6. ひと夜の夢
僕の心臓はまさに早鐘を打っていた。でも早鐘って何だろう、なんてどうでも良い事を混乱する頭で考えている。僕は手を引かれて夜の街を歩いていく。白くて細くてとっても柔らかい。僕の手の中の彼女の手、ひんやりとして滑らかな肌触り、なのに触れられている部分が熱い。じわりと熱が伝わり下半身が熱くなる。昼間の熱が去った涼しい空気が心地よい。
前を歩く彼女の顔は見えない。長くて黒い
歳は幾つくらいなんだろう。
彼女の白いオーバーシャツが街灯の光りに浮き上がる。よく見ると男物のシャツだ。心臓がドキンと波打つ。恋人の存在が脳裏に浮かぶ。『きっと、お父さんのシャツだ』自分を無理やり納得させていた。
声が出たのだろうか、彼女は立ち止まり手を離して振り向いた。
「ん?」
小さめの丸顔、
きっとばれたんだろうな。ばつが悪くて、頬が心なし赤くなってしまった。
気がついていないのか、気がつかない振りをしてくれたのか、和やかな微笑みを湛え僕の顔をのぞき込んでくる。
「どおしたの?」
「なんでもないです」
「ふーん」
いたずらっぽくにこりと笑うと、僕の手を掴んで引っ張った。
「あと少しだよ」
そのしぐさに年齢がより判らなくなった。高校生のようにもみえるし、ずっと年上にもみえる。中学生と言う事はないよね。こんな時間にひとりで出歩くんだもの。
深夜の歩道は道行くひともそれなりにいて、手を引かれている僕は気恥ずかしくてうつむいていた。小さな声でお願いする。
「わかりました。ついていきますから手を離してください」
僕の声に再度立ち止まり。
「ほんとうに? 一緒に来てくれる?」
見上げる様に僕の目をのぞき込む。白い肌に赤い唇が際立つ。艶のある瞳は街灯の光りを写し込むもののその奥の心は見通せない。ここでも疑問が首をもたげる『いったい(歳は)幾つなんだろう。なぜ僕を誘ったんだろう』
「うそはつかないです」
僕は強い声で答える。うそなんてつくはずがない。このひとと話せること自体が想像もできなかった事なんだ。本当は声を掛けられなくてもこっそりあとをつけようと思っていたくらいなのに。
僕に犯罪すれすれの行動をとらせそうになっていたこのひとの名前は…… 知らない。
あれはいつだったろう。僕がアルバイトしていたコンビニにあるときこの人が買い物に現れた。僕はひと目で気になって。この人がいる間中、気がつくと視線が追いかけていた。物珍しそうに、店内を見て回って…… あの時は何を買ってくれたのか覚えていない。お金をもらう時に指が触れて、全身をショックが走った事は覚えている。その前後しばらくが記憶に残っていないんだ。
それから、深夜の時間帯に限って見かけるようになった。同僚に聞いてみたら、僕がシフトに入っていない時には見たことがないらしい。
「ふーん。わかった」
手を離して歩き始める。何でこうなっているんだろう。僕は混乱した頭で左斜め後ろを遅れないようについていきながら、さっきの事を思い出していた。
中間試験が終わって久しぶりに遅い時間にシフトに入った。もう上がる時間になり、今日はあの人は来なかったな、久しぶりだものな。と考えていたらドアが開いて、あの人が入ってきた。思わず鼓動が跳ね上がった。
目が離せないでいると、ミネラルウオーターを手に僕のところまでやってきた。
「120円です」と伝えると「はい」って硬貨を手渡してくる。
代金を手渡されるってあまりないので、あれ?って思っていると、受け取ろうと突き出した僕の右手を左手で支え、手の中に右手に持つ硬貨を押し込んでくる。突然の事に狼狽しているとすっと顔を寄せて耳元で聞こえるかぎりぎりの声で話しかけられた。
「今日は何時に終わるの?」
「もうすぐ…… あと5分で上がりです」
咄嗟に何も考えず返事を返す。にこりと笑い、思いもしなかった言葉が返ってきた。
「じゃあ外で待ってるね」
そういって浮かべた笑顔に僕はまいってしまった。僕の返事を待つ間もなく店から出ていく彼女を見送りにやけ顔になる。僕がいるときだけ顔を出すひとと聞いてすっかりその気になっていた。いったい僕のどこが気に入ったのか。残り5分がとても永く感じられた。同僚に冷やかされながら急いで着替えて店を出た。
