偽装はやがて自分の天性へと帰る
太陽が昇り、寝静まっていた町はとたんに活動を始める。人々は寝ぼけ眼をこすりながら、一日を過ごすために行動を開始するのである。
かくいう俺もそのうちの一人だった。
一宿一飯の恩というが、ケルティス達がしばらく寝床を貸してくれる代わりに、俺は彼らの仕事の手伝いをすることにした。
ケルティスもアウラさんも気にするなと言ってくれるが、貰ってばかりで何もさせてもらえないと、逆に落ち着かないのだ。
あるがままに、抵抗もせずここで日々を過ごしていくには、それなりの慣れと知識が必要だっということもある。
俺の素性がわかれば、きっとそっちの生活に戻ることになる。その時になって右も左も分からないでは済まない。
そんなわけで俺は朝から、アウラさんの買い出しの荷物持ちをすることとなった。
コートを着こんで、今日は休みだという事務所の玄関に鍵をかける。事務所が閉まっていても、ケルティスは今日も仕事を抱えているらしい。走ってどこかへ行ってしまった。
外は曇っていて朝でも薄暗い。加えてそこかしこに乱立する煙突から立ち上る煙が、雲の分厚さを助長しているようだ。
「あっ、猫さん」
並んで歩くアウラさんが、足元をピュッと通り越した猫を見て呟いた。俺も反射的に言葉を発する。
「本当だ、可愛い」
「ええっ? あのこですか? おもしろ系に見えますけど」
「そう?」
アウラさんに言われて、猫をしっかり見てみる。視線を感じたらしく、猫がちょうど振り返った。
猫の鼻は潰れ、顔のパーツが中央に寄っていた。横長で凄みのある目付きをしている。柄つきのハンカチを真ん中でつまんだみたいな味のある顔だ。
あれではお世辞にも可愛いとは言えない。
「ははっ、よく見たら確かに……」
猫を見ただけで反射的に「可愛い」と言ってしまったことを反省する。
共感を示さないと機嫌が悪くなる上司も、同調されないと不安定になる同僚もここにはいないというのに。
記憶にある自分を今の自分と分けて考えるようしていても、つい、自分の意識よりも世間一般の価値観を優先させてしまうクセは勝手に出てしまうようだった。
「それより、今から行くところはお野菜がいつもお安い所ですから。シンルーさんも覚えてて損はないですよ」
「そうなの? じゃあ、頑張って道とか覚えてないとな」
「はい。ぜひそうしてください!」
他人と話すのは苦手だが、アウラさんは笑顔で話題を振ってくれるから助かる。俺の記憶が曖昧なことも気遣って話題を選んでくれている様子だ。
俺たちがそうやって雑談を交わしながら、石とレンガの町並みを楽しんでいると、道の反対側から怒鳴り声のようなものが聴こえてきた。
パン屋の前で、白い調理服をつけた男が、汚れた格好をした少年の腕を掴んで何やら喚いている。
道の幅は馬車がすれ違えるくらいあるので詳細はわからないが、とにかく店主らしき男は
俺の他にも、数人が遠巻きに様子を見守っていた。
少年はフランスパンみたいな細長いパンを腕に抱えている。店主の言い様からするに、盗みの常習犯らしい。
「くそっ! お前だったかっ、いつもいつもバカにしやがって。くそっ! 嘗めるなよクソガキが! 親からどういう教育受けてんだ、このっ」
店主は罵声を浴びせながら、盗まれたパンを少年から取り返そうとする。しかし少年は冷たい眼差しのまま、パンを頑なに手放そうとしない。
それどころか、少年は深くかぶった帽子の下から店主を睨み付け、静かに言った。
「親なんかいない」
「──っ。クソガキっ! 脳みそシリコンでできてんじゃねえのかっ! ああ!?」
店主が腕を振りかざす。手に握られているのはパン生地を伸ばす棒だ。たとえ木製でも、殴打されれば骨が折れかねない。
俺はとっさに駆け寄ろうとするが、それよりも早く、店主の腕を掴んだ人間がいた。
「それ以上はいけない」
振り下ろされる麺棒を止めたのは、金色の長髪が美しい、一人の男性だった。
彼は背丈が高く、見るからに上等なコートを羽織っていた。髪は少し下で一つに結び、クセの強いウェーブが枝葉のように
その透明に透けるような金色のためか、柔らかな物腰まで高貴に見える。いかにも紳士然とした男性だ。
「なんだテメ──」
振り返った店主も思わず息を呑む。紳士はふわりと微笑み、店主の手から麺棒を外した。
「貴方のお立場も聡明さも、重々承知しております。だからこそ、これ以上自分を貶めることはお止めなさい。手も、口も。雄弁過ぎては誤解を招きますよ」
紳士の言葉で、やっと自分へ向けられる周囲の視線に気づいたのだろう。店主はしぶしぶ腕を下ろした。少年はすでに逃げたらしく、周囲のどこにもいない。店主も店の中へ帰っていく。
男なのに美人なその紳士に見惚れていると、隣にいたはずのアウラさんが紳士に走り寄っていくのが見えた。俺も驚いて、馬車を避けながらその背を負う。
「所長!」
「おやっ、アウラ君と……そっちの彼はケルティスから伝書鳩で報告があった子かな?」
二人はどうやら知り合いなようだ。紳士は駆け寄ってくるアウラさんと、ハイタッチを交わす。
この紳士、意外にもお茶目らしい。
「はい、シンルーさんです。今日は買い出しついでに町の案内を」
「どっ、どうも……」
アウラさんに追い付くとすぐ紳士の前に押し出された。突然の対面に言葉がどもる。
正面から見ても綺麗な男性だ。紫の輝きを持つ切れ長の瞳は、されど優しく優雅だ。ケルティスの目付きの悪さとは大違いである。
紳士は俺を興味深く眺め、それから勝手に何やら納得したように頷いた。
「記憶がないのだったね。そうか……。シンルー君、今からメモする所に行ってみなさい。僕の名前を出せば、君の知らない情報をなんでも答えてくれる所だ」
「えっ? あのっ」
言いながらすでに懐から手帳を取り出している。行動が速すぎて困惑する。
わざわざ人を紹介してもらってまで、この時代のことを知りたいとは思っていなかった。しかし口を挟めない。アウラさんもそれがいいですと肯定的だ。
どうも断れる雰囲気ではない。メモをおどおどしながら受け取ったのをどう誤解したのか、紳士はあぁ、と手を打って、俗離れした美しいお辞儀をしてみせた。
「おっと、これは申し遅れた。僕は世界アンドロイド撲滅機構、『セキュリティホール』から派遣されたロンドン支部所長、ニア・スラマー・スマイルスだ。これからよろしく、シンルー君」
アメジストを思わせる
そこでようやく俺は気づいた。彼の腕に付けられた腕章に。
薄い紫の布地に
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