十二月の午後の海は、仄暗い。

 夏の、あの海水浴客たちの声はとおに無く、波の音だけが響く。

 海の上には、どんよりとした灰色の空が見える。


 座る場所を探していると、先客がいた。


「よ。綸」

「うわっ‼」


 いきなり背中を押されて、綸が心底驚いている。面白~い。


「……なんっだよっ! なんで、お前がいんだよ!」


 いつも飄々と冷静な綸が驚いて、乱暴な言葉遣いになる。面白~い。


「ヘヘ」

「ヘヘ、じゃねえよ! マジで死ぬかと思った!」


 綸が驚きを通り越して、怒りになっている。これも珍しい。


「ヒヒヒ」


 真実はニカッとして、綸を笑う。

 綸は、瞬間的に跳ね上がった心拍数を正常値に近づけるべく、努力している。


「……なんっなんだよっ。マジで……」


 綸は引き続き胸を押さえている。肩が上下している。顔も赤い。

 少し、悪かったかもしれない。

 真実は綸の傍に座る。


「灰色だね」


 海を見て、真実が感想を言う。


「……ああ。まあ、冬だし」


 綸が付き合ってくれる。


「綸は何してたの?」


 訊いてみる。


「別に。何も」

「ふーん」


 質問する前から想定した通りの会話になった。


「お前は? なんでここに来てんの?」


 これも想定通りだ。しかし。「お前」はちょっとイラっとする。


「ちょっと。イタズラしたから、逃げてきた」

「は?」


 ヒヒヒ、と真実は笑う。


「何だよ? ちゃんと言えよ」


 自分のことはちゃんと言わないくせに、綸は人には言わせたがる。


「まあ、クリスマスケーキをさ、母さんと一緒に焼いたんだけど、焼き立てが美味しそうだったから、つまみ食いした。母さんがさ、青ざめてさ。はは」


 思い出すと愉快だ。


「ケーキって? ついにチョコケーキ?」


 お? よく覚えてるな。


「違うよ。我が家の伝統の、フルーツケーキ」

「は? なに? ついに負けたの? おばさんに」


 負けた、か。確かに。そう言えるかもしれない。でもちょっと違うな。


「違うし。チョコは自分の誕生日の時に買ってもらうし。まあ、あれだよ。言いなりは嫌だけど、家族が楽しそうにしているのは嬉しいから。付き合って、一緒に焼こうかなあ、て」


 綸と目が合って、真実はニカッと笑う。


「ふーん」


 綸は不満そうだ。


「なに?」


 真実が綸に訊く。自分は何かおかしなことを言っただろうか。いや、そんなことは無いはずだ。でも目の前の綸は、真実の答えに不服があるようだ。


 綸にしばらく見つめられる。綸は何か、考えているようだ。

 真実をやり込める算段でもしているのだろうか。

 でもその表情はなんだか真剣で、真実が考えているような浅はかなことではないような気がする。


 綸の目は真実の目を見ているが、どうも心ここにあらずだ。

 真実の中に、戸惑いが生まれる。


「……いや」


 やっと綸が答えた。いつになく、気落ちした声だ。

 真実は、今まで見たことのない綸の暗い態度に気圧されつつ、精一杯平気なふりをする。


「なんだよ?」


 真実も不満を表明する。綸の目を見つめ返す。

 綸のブスッとした表情は変わらない。そのうち綸は、真実から視線を外し、物憂げに海を眺めて、ついには俯いてしまった。


 綸が、何か深刻そうに俯いたまま、顔を上げてくれない。何も、話してくれない。

 いつも飄々としていて風に乗っていきそうな綸が、今はどっしりと岩のように微動だにせず、真実に取り付く島を与えてくれない。


 こんな、……なんというか。こんな情緒不安定感が伝わってくる綸は初めてだ。

真実は戸惑いを通り越して、困惑してしまう。

 立場が逆転してしまった。こういう時、綸はいつも飄々として、真実に軽口をたたいてくれていた。綸にからかわれて、真実はいつも、悩みの堂々巡りから助けられていた。


 どうしよう。こんな時、どうしたらいいのだろう。

 初めての状況に、真実はあわあわする。いつも自分が悩んでばかりで、人の悩みに付き合った経験があまり無いことを自覚する。


 逃げ出したくなる。自分の手には負えない状況に直面するというのは、こういうことか。家出した父親の気持ちが分かるというものだ。


 でも、逃げ出されたら、辛い。信頼していた人間に逃げだ出されるのは、本当に辛い。別に上手いことなんて言えなくてもいいから、なんなら何も言わなくてもいいから、苦しい自分の傍にいてほしいと思うものだ。


 真実は、自分を抑えて、がんばって綸の傍に居続ける。暗い綸への不安が胸いっぱいに広がり、今すぐにでもこの場から立ち去りたくなるが、そんな自分を、真実は懸命に抑える。


「真実さ」


 綸がボソッと言った。沈黙が終わった。良かった。真実は少し緩む。でもすぐに固まる。


「高校、やめたりするの?」


 思ってもみなかったことを、綸に訊かれる。

 どうした綸? 急にどうしたんだ? 何がどうなったらそんな質問が出てくるんだ?


 真実は必死に考える。ここ最近のことを思い出す。期末テスト、母親の告白。

 さらに前のことを思い出す。花火大会、父親の家出。

 さらにその前、文化祭、四人で行った水族館。

 さらにその前のその前……。


 ああ、あったな。そんなこと。


 思い出すと、なんだか笑えてくる。ほんの四ヶ月前のことなのに、随分と自分は子どもだったなー、なんて思えて微笑ましい。


「今のとこ、やめないよ」


 真実は、努めずとも自然に明るく、綸の問いかけに答える。

 綸がやっと顔を上げて、真実の方を見る。


「……やめないの?」

「ん? やめないよ」


 真実はそう言うと、不安げな表情の綸を見つめて、ニコッとする。


「……じゃあ、今の高校から、進学するの?」


 どうやら、綸は心配しているらしい。自分が言ったことに、責任でも感じているんだろうか。いくら綸は真実より大人びているとは言っても、同じ高校一年生なのに。そこまで大人、しなくてもいいのに。


 いや。生まれ月で考えると、真実と綸は一年ほど開きがある。……ん? いやいやいや。それこそたったそれだけの差で真実より大人感出されるのは、それはそれでムカつく。


「んー……。進学する、かなー……?」


 綸に訊かれて、真実は自分の中に言葉を探す。

 探して、自分の言葉で、綸に答える。


「それはまだ、分かんない。探さなきゃいけない、とは思ってる。探してみて、必要なら今の学校辞めるかもしれないし、辞めないで進学するかもしれない。……でもまずは、探してみるよ。だから今は、高校やめない」


 確信を持って、真実は綸に話す。全く、不安が無いわけではない。もちろん確たる自信も、あるわけではない。ただやっと、自分は自分を掴まえることができた、そんな確信だけが、真実のなかに滾々と湧き始めていた。


 とても、清々しい気持ちだ。春、一斉に芽吹いた木々の若葉が、爽やかな朝の光に照らされて、キラキラと輝きて煌めくような。

 そんな晴れやかな気持ちに包まれて穏やかに微笑む真実を、綸が思案顔で、じーっと見つめている。

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