そこまで思い出して、爪のささくれが当たるような微かな違和感を感じた。とは言え疑問だらけなんだ。違和感があるのは当たり前と、思い直し彼女の後ろ姿を追いかけた。
前を歩く彼女は周りを見回してふらふらと歩いている。酔ってるわけじゃないよね。と思っていると、立ち止まって野良猫に挨拶をした。猫は、彼女が近づく気配を見せた途端、毛を逆立てて逃げていった。ずいぶん怖がりな猫だな。
「あーん、やっぱり」
そういって立ち上がる彼女。すぐそばに立つ僕は斜め上から横顔を見下ろしていた。そばで見る長いまつげ、透明な瞳、太い訳ではないけど、しっかりと主張している眉毛。全て完璧だった。僕の鼓動は跳ね上がった。すごくいい香りが鼻をくすぐる。
離れたくなくて、歩き始めた彼女と並んで付いていった。
「あれっ?」
僕よりずっと背が低いよね。そこで、引っ掛かりの正体に気がつく。さっきは耳元に話しかけられた。どうやって? カウンター越しに…… 伸び上がったりしてなかったよね……
その時、彼女が立ち止まる。僕ははっとして見回した。
マンションの玄関の前まで来ていた。
そのマンションはどう見ても高級マンションと云われるものだ。玄関のドアは意匠を凝らした木枠にガラスが嵌まり高さは3m以上ある。合わせて玄関の天井も高い。中に見える調度品も高級そうに見える。
自宅とは大違いだ。ここに比べたら、マンションと名がついているのが恥ずかしいぐらいだ。
僕が引きつっていると、彼女はポケットからカードを出すなり、僕の手を引っ張って中に入ってしまった。いったいこれから何が起こるのか、思っても見なかった展開に、自分の状況に思考が追付いて行けない。僕はお店で話しができたらラッキーぐらいに思っていたのに、これから起こることへの期待感と逃げ出したい不安感にドキドキしながら後を付いていった。エレベータ、長い廊下を通ったはずが覚えていない。気が付くとある部屋の前に立っていた。彼女はやはりカードと番号キーで解錠すると、ドアを開け僕を招き入れるのだった。
「どうぞ、いらっしゃい」
「え、あ、お邪魔します」
玄関から奥に続くライトが自動的に点灯する。広い玄関から奥へ続く廊下が暗めの照明の中に浮き上がる。広い、廊下の幅でさえ自宅の1.5倍はある。落ち着いた装飾は華美と言うことはない。彼女はここで一人暮らしなのだろうか。しかし、ひとの気配がない。それにしても広すぎる。
「家族はいないよね」
ぽそっと、独り言が口をついて出てしまった。
「いいから、上がって」
靴を脱いで、ついて行くと玄関から二つ目の部屋に押し込められる。
「えっ、なに?」
ぽふっと音が立つ。何か柔らかいものの上に押し倒された。部屋は暗くて判らないが感触から
そりゃ、僕だって経験ないわけじゃないし、彼女の姿を見かけた日には妄想して
右手のおせわになってたし。期待バリバリで後を付いてきた。でも、これは想定外だ。手順も何も展開が早すぎる。いやな予感が湧き上がる。もしかして
重みが消えた。すぐに薄暗い常夜灯がついて、ぼんやりだけど部屋の様子が判るようになった。
僕は起き上がることも忘れて、そばに立つ彼女の姿に見入っていた。するりとオーバーシャツが床に落ちる。ぴったりとしたアンダーウェアを脱ぎ捨てた彼女の姿から僕は目を離すことができない。不安ですくみ上がり押さえつけられていた衝動が、心の底から湧き上がってくる。彼女が欲しい。ほかのことは全て頭からオーバーシャツの様に消え去った。
オレンジ色の常夜灯の明りでも彼女の裸身の肌の白さがよく判る。年齢はいまだによく判らないが、二十歳くらいだろうか。豊かな胸、薄く陰る局部を隠すことなく近寄ると僕の右隣に横になる。
寝返り僕の方を向く。左頬に手を添えると熱い吐息が耳朶を刺激しクラクラする芳香が衝動を激情へと駆り立てる。優しい声が響く。添えられ手から何か流れ込んでくるようだ。それだけで脳髄が快感に支配される。
彼女が僕の上着のボタンを外し始める。抵抗もせず、身を任せる。
僅かに残る理性が、言葉の形をとった。
「あなたの名前は?」
「あたしは、夢魔の『サキュ』。今日はあたしをたっぷりと満足させてね」
「夢魔? これは夢? 僕は……」
