暗い世界 -4-

 夜が明けると降り続いていた雨もすっかり止んでいた。乾ききらない水溜まりはあるものの、反射する朝日は穏やかだ。昨夜のことで腑に落ちていないこともあるが、僕は足早に学校に向かった。



 授業の間にある休み時間のうちにユウに声をかけ、昼休みは一緒に昼食を食べることにした。教室で食べるのは少し恥ずかしかったからグラウンドの木陰にあるベンチに誘ったのだが、これはたぶん失敗だった。太陽は昇っていても肌に当たる十一月の風はやはり冷たい。

 ベンチに座りながら熱を逃すまいとアルマジロのようにうずくまっていると、背後からささやかな声がした。

「――ごめん、待たせたかな?」

「ううん、僕もさっき来たばっかりだよ」

 濃紺の制服の上から温かそうな茶色のダッフルコートを羽織って、彼女は現れた。

「それにしてもやっぱり外はやめておいたほうが良かったかも」

「そう?静かでいいと思うけど。もしかして……寒い?」

 悪戯っぽい柔らかな笑みを浮かべながらこちらを覗き込む。いい?と訊くと彼女は隣に座って、持ってきていた弁当を包むランチクロスの結び目を解き始めた。

 彼女を横目に見ながら思いだす。こんなにも普通に会話ができているのに彼女の意識はここにはないのだということを。(あと、やっぱり上着を着てくればよかったな。)


「学校で一緒にお昼を食べるのは久しぶりだね」

「なんだか恥ずかしいんだ、クラスメイトの前でご飯食べるのは。男同士で食べてても何にも言われないのに、なんで女の子とだとあんなに注目するんだろう」

「うーん…なんでだろう?私も分からない」

 本当は答えなんて分かっている。恋仲だと話のネタになるから。手を繋いだとかキスしたとか、更に言えばもっと下品な話をしたがるのが思春期の高校生だからだ。思春期の男女というものの頭の中を一つの家だとしたら、間違いなく一部屋は異性を思う感情で埋め尽くされていることだろう。

 そんなどうしようもないことを考えているあいだ、彼女は弁当の中のご飯やおかずをゆっくりと食べていた。膝の上に置いた小さな弁当箱の中身は赤や黄色や茶色でカラフルだった。俯いた顔にかかる髪をかきあげる仕草は時折僕をどきりとさせた。


「そういえばユウの知り合いに医者とか科学者とかっている?」

 彼女は口元に手を添えながら首を横に振った

「ううん、いないよ。私が覚えてないだけかもしれないけど」

「そっか、ならいいんだ。昨日の夜中に変な人に会ったんだ」


 ――と言うと、一瞬会話が止まる。彼女の双眸が音もなくこちらを見つめるばかりだ。

「えっと……危ない人かもしれないから気をつけたほうがいいかも」

「うん。気をつけるね」

 いつからかこんな風に会話が止まってしまうことが多くなった。

 気まずい雰囲気を忘れるために、僕も早弁したあとに残った弁当の残りや買っておいたパンを頬張った。

「あと、しばらく夜に逢いに行けないかもしれないから、今日のお昼は一緒に居たくて」

「何か用事でもできたの?」

「懐かしい友達に逢うために支度をしなくちゃいけないんだ。もしかしたらその友達がこの町に戻ってくるかもしれない。そうなったら恥ずかしくて今まで通りにはいかないと思う」

「そうなんだ。せっかく付き合い始めたのに、ちょっと寂しいな」

 短い言葉なのに、こういう彼女の何気ない一言にまたどきりとする。発せられる言葉がそうさせるのか、ユウの声だからそう反応してしまうのか。どちらにしても僕のこの反応はどうしようもなかった。




 彼女が食べ終わった弁当箱を包み直しているとき、僕はその手首にそっと手を伸ばしてみた。

「……どうかしたの?」

 いま僕は彼女の手首に触れている。それなのに当の彼女は何も感じていない。

 まるで僕の気持ちを詮索する機能がなくなったというような、他人の気持ちなんて分からないといったようなそんな反応だ。

 十六年間で形成された表情の変化だけは変わらず兼ね備えているのに、そこには相手を理解する彼女のこころがすっかり抜け落ちている。

 風になびく黒いショートボブも、雪のように白い素肌も、身体も、笑顔すらも自分のものだという認識はないだろう。ただあるだけ。空気や地面と変わりない。

 どうかしたの、という彼女の問いへの言葉を探るように沈黙していたが、それを遮るように昼休みの終わりを告げるチャイムがグラウンドに響き渡る。

 僕たちはベンチから立ち上がると、教室までの道を重たい足取りで歩く。


「また……ユウに会えるかな」

「月曜になればまたね。それより、早く教室に戻ろ?」



 病気に罹る前もその後も、いつだって彼女は無垢だった。

 だからこそそんな彼女の頭の中にが言うような混沌があるだなんて、到底想像ができなかった。

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