汝自らを知れ


 近づくにつれ高まる予感の通り、そこは見覚えの無い場所だった。


 ロイドさんの住む準貧困街スラムから少し離れた住宅街。主に労働者の居住区となっている場所が、かつて俺が住居を構えていた場所だったという。


 働きに出る者が多いためか、昼間でも人間一人一人に活気があった。筋肉質の男が煤けた顔を満面の笑みに染め、奥さんと窓越しに雑談をしている。昼休憩に家へ寄ったらしかった。


 他の者も似たり寄ったりの様相だった。顔は様々な類の笑みで飾られ、うつむく者がない。どんよりと雲と蒸気に曇った空とは対照的に通りは明るさに満ちている。


 その様は、どうにも俺には馴染まない。


 ケルティスに案内された部屋も、俺にとってはただ整頓された殺風景な光景にしか感じなかった。


物がほとんどなく、棚には薄く埃が積もり始めている。まるで死出の旅の前に身辺整理をしたかのような有様だった。主人の帰りを待つ部屋とはとうてい思えない、すでに見捨てられた場所だった。


 やけに涙もろい大家さんに「どこに行っていたのか」と心配されつつ屋外へ出る。大家さんの言うには、俺は二か月、行方不明になっていたらしい。


「ウィルバー・ギャレット。それがお前の名前だ」


 ケルティスが告げる音に馴染みはなく、字面に親しみはない。親はすでに亡く、たった一人でこの街に住んでいたという俺。けれど街並みに郷愁がよぎることはない。むしろ、自分の中にない記憶を無理に思い出そうとするたび虚無感が胸に満ちる。


 しかし道行く人々は俺の顔を見て声をかけてくる。どこに行っていたんだウィルバー、と。


 愛想笑いでそれに応えて曖昧な返事でやり過ごす。誰も彼も知らないやつらだ。状況が、監理局が、人々が、俺をウィルバー・ギャレットと断定するのに、俺だけが違和感に狂わされる。


 ケルティスに先に帰ってもらい、俺は一人、テムズ川を臨む公園に腰を下ろしていた。木製のベンチが俺の体重で軋む。幅の広い川を、大きな船が灰色の煙を上げながらすれ違っていった。


 その光景をぼんやり見ながら、脱力してため息をつく。


 俺は、自分の正体さえ分かれば全て解決するものだと思っていた。俺はこの時代を生きる人間だ。過去から来た人間じゃない。ただ記憶が混濁しているだけ。きっかけがあれば自分のことを思い出して、この曖昧な過去の記憶を偽物と言うことができる。


「そう、思っていたのにな……。俺はウィルバー・ギャレットじゃないのか?」


 自分が今いる世界に、俺だけが馴染み切れていない疎外感。消えると願っていたこの感覚は、未だ俺の中に漂っている。


 名を知り、住処を見聞し、かつての同胞たちと言葉を交わすともう、自分は何者なのか、余計に分からなくなってしまった。


『――ウガルがおかしくなったのは、きっとアンドロイドのせいです』


 ロイドさんはそう言っていた。俺と同じ『バグ』の労働者、ウガルは以前と性格も口調も全く別人になっていたと。それはきっと、俺にも当てはまる。


 ウィルバーとしての俺を知る人々。適当に誤魔化して立ち去ったが、あれ以上喋っていたらボロが出ていたかもしれない。そうしたら、俺の行き着く先はウガルと同じ……。


「アンドロイドは俺に――いや、ウィルバー・ギャレットに何をした」


 唇を噛み、そう呟いた時だった。横合いから俺に向かって呼びかける人がいたのは。


「あっ、シンルーさんだ」


 聞き慣れた呼び名に、俺は声のしたほうを見る。そこには赤毛の女性がニコニコと笑って俺へと手を振っていた。


「アウラさん……? どうしてここに」


 駆け寄ってくる彼女に俺は、自分の胸が軽くなるのを感じた。ここ一時間ほど俺をウィルバーと認識して話しかけて来る人が多かったせいだ。俺をシンルーと呼んでくれる誰かの存在が、今の俺にはありがたいんだろう。


 アウラさんは俺の横に腰を下ろしながら質問に答えてくれる。


「いえ、今朝監理局から通知が来てたので、もしかしたら~と思いまして。ちょっと寄ってみたらやっぱり居ましたね。兄さんは先に帰ったんですか?」


「うん。それよりその腕章、事務員は付けなくていいんじゃなかったっけ?」


 アウラさんの左腕にセキュリティーホールの腕章が付いているのに気づいて、俺はそう尋ねた。


この腕章はセキュリティーホールの人間である証らしい。身分証であると同時に、アンドロイドに対し我々はここにいると報せ、彼等の標的としてアンドロイドをおびき寄せる意味もあるという。だから戦闘行為ができない事務員は付けなくてもいいのだと、彼女が自分で言っていたのに。


