暗い世界 -終-

 勢いよく竹刀と竹刀がぶつかり合うと相手から目を離さないままにじり寄る。

 刹那、つばを競り合わせていた相手の腕を払い、足を後ろにさばき後退った。

 不意をつかれた相手は咄嗟とっさに竹刀を引き上げるが、その防御の虚を突くように勢いよく腕を振り下ろし――

「ドオオオオオオオオオ!!!」

 叫びにも似た掛け声と同時に竹のしなる乾いた音が場内に響き渡った――


 剣道の練習が終わる頃には辺りは暗くなっていた。緊張が途切れた室内では皆が急いで帰りの支度をしている。広い室内は思いのほか寒くなりやすい。だからこの時期は誰もが体が暖かいうちに帰ろうとするのが普通だった。

 対して、僕の行動はゆっくりと行われていた。畳に正座して視界を遮っていた面を取り外す。淀んだ空気から解放され、目を瞑って深く深呼吸をする。これは緊張をほぐすためのルーティンだ。大きく吸った息を緊張と一緒に深くゆっくりと吐き出す。


「なんか嫌なことでもあったか?今日はいつもと気迫が違ったぞ」

 練習に付き合ってくれた友人から声がかかる。彼はもう防具を取り外し、制服に着替え終わっていた。

「嫌なことなんかないよ。ただ……これから大事な用事があるから、いつも以上に集中しなくちゃいけなかったんだ」

 僕が曖昧な返事をしたからだろうか、彼は困ったような顔をして頭をぽりぽりと掻いていた。

 それにしても、と彼は話を続ける。

「面を打ってくると思ったんだけどなぁ。おとなしい顔して意表を突いてくるのはオマエらしいというか、意地汚いというか」

「失礼だな。空いてるところに打ちに行っただけだろ」

「まぁ……そうかもな」

 一通りの会話を終えると先に帰ってと友人を送り出した。その後もしばらくは自分の気持ちを落ち着けるかのように、丁寧に面や胴の手入れをしていた。

 次に目を覚ます時には以前のユウに会えるかもしれない。

 こころをもった彼女に会えるかもしれない。

 しかしその期待と裏腹に、同じくらいの不安にかられていた。

 本当に意識を取り戻させることなどできるのだろうか。

 意識が戻ったなんてどうやって判断すればいいのだろうか。


 だからこそ今日は自分にできることを丁寧にこなしていくことが最善に思えた。

 そうすることで都合の悪いことを考えないようにしていた。

 今日は声をよく出した。焦らず、相手の動きを捉え続けた。足さばきは――


 そこまで考え始めて、やっと集中が切れていることに気がついた。

 染み付いた汗のにおい、額に張り付いた前髪、吹き込む外気の寒さ、抱えている面の重さ。気にしていなかったことはこんなにも多かっただろうか。他にも何か忘れてはいないだろうか。

 不安を取り払うようにもう一度深く息を吐き出し、冷え込む道場の中で唯一人で最後の防具の手入れを行なった。





 鍵を開ける音がしてゆっくりと扉が開く。玄関ドアを開けたのはユウの母だった。

「夜分にすいません。ユウさんの部屋に忘れ物をしちゃったみたいで。見つかったらすぐ帰りますからあげていただけませんか」

 こんな時間に彼女の家に来るのは初めてだ。いつもは夕方にくるし、その時は決まって隣に彼女がいる。

 少し驚かれたが特に怪しまれることもなく、思いの外あっさりと通してくれた。

「あの子もう寝ちゃってるから静かにしてあげてね……」


 二十三時三分

 きっとこの時間は寝ているだろうということは想像できていたし、やはり部屋の明かりも消えていた。

 彼女のそばにそっと跪く。昨日みた寝顔とよく似たおだやかな寝顔だ。

 これから僕は彼女の意識を探しに行く。


 昨夜の秕原と名乗る男の言ったことは今でもよく分からない。

 彼女自身が意識の泉に栓をしてしまったということ。

 誰にでも頭の中に大穴があり、そこが死後の世界と繋がっているという空想。

 そしてその大穴で彼女の意識が彷徨っているであろうということ。

 秕原が僕に提案したのは誰も行ったことのない場所への旅。

 誰も知らないのだから、僕自身がどうなるかも誰にも分からない。

 彷徨さまよう意識を見つけ出せるかも全く分からないそうだ。

 つまり提案といっても不確かで無責任な話。夢物語だ。馬鹿げている。

 だけど、選択に困ることはなかった。


 彼女を元に戻せるのならなんだって試す。


 ポケットに忍ばせていたカプセル錠を取り出し、そのまま口に含んで飲み込んだ。

 しばらくすれば波のように眠気が襲い、そのまま暗闇に落ちるらしい。

 それにしても心臓の鼓動が早い。口から何か出てきそうだ。

 薄れゆく意識のなか、僕は布団に隠れた彼女の左手を見つけ出すと両手で彼女の手のひらを優しく包み込んだ。

 強く繋がれるように祈った。

 もう離れないように願った。

 重ねた手から彼女の温もりを強く感じる。

 目を覚ました時に僕の好きだったユウが隣にいることを信じて、

 僕はまぶたを閉じた。






   夜道を歩く

   懐かしいこの道を征くのは一つの足音だけだ

   街灯のあかりだけが等間隔に並んでいて、進むべき道を照らしている

   あれから一月以上が経っただろうに、

   無くしたものが戻ってくる保証なんてほとんどないはずだ

   雲散霧消、消え失せてしまってはいないだろうか、

   溶けて見えなくなってはいないだろうか

   もしかしたらとっくに無駄で、間に合わないのではないだろうか

   その不安だけが頭を埋め尽くす

   だけど、まだ間に合うのであれば

   その兆しがあるのであれば


   もう一度

   もう一度


   もう一度

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