それっきり、僕は気を失ったようだ。いや、快感の海に飲まれたのは微かに記憶がある。
どれくらい時間がたっただろうか。薄暗い中で目を開けた。カーテンの隙間から強い光が差し込んできている。もう朝になったようだ。
その光でシルエットになった隣で寝そべる彼女、彼女と目が合った。僕は、この人と一晩を過ごした。その事実を噛みしめていると愛おしさが湧き上がってくる。
彼女は昨日も着ていたオーバーシャツを羽織っており、満足そうに横たわっている。僕が目を覚ましたことに気が付いたのか起き上がりながら、声を掛けてきた。
「おはよう。あなた、さすがに若い。たっぷりいただいたわ」
体がだるい。体を起こすのも億劫だ。自分の中のエネルギーが枯渇しているのを感じる。朝なのにこんなに疲れ果てているとは。
部屋の明りが点く。世界が黄色い。
彼女に促されて。無理やりに体を起こす。今までにない疲労感が体を支配し、立ち上がったもののふらついて、彼女に抱き留められてしまった。彼女の滑らかな肌、触れあった肌から枯渇したはずの衝動が湧き上がってくる。それをたしなめる彼女の言葉に残念な気持ちになったのは仕方ないことだ。それほど、彼女から放たれる魅惑は僕を虜にしていた。
「もうよしましょ。あなた持たないわ。さあ、服を着て。何か食べるものを用意してあげる」
自宅のリビングよりずっと広いダイニングでフレンチトーストをいただいている。彼女は、何も食べずに僕の顔を見ている。満足そうに微笑んでいた。
僕は昨晩から何度も頭に浮かぶ疑問を口にしようとした。
ガチャ。そのとき、ダイニングから続くリビングに面したドアが開く。はっとした僕の視線の先、ドアの向こうから男が現れた。ぼそぼその頭と無精ヒゲ。歳の頃、三十代少し前だろうか。僕に疲れた顔を向けた。
ガタッ。イスを蹴るように彼女が立ち上がる。
「おはよう。終わったの?」
「うん、なんとかね。締め切り3つ同時はちょっと無謀だった」
「顔でも洗ってきたら、朝ご飯用意するよ」
「ああ、たのむ」
男が彼女から僕に視線を投げてきた。
「彼が話しにあった…… どうだった?」
「そう。たっぷりいただいたよ。おなかいっぱい」
「それは善かった」
だれ? ふたりは僕をおいてけぼりで会話を進めている。彼女のお父さんにしては若すぎる。それに内容に違和感がある。疑問がそのまま口をついて出た。
「誰ですか?」
「あん、俺か? うーん、何と言えば」
「あたしのご主人様だよ」
彼女が発した言葉の意味が理解できなかった。いや、脳が理解を拒んだ。『ご主人様』ッテナニ。イマドキソンナヨビカタスルヒトイルノ。ゆっくりと、言葉の意味が染み込んでくる。心がキュッと締めつけられる。心が冷えていくとはこのことか。
「おう、固まってる。まあ、そうかもな。
それはそうと、俺の寝室は使わなかったよな」
「もちろんよ、あたしだって約束くらい守ります」
「そんなに善かったのか。乗り換えるってことは……」
「大丈夫だよ、あたしは修治のもの」
僕を置き去りにした会話は続いていた。『あたしは秀治のもの』その言葉は僕の頭蓋を激しく殴りつけた。すっかりその気になっていた僕はとんだ愚か者だ。周りの世界が何も見えなくなる。僕はその場を逃げ出していた。
「あー、まって」
「もしかして。サキュおまえちゃんと説明したのか?」
「してない……」
僕の耳にはそこまでしか聞こえなかった。どこをどう走ったか覚えていない。気が付くと、駅のホームにいて裸足でイスに座り呆けていた。
それからバイトは辞めた。あのマンションがあった辺りには二度と近づいていない。あれは、本当にあったことなんだろうか。確かめたい自分がいる。あのマンションが無くて本当は夢だったらと恐れる自分もいる。もし、あの場から逃げ出さなかったらどうなっていたんだろう。
夢だったんだろうか、本当に彼女と過ごしたんだろうか。いずれにしても、僕の心に刻みつけられたひと夜の夢。もう半年も前のこと、あの夜の思い出は一生忘れることはないのだろう。
あたし夢魔 灰色 洋鳥 @hirotori-haiiro
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