存在するのは解釈だけ
どうにも簡単には寝付けなくて、俺は深夜にむくりと起き出した。ランプの火はもう消してしまったから、月明かりだけで狭い部屋の中を散策してみる。
空は雲も浮いていないのに、少し煙っていた。月の光も薄いレースをかけたように薄弱だ。それでも、真暗闇に慣れた目には、ベッドシーツの染みを数える程度には十分な光源である。
この一戸は今俺がいる寝室と、隣のもう一部屋、それとトイレとシャワーが一体となった空間があるだけの、簡素な造りになっていた。
隣の部屋には小さなキッチンがあるが、そちらは雑多な荷物で埋もれてしまっている。物置小屋代わりというのは本当らしい。
一通り見て回ったが行くところが少ないので、俺はまた寝室に戻ってきた。手近なタンスを引き出してみるが、面白いものは見つからない。
次第に好奇心より退屈さが勝って、俺は落胆まじりにコップへ注いだ水をあおった。
一つだけ置かれた椅子に腰を下ろし、テーブルに腕を投げ出す。すると指先に触れるものがあった。裏返しになった手鏡だ。何とはなしに手にとって、月明かりの下で鏡面を覗く。
そこに映ったのは、およそ俺の脳内に認知されていなかった、目新しい顔だった。
その男は彫りが深いわりには目が大きく、そこだけ見ると幼さが残る。しかし薄い唇の周りにはうっすらと無精髭が生えていた。顔の造りは二十代半ばといった感じか。
その上には、色素の薄い灰を被ったような茶髪が、少しうねりを形作りながら乗っかっていた。
これは本当に自分の顔なのかとしげしげ見つめてみたり、また指先で輪郭をなぞったりしてみたけれど、それは確かに俺の顔面に貼り付いていて偽物には見えない。
その代わりに俺の脳みそからは、言い得もしれない意識の食い違いというものが離れなかった。
ただ唯一、くまに縁取られた、世界を
俺はおもむろに手鏡を置き、後ろに数歩下がった。裏股に硬いものがぶつかり、背中から倒れる。綿の偏ったベッドに身体を預けて、軽く目を瞑って考えた。
俺は、俺の顔を今の今まで知らなかった。ならこの記憶に残る思い出は逆に、意識の混濁で作られた偽物なのだろうか?
「何が本当で、俺は誰なんだろうか」
世界がおかしいのか、俺がおかしくなったのか。どちらかだと言うのならたぶん、俺がおかしいんだ。俺が壊れてしまったんだ。
だって間違ってるのはいつも俺で、周りの言うことが正しいはずなんだ。
今までも、そしてきっとこれからも。誰も俺を肯定してくれないから、きっとそう。
今回も、俺のほうが間違ってるんだろう。
「俺の素性が分かれば、ちょっとはこの違和感もマシになるのか……?」
ごろりと転がって横を向く。するとベッド脇の小棚の上に一冊の書物が置かれているのが目に入った。
硬い表紙に護られた数百枚の紙片達。
心にも留めず、気まぐれで本を手に取る。紙の本を開くのはいつぶりだろう。
表紙のタイトルからそんな予感はしていたが、中に書かれていたのは俺には読めない言語だった。アルファベットではあるが、英語ではない。しかもインクが所々滲んでいて、読み取りづらい部分があった。
意味もなく紙をめくり、奥付けに飛ぶ。そこに記されていた最新版の出版年は、俺が最後に記憶するそれよりも、百七十年あまり未来の数字だった。
「…………」
本を放り出して、またベッドに横たわる。
いっそ俺の現状が、書籍で幾度か見たタイムスリップか、異世界転生とやらであれば、もっと話は単純なのにと考えなかったわけじゃない。
けど、そんなもの非現実的だ。ありえない、妄想だと俺の理性が叫ぶ。
その通りだ。さっきも考えたじゃないか。間違っているのは俺のほう、いつだって異物は俺なのだと。
世界がおかしいんじゃない。物理法則や時間の概念が乱れたわけでもない。
純粋に、俺の意識が狂っているに違いない。正しいのは世界。そこに馴染めない俺が悪い。
こうやって一通り混乱して、焦って。そうして落ち着いてみたらもう、なんかどうでもよくなってしまった。
考えるのに疲れたのだ。自分のキャパを越えたことなんか、処理することなく放置して、適当にやり過ごしてしまおうという気になってくる。
そういう時はいつも通り、ただ流れに身を任せて思考を止めてしまうのがいい。俺はそうやってユラユラしながら今まで生きてきたのだから。
その『今まで』だって本当はハリボテの虚像だったのだろうけどと、皮肉に口元を歪めて目を閉じた。
今度はゆっくり睡魔が降りてくる。消えていく意識に抗うことをせず、俺は自分の存在を手放した。
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