暗い世界 -2-

 彼女の家を出るころには外はぱらぱらと雨が降っていた。

 雲が厚いからだろうか、月明かりは全く見えない。一面の雨雲が空を覆い隠し、しばらくは雨も止みそうにない。あたりの家々はすっかりカーテンを閉め、漏れてくる光もそれに混じる人の気配もまばらのなか、頭上にある玄関灯のオレンジだけがぽつんと闇夜を照らしている。

 ふう、と白いため息をひとつつき、折りたたみの傘を探してバッグの中を漁っていると、何処かで雨が傘布を叩く音がしているのに気がついた。

 顔を上げると、住宅街を横切る正面の道に真っ黒な傘をさした人が静かにたたずんでいた。ただ静かに、しかしあきらかにこの家で前で立ち止まっていた。




 裾の長い黒のレインコートに黒いブーツ、そして黒い傘。隙間から覗く手だけがかろうじて人間だと思わせる、見るからに異質な存在。暗闇の中にあるその風貌は、よく目をらさないと見えないほどだ。

 いぶかしげに見ているとは降りしきる雨の中を一歩、二歩とこちらに近づいてきて、僕は自然に身構える体勢をとった。

「君は――」

 が話しかける。男の声だ。

「取り戻したいか」

「――は?」

 顔は傘に隠れてほとんど見えない。この闇と雨の中で、それはまるで黒い空間から直接声がしているようだった。

「君を探していたよ。柁本かじもとヨウヘイ」

 男は濡れたレインコートのポケットに右腕を入れると、一枚の紙切れを手に取り僕に差し出した。そこには名前と何かよくわからない所属だけが書かれていた……

 脳神経科学研究――、秕原しいはらセイイチ――


「君は彼女に会いたいか」

「何を言ってるんですか。それに彼女って――」

とばりユウ」

 男は――秕原は――僕の言葉を遮るように名前を言った。意識を手放しベッドで眠っている彼女の名前を。

「二月三日生まれ、十六歳。君と同じ高校に通う女学生で学業における成績は良く、友人や家族との関係も良好。だが先月精神乖離症と診断され、病は現在も治っていない。本当の彼女の意識の所在は誰にも分からず、そして君はそんな彼女の付き人として週に二、三度こうして家まで様子を確認しにきている」

 僕の質疑を許さないように秕原は淡々と言葉を連ねる。この男に見覚えはないはずだが、言っていることは全部本当のことだ。知らない人間が知るはずのないことを語りだす。その紛れもない事実を前に、言いようのない不安が僕の喉を詰まらせる。

「彼女は探していた。夢の終わりを。――救いを」

「あなた……ユウについてなにを知ってるんですか?」

「――――」

 自然と力がこもった僕の声に秕原は沈黙で答えた。


「――知りたければついて来なさい」

 そう言って背を向けると、秕原は来た道を戻るようにそのまま歩き出した。

 状況はまだ飲み込めていない。なぜこの男はユウや僕のことを知っているのか、なぜユウが精神乖離症であることを知っているのか、そして僕の知らないユウのことについて何を知っているのか。湧き上がるいくつもの疑問と不安をよそに、秕原は闇夜に消えてゆく。僕は雨に濡れながら急いで傘をさし、消えゆく気配を探した。

 いくら調べても治療方法は見つからなかった。どんなに待っても何も変わらなかった。そんな少しの光の見えない闇のなかで、彼女の心への糸口がいま見つかるかもしれない。

 僕は秕原と名乗るこの男についていくことしかできなかった。

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