「えっ? あっ、あははっ、そうですね! はい! さっきまで所長といたので、身分証代わりに着けてたんですよ。外すの忘れてました」


 アウラさんはやけに焦った様子で腕章を仕舞い込んだ。そのまま立ち上がって誤魔化すように俺へ手を伸ばす。


「じゃあ暗くなる前に帰りましょうか」

「えっと……。俺、帰っていいの?」


 彼女の言葉についそう聞き返してしまう。俺がセキュリティーホールの事務所の上に居候させてもらっていたのは、自分の素性が分からなかったからだ。自宅も判明しある程度のお金も回収できた今、居候を続ける意味はないように思えた。


 だがアウラさんは俺の疑問に不思議そうな顔をしたあと、なぜか頬を膨らませた。


「むっ、まさか兄さんまた説明しなかったんですか? 先日『バグ』の一人が自殺してから、『バグ』の方は保護対象になってるんですよ。少なくとも国連関係者の目の届く所に置かなくちゃいけません。むしろ前住んでた所に戻りたいって言っても、帰してあげられませんよ。シンルーさんはもとから事務所うちで預かってますから、住処はそのままうちです」


「そ、そっか」


 戸惑いつつも俺はそっと胸を撫で下ろした。実のところどうすればいいのか分からなかったのだ。俺をウィルバーと呼ぶ人々の居るあの場所には戻りたくなかったから。


 アウラさんに促されるまま立ち上がり、事務所へ戻るために歩き出した。


 隣のアウラさんが控えめに、けれど好奇心を抑えきれないというように俺の顔を覗き込む。


「それで、どうでした? 何か思い出しました?」

「うぅん。それが……あっ――――」


 視界の向こうで、女性が前のめりにつまづいた。女性は通りかかった男性に支えられて無事だったが、彼女の抱えていたバッグから大量のオレンジが飛び出し、坂を猛スピードで下って来る。坂を上っていった他の通行人が足で止めたり拾ったりするが、いくつかはその手をすり抜けた。俺は、自分の横を転がっていったオレンジを反射的に追いかけた。


「ちょっ、シンルーさん!?」


 背中にアウラさんの声を聴きながら走る。せっかく上った坂道を下りきって、ガス灯にぶつかった最後のオレンジを拾い上げた。細かな傷は入っているが、実そのものは無事だ。俺は急いで取って返し、また坂を上ってさきほどの女性にオレンジを渡した。


 アウラさんの元に戻ると、彼女はまだ目を丸くしたままだった。


「びっくりしました。すごい勢いで走ってっちゃうんですもん」


「ごめん。でもオレンジは無事だったよ。あの女性ひとも喜んでたし。こういう時はいつも余計なお世話だーって怒られるから、お礼を言われるとは思わなかった」


「怒られると思ってたのに、オレンジ追いかけて走ったんですか?」


「ああ、だって放っておけないし、つい」


 俺は思ったことをそのまま言ったつもりだったけど、アウラさんはなぜか変な顔になった。興味深い異物を見るように俺を眺めている。そうかと思うと、彼女は表情をくしゃりと嬉しそうな笑みに変えた。


「ふふっ、よかった……」


「えっ?」


「『バグ』の特殊性は聞いていたので。もしシンルーさんが自分のこと知ったことで別の人みたいになっちゃったらって。ちょっとだけ、心配だったんです。でも、シンルーさんはシンルーさんでした。安心です」


 アウラさんは柔らかく笑い、先に歩き始めた。俺も一瞬遅れてついて行く。走ったせいだろうか、心臓が痛いほど早く鼓動を刻む。鏡なんか見なくても自分の顔が赤くなっているのが分かる。


 俺は振り返らず進むアウラさんに胸を撫で下ろして、彼女の言葉を頭の中で繰り返した。


 そうだ。俺は、俺だ。モナドノック先生に諭されたように、アウラさんが肯定してくれるように。

 だが、そう表面上の安心を得れば得るほど、俺の奥底の疑問は反比例のように大きくなっていく。


 いったい、アンドロイドはウィルバー・ギャレット俺という人間に何をした? アンドロイドとは何なんだ。奴等は何をしようとしてるんだ、と。




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