罪人の海
秋月漕
暗い世界
暗い世界 -1-
カチカチと時計の針が時を刻む。
暗い部屋の中を音だけがゆっくりと彷徨っている。
部屋にはベッドで静かに眠る彼女。
そしてその脇の椅子に座っている僕。
どれくらい待っているのだろう。
彼女の家に来た時、空はまだ夕焼けに染まっていた。
しかし今はもう、闇の中だ。
ずっと考えている。
ずっと探している。
こうして彼女のそばに居続けることは彼女を見つける方法になるのか。
朝になったら彼女が戻ってきたりはしないだろうか。
本格的に寒さを増してきた十一月の空気。
それは秋の匂いといっしょに彼女の意志を何処か知らない、誰も知らない孤独な場所へと連れ去っていってしまった。
彼女にはもう何日も会えていない。
いや、正しくは彼女の心とか魂とかいうものに――――
◆
「ユウさんは
白衣を着た中年の医師が淡々と答える。
「大変申し上げにくいことなのですが、今の医学ではこの病に対する処置法は見つかっておりません。回復に向けて長い闘病生活を――」
僕らにとってはその一瞬で世界が変わってしまうような問題でも、彼にとっては流れる日常に表れる一つの事実にすぎない。残念ですが、という中年医師の最後の言葉も心がどこにもないようにフラットだった。
つらくも悲しくもない、はっきりとしない茫漠とした時間だけが過ぎてゆく。
その後の診察室でのことはあまり覚えていない。
僕は吐き出される言葉をうまく拾い集めることができなくなっていたように思う。どれだけ情報を与えられても、それらは手のひらに注がれた水のように僕の頭の中を次から次へとすり抜けていった。
精神乖離症。
通常の生活には全く支障がないため気付くことが困難な疾患。
いつもと同じように起きて、いつもと同じように授業を受け、いつもと同じように食事を行い、いつもと同じように寝る。だがその繰り返しの中に彼女の意思――心と言ってもいいだろう――が欠落している。退屈な日常、起伏のない日常に対して僕たちは「同じようだ」と勝手に決めつけてしまう。同じように流れている日々は、当たり前だが何かが違っている。
僕たちは毎日何かを選択する場面に遭遇する。そしてその選択には意思が介在する。同じ道を通っていても歩いたり、走ったり、スキップしたり。気分によって選択を変えることがあるだろう。
しかし「本当に同じような日」が繰り返されたとき、彼女の異常性に気づいてしまうことになった。
この患者を対象にした有名な実験がある。
精神乖離症を患いながら引きこもりだった少年に同じ生活をさせる。
例えば、朝の目覚ましの時間を同じにする。ゲームのデータは毎日リセットする。料理については徹底的に同じ分量で作られたものを用意し、同じ時間に提供する。同じ幸福感と疲労度を再現させ、外部からの刺激を全く同一にしたのだ。
すると被験者は実験開始二日目にして独自の行動をとった。
一日前と全く同じ行動をとったのだ。
もちろん外的なリアクションが同じというだけで、寝返りや歩行した場所などの動作が完全に一致したというわけではないのだが。この実験は七日間行われ、結果は実験当初の誰もが予想しなかったものとなった。
被験者は七日間連続で全く同じ行動をとったのだ。目覚ましを止めて二度寝する。昼過ぎにベッドから這いずり出る。ゲームに文句を垂れる。同じ順序で料理に手をつける。決まった時間に就寝する。
以前と同じ状況に対して、以前と全く同じ行動。これが証明したことは、「個人の意思の不在」だった。
生存のために獲得したであろう意思という人間の機能。
しかしこの病の出現により、人間には意思がなくても生きていけることを証明した。いや本当は意思を必要としなくても良いように、人間はいつのまにか進化していたのかもしれない。
誰かを傷つけることを責め、何かを傷つけることも無責任だと咎められる。
自分を傷つけることさえも許してはくれない。
常に社会が自分を見張り、自分が自分を責めている。
それが今の傷つかない平和な関係。窮屈な関係。
社会には気遣いが溢れ、そして同じくらい人々の心には疲労が溢れている。
そこで誰かが思ってしまったのだろう。
意思があるからこそ自らを責め、傷つけてしまうのではないか。
こんなにも疲れてしまうのではないか。
ならば意思など何処かに捨ててしまえばいい。
自分でない何かに委ねてしまえばいい。
誰にも迷惑をかけることはない。
だって私のからだは生きているのだから、と。
この病はこれまでの人類の歴史を冒涜するような代物だった。
だがこの病を疾患することを望む人間は少なからず――いや多からず存在するのだろう。
この病は精神の苦痛の終わりを宣告する夢のような代物でもあるのだから。
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