食卓 カウントアップ

「どうして、言ってくれなかったんだい?」


 やっと落ち着いた母親に、父親が優しく声をかける。

 母親は鼻をすすって、時折シャックリしながら、絞り出すように答える。


「……こんなこと、言えるわけないじゃない……」


 父親の腕の中で、母親が震えている。


「どうして?」


 母親の顔がまた、苦痛に歪む。声を押し殺して泣いて、答えない。

 しばらくして、重そうに口を開いた。


「……恥ずかしくて……」


 さっきまでとは打って変わって、消え入りそうな声だ。


「何が恥ずかしいんだい?」


 父親が優しく尋ねる。

「……だって、あなたはご両親を亡くされてるのに。親のいる私が、こんな……」


 母親が言い淀む。


「こんな?」


 父親は穏やかに、続きを促す。

 母親がたどたどしく、話始める。


「親が、健在なのに、その親に、こんな、よくない感情を持つなんて……」

「僕のことは関係ないじゃないか」


「関係あるわ……」

「関係あるって? どう、関係があるっていうんだい?」


 父親に訊かれても、母親は泣くばかりだ。


 真実が切り出す。


「母さんは、曇りのある自分が、嫌だったんじゃないかな」


 父親と美奈が真実の方を見る。

 母親は俯いたままだ。


「おばあちゃんとか、父さんの、曇りが無い感じが」


 父親と美奈は、よく分からないという顔をしている。

 真実が続ける。


「なんていうか。……周りの人の光を強く感じて、それで、自分の影を余計に黒く感じるのが、嫌だったんじゃないかな、て……」


 真実の言葉を聞いて、図星だったのか、父親の腕から再度逃れようとする母親を、父親が強く抱き寄せる。


「そうなのかい?」


 父親が優しく母親に訊く。

 母親は観念したのか、話し始める。


「……私は、弱いもの。……小さい頃から、ダメだったの。……うちは、そんなに余裕無くて、両親は働きづめで、でも家にいる時はそんな苦労してるって全然見せなくて、明るくって、強くて、頼もしかった。……きょうだいもそうだった。みんな外で元気によく遊んで、怪我もしてたけど、楽しそうだった。……近所の人からも、怒られることが多かったけど、可愛がられてた。子どもらしい、子どもだったの。みんな。……でも、私は違ってて、家の中で遊ぶのが好きで、よく祖母と二人で人形遊びとかをしていたの。時々、きょうだいに外に連れ出されて、近所の子たちと遊ぶこともあったけど、ついていけなくて、バカにされたり、意地悪されたりするのが、嫌だった」


 一呼吸置いて、母親が続ける。


「学校でもそうだったから、よく先生に注意されたわ。もっとしっかりしなさいって。そうじゃないと、大人になった時に困るわよって……。面談の時には母さんにも言ってたわ。ご両親はしっかりされてて、きょうだいも元気なのに、私だけ大人しすぎるって。もっと活発にならないと、みんなに負けてしまう、て。……とても恥ずかしかったわ。……母さんは家のことで忙しくて、夜も遅くまで縫い物とかしていたのに。そんな忙しい母さんに学校まで来てもらったのに、嫌な話を聞かせたって……。でも母さんは、全然私のこと責めないのよ。私は私のままでいい、そのままで充分って、笑って言ってくれるの。……きっと、本心だったと思うのよ。でも……。そう言われれば言われるほど、自分が情けなくて。母さんが素晴らしいほど、自分がどんどん惨めに思えて……。近所の大人からも、他のきょうだいと違う態度をされるのが、嫌だった。他のきょうだいとは遠慮無く楽しそうにするのに、私には変な距離があったの。……そういうことも、不出来な子どもと言われているようで、辛くて」


 母親は本当に苦しそうだ。子ども時代に辛い思いをしたことが伝わってくる。


「がんばって、他のきょうだいみたいに、強い子どもになろうとしたこともあったけど、全然うまくできなかったの。そのたんびに母さんに慰められて……それが余計に情けなくて……なんで自分だけ違うんだろうって。母さんが私と同じだったらって、思うこともあった。そしたら自分と母さんを比べて、こんなに辛い思いをしないですんだかもしれないのにって……。でもそんなことにはならないから、せめて、自分の子どもには私に似ないで、強い子どもになってほしくて……」


 そこで、母親の話が止まった。

 真実の隣に座っている美奈から、ジワジワと怒りが伝わってくる。


「マジ? それ、かなりサイテー……。そんなことのために真実ちゃん、今までこんな、辛い感じ。ホント、有り得ないんだけど!」


 ダンッ‼

 美奈が、両手の拳をテーブルに叩きつけ、母親を睨みつける。

 母親がビクッとする。怯えて、父親にしがみつく。


「美奈、いいから」


 真実は美奈をなだめる。美奈の気持ちは嬉しいが、自信無く子ども時代を過ごした母親の辛さは、同じように自信を持てずに子ども時代を過ごした真実には、分かる気がした。


「なんで⁉ なんでよ真実ちゃん! ここ、真実ちゃんが怒るとこでしょ‼」


 美奈が、真実の代わりに激高してくれる。美奈の怒りはまだ収まらない。


「なんで? なにが『いい』の? 全然言い足りないくらいでしょ⁉ てか真実ちゃんが言うことじゃん! なんで今まであんなことされて来て、なんで文句くらい言わないの⁉ そんなの真実ちゃん、優しいんじゃなくて、弱過ぎでしょ⁉」


