一話 目覚め

我思う、故に我在り


 おかしい。全身が重い。身体が動かない。


 俺はまだ半分夢の中を漂いながら、自分の体が思い通りに動かない恐怖と焦燥感に追われるように思考を繰り返していた。


 一度落ち着いて、再度りきんでも微かに筋肉が緊張するたけでびくともしない。それどころか、今の俺には胴体の感覚しかない。


 目も開けられないほどの倦怠感に包まれた俺は、今度は真っ暗な世界で音だけを拾い始めていた。


 最初は人の声だとしか分からなかった。意味が聞き取れない。電車で聴こえてくる若者の会話みたいな薄い喧騒だ。


 意識を集中させると、それは次第に頭のなかで単語に変換され始めた。次いで短文になり、最後は文章が会話になった。


「お──い、──ちに人が倒れて──」


 道行く人間が、そんなことを喋りながら通りすぎる。


(人……きっと俺のことだ。俺は今、倒れているのか?)


 身体の感覚がないから自分がどんな状態かも分からない。なので、通行人の言説どおりに身体の状態を思い浮かべてみた。


 俺はきっと壁際にもたれて横になっているのだ。手足を投げ出し、人形みたいに。


 イメージしながら、認識を胴体から徐々に伸ばしていく。心臓から指先まですっと感覚の通っていく感触。するとさっきの重さが少しだけ薄れた。


 そうしてようやく俺は、自分の呼吸を認識するに至る。あぁ、生きている。身体がある。俺は悪い夢でも見ていたのか。


 仕事に行かねばと、やっとこさ目を開けた。視聴覚室のカーテンみたいなまぶたをめくり、飛び込んできた光に像を結び直す。やはり俺は横向きに倒れていたようだ。


 最初に視認したのは広がる石畳と、道の反対側に立つ、電灯のようなもの。古い本で見たガス灯に似ている。


 今は夜のようだ。石畳の隙間を縫うようにして染み渡る水気が、灯りを映してオレンジに輝いて見える。


 どうにか立たねばと腕に力を込める。上手くいかず手間取っていると、ジョギングのような足音が近づいて来るのが分かった。


 通行人は急いでいるのだろう、道端で芋虫みたいに這いつくばる俺の前をそのまま通りすぎようとする。けれど突然、皮靴が焦ったようにブレーキをかけた。ステップを踏んでバランスをとる爪先が何故か俺の方へ向き直る。


 鼻先に汚れた靴が突きつけられた。何事かと足を伝って上部へと視線を動かそうとして、身体が急に引っ張られる。


 視界いっぱいに男の顔が現れた。男は息を切らせ、頬を紅潮させている。高い鼻筋に色素の薄い瞳。一目で西洋人とわかる顔立ちだった。


 そんな整った顔が睨むようにして俺を見ている。


 胸ぐらを掴まれたのだと、遅れて気づいた。


 俺の上体を無理矢理起こした男が怒ったみたいな顔で口を開いた。


「おい、お前は人間か?」

「──────はっ?」


 質問の意味が分からなくて、変な声が出た。赤毛の男は俺を黙って見つめている。


 その時、俺の頭へ一番に浮かんだのは、男の粗暴で鋭い青色の瞳に、長いまつげがやけに不似合いだということ。


 こんな間抜けな回想で始まる一幕こそ、俺とこの国連所属の撲滅機構職員、ケルティス・リギザムスとの出会いの記録であった。


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