、持ってきてはいけないはずのUSBメモリを忍ばせながら。




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