 弱いか。そうかもしれない。

 真実は美奈を見上げる。

 美奈の体は怒りで燃えていて、目は爛爛としていて、強く握られている拳が真っ赤だ。


 不思議だ。誰かが自分と同じくらい怒ってくれていると、逆に冷静になれるんだな。

 こんなこと、初めてだ。

 そういえば、綸が前に言ってたな。爆死はしたくないけど爆発したい、だっけ。爆発をやってしまう自分を見てみんな、欲求解消して、物分かりのいい高校生してる、だったかな。

 こんな時に、なにを考えているんだろう自分は。


「……うん。ホント、ありがとう、美奈。美奈の気持ちは凄く嬉しい」


 怒りで体を固くする美奈をなんとかなだめて、座らせる。


 本当に美奈の気持ちは、とっても嬉しい。

 これまでの母親の言動を考えたら、ここは真実も、美奈のように母親を罵って然るべき場面だ。

 この状況の勢いに任せて十六年分の恨み辛みを全部ぶちまけたら、と考えるだけで、とてもよい気持ちが湧いてくる。母親を詰りまくって優越感に浸りまくる自分を想像する。


 でも今は、それより優先した方がいいことがある、と真実の理性がアラートする。

 今はとにかく、目の前の母親だ。家族の前で、哀れに泣き崩れている母親だ。

 母親に全てを吐き出させなければ、篠崎家の問題が解決しない。

 本当の意味で、自分は救われない。真実の理性が、冷静に分析する。


「じゃあ僕は? 僕も嫌なの?」


 父親が尋ねる。母親が、父親を見つめる。


「あなたは、私の人生で、初めて心が安らげる人だった。私と同じ考え方をしてくれて、私を好きになってくれた。でもあなたには、影が無いわ。私より恵まれた境遇ではないのに。……それに比べて私は、こんなに醜くくて……。あなたには、それを知られたくなかったの。あなたと私は似ているって思えるほど、嬉しかったけど、あなたにはない醜さを持っている自分が恥ずかしくて、情けなくて、悲しくって、あなたに嫌われたくなくて……」


 そう言うと母親は、悲しみの表情を浮かべて、申し訳なさそうに、俯く。

 父親は、変わらず母親を抱きしめている。赤ん坊をあやすように、母親の肩を、トン、トン、と柔らかく叩く。そんな父親に、母親は体を預け、泣き続けている。


 しばらくして、父親が話し始めた。

 泣く子をなだめるように。

 優しく。


「確かに、お義母さんは、太陽のような人だよ。……でもみんなが太陽だったら、この世界は灼け果ててしまうよ。……僕は、繊細で優しい、君が好きだよ。蛍の瞬きが好きで、蛍の命の短さに心を痛める、君が好きだよ。蛍のような君の輝きが、僕は好きだ……」


 母親は、泣きながらも静かに聞いている。真実と美奈も、父親の言葉を聞く。


「僕もね、大人しい子どもだった。子ども時代に唯一嫌だったことは、男の子らしく活発にならなきゃ、て言われることだったよ。気の合う友達もいなかった。……だから、君と会って、自分と同じ感じ方をする人がこの世にいるんだって知った時、とても嬉しかったんだ。それで、すぐに君のことが好きになった。だから、君と結婚することができて、とても幸せだったよ」


 父親の表情は、柔らかい。


「ねえ……。他人から見たら幸せでも、当事者にとってはそうじゃないってこと、あると思うよ。……僕の生い立ちは、世間一般からしたら不幸だと言われることがあるけど、僕はそうは思ってない。僕は典型的な家族には恵まれなかったけど、家族がいなかったわけじゃない。僕にも、僕を大切にしてくれた家族がいて、幸せだった。それでね、その逆もあるんだよ」


 母親が顔を上げ、不思議そうな表情で父親を見つめる。

 父親はそれを見て、母親に、ニコッ、とする。話を続ける。


「他人から見たら幸せそうな君の生い立ちだけど、他人には分からない、君が不幸せに感じることがあっても不思議じゃない、と思うよ。みんな違うんだから、それぞれの感じ方があるんだから。それはとても、自然なことだよ。だから何も、君が負い目に思うことはないよ。僕と比べる必要もない。君は君でいいんだ。……そうだね。君がお義母さんの傍で苦しいと思っていた時に、お義母さんにもう少し余裕があって、君の気持ちを知ってくれていたらどんなに良かっただろうって、今は思うよ」


 母親は泣き止んだ。父親に預けていた体を起こし、真っ直ぐ父親のことを見つめている。


 すると、今度は父親が俯く。

 何か言葉を探している。

 少しして、意を決したように父親は顔を上げ、続きを話し出した。


「……でも僕も、君の一部しか見ていなかった。……僕と違う君の部分に、もっとちゃんと向き合うべきだった」


 そう言うと、父親は一度、真実と美奈の方を見た。

 その顔はなんだか苦しそうだ。

 父親は娘たちを見ると、また母親の方を向いた。


「……子ども達が学校に上がるまでは、僕は君と同じだと思っていた。……同じように子ども達の世話をして、同じように一緒に疲れて、同じように一緒に悩む、親っていう同志だと、思っていたんだ」


 そこでまた、父親は下を向く。母親は、さっきから同じ表情で父親の話を聞いている。何を考えているのか読めない。

 父親は顔を上げ、話す。


「でも君は、真実が学校に上がることが近づくにつれて、少しずつ変わっていった。……なぜそうなるのか、理解できなくて戸惑ったよ。……最初は、たぶん男親と女親の違いなんだろうって、そう思って、自分を納得させていたんだ。それに、子ども達も小学校までは子どもらしくいてくれたし、中学になって少し反抗するようになっても、まだ可愛いものだったし。……君は、女親だから、娘にはとりわけ厳しいんだろうと思うことで、何とかやっていた。でも君は、どんどん変わっていく一方で……。どうしてあんなに真実をコントロールしようとするのか、全く理解できなくなかった。真実にも、どう接すればいいのか分からなくなったよ。君のやっていることが正しいのか、間違っているのか分からなくて、君の側に立つべきなのか、真実のフォローをすれべきなのか、分からなくなったんだ。それで、酷い無力感に襲われて……。そのうち、君と真実の関係を恐ろしく感じるようになってしまって、家を出たんだ……。すまない。本当に、すまない。逃げるべきじゃなかった。僕は、君の側に立つべきかそうじゃないかではなくて、父親として君と真実に向き合うべきだったんだ」


 そこまで言い切ると、父親は真実の方を向いた。


「真実、すまない。おかしいとは思いつつ、何もできなかった。本当にすまない」


 そう言うと、今度は美奈の方を向く。


「美奈も、心細い思いをさせてすまなかった。本当に、悪かった」


 美奈はそれを聞いて、俯いてしまった。目には涙を溜めている。


「許してくれるか分からないけど、僕は君達の父親でいたい。君の夫でいたい。どうかそれを、許して欲しい」


 父親の話が終わり、夕食の食卓に沈黙が降りた。

 沈黙の中、真実は思う。




 母親は、母親の祖母、真実の曾祖母に似ているらしい。

 時代って、残酷だ。

 イメージでしかないけど、きっと男女平等とか言われてない時代は、曾祖母のような、母親のような女の子が、優れた女の子として、一番偉かっただろう。

 場所が場所なら、今でもそういう女の子が一番偉い女の子かもしれない。

 でも自分の母親は違う。


 母親は、天使のようだ。

 俗な世界で生きなくてはならないうちに、歪んでしまった、天使のようだ。

 我ながらメルヘンだ。こういうところは、自分も女の子だな、と思う。



 母親も、傷ついた子どもなのだ。



 この世界は、強い。

 子どもは、弱い。


 自分を取り巻く世界は不思議で、理不尽で、完全なコントロールなど及ばない。

 そんな外の世界から子どもは、影響を受けて、変質して、成長して、そうしてやっと唯一無二の自分になるのだ。



 そう思うと、泣けてくる。母親を思って、父親を思って、美奈を思って。

 泣けてくる。


 自分を思うと。


 やっと、泣けてくる。


 否定された子どもの自分。

 意味も分からず、頑張らされた小学生の自分。

 嫌いだけど大好きだった母親に、欠陥品呼ばわりされた自分。


 可哀想だ。


 可哀想な子どもの自分。可哀想な、子どもの母親。


 生活の苦労をした、祖母、父親。

 親のいない悲しみを知った美奈。

 弱音を吐けなかった自分。

 父親に少し苦労している綸。


 まあ、綸はいいか。要領いいしな。

 でも、要領良く、隠しているだけかもしれないな。


 みんな、完璧じゃない。

 母親は、完璧な良妻賢母なんかじゃなかった。

 父親は、完璧な、優しいイクメンなんかじゃなかった。

 自分は、綸や高校のクラスメイトのような、爽やかな高校生にはなれてない。



 でも。それでいいのだ、と思う。

 それしかないのだ、と思う。


 そんな相手と、付き合っていくしかない。

 そんな相手と付き合えるように、自分を気遣っていくしかない。

 そんな自分で、いるしかないのだ。




「……ごめんなさい……」


 沈黙を破って、小さな声で、母親が呟いた。

 そんなんじゃ全然足りない! とも真実は思うが、それだけでもかなりの進歩だ、とも思う。


 気づけば、夕食はすっかり冷めてしまっている。

 折角の母親のうまい夕食がもったいない。


「ご飯、食べよ?」


 真実が、家族に促す。


「そうだね。食べよう」


 父親が応える。

 美奈と母親が、何も言わずに食べ始める。

 なんか赤点のこと有耶無耶になったな、と思いつつ、真実も夕食を完食した。

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