食卓 カウントゼロ
頭から血が引いていく。
父親に、家に帰って来てと頼みに行って、父親にひどく幻滅した時のような、冷え冷えとする気持ちを真実は味わう。
「……あのさ、じゃあさ、母さんが言う立派な人っていうのは、赤点取らない人のこと?」
「だから、そういう事々じゃなくて、心待ちの問題よ。頑張るべきことを手抜きすることは悪いことでしょ?」
確かに。一理ある。
どう反論しようかと真実が考えていると、思わぬセリフを母親が言った。
「ねえ真実。あなたがそんな考えからをするようになったのは、お隣さんのせい?」
は?
なんだその発想は?
真実は不意打ちをくらって面食らう。父親と美奈も同じようだ。三人で驚いた顔になる。そんな家族の様子は目に入ってこないのか、母親は続ける。
「あなたがこんな風に口答えをするようになったのは、高校の受験勉強の時からよね?」
いや? いや⁉ いやいやいやいや!
「別に。……中学に上がってから少しずつ反抗してきたと思うけど。……なんでお隣が出てくるの?」
訳が分からない。
「いいえ。あなた、受験勉強の頃から目に見えて酷くなったわ。確かに中学生になってから反抗期にはなったけど、でもまだ可愛いものだった。それが、お隣と塾から一緒に帰るようになってから、あなたの反抗は本当に酷くなった。この前も、花火大会お隣と一緒に行ったでしょ? 私には友達と行くと言って」
何を言っているんだ? この女は⁉
「綸は友達でしょ? ていうか、お隣って何? 綸って名前あるでしょ?」
「その名前は言わないで」
真実の
母親の目が暗い。なんだか、とても冷たいものが母親から伝わってくる。
母親が家族に向ける、愛情が根底にある怒りとは違う、無遠慮な、不躾な怒り。
これは、恨み?
自分の母親に、こんな一面があったなんて。ロマンティック趣味の塊だと思っていた母親に、こんな薄暗い感情があったなんて。
気圧されながらも、真実は母親に訊く。
「……どうして?」
「その名前は嫌いなの」
思ってもみなかった理由を、母親から告げられる。
母親の暗さが、どんどん濃ゆくなっていくのを感じる。
真実は混乱しながらも、なんとか母親に食い下がる。
「だからどうして……」
「
とった? 取った? 盗った? まぁさかぁぁぁ。
「とる? どういうこと?」
「リンは、あなたの名前だったの。凛々しい女の子になるように、て。私があなたに、凛って付けるはずだった。昔から決めてたの。娘が生まれたら凛ってつけようって。なのに
まさかの「盗った」だった……。
でもなんで今そんなことを……。
「……そんなこと。……ていうかその名前がよかったら、そう付ければよかったじゃん。今さら、そんな昔の事」
と言ったところで真実は口ごもる。
昔の事では片付かないんだな、この人にとっては、と思う。
母親は時々、こちらはもう忘れていることを昨日のことのように思い出して責めてくることがある。どういう理屈かは分からないが、この母親はそういう風に生きている。
これまでもきっと、綸の名前を聞くたびに、十五年前に味わった悔しい気持ちを思い出し、ずっと苦々しい思いをしてきたのだろう。
「名前は仕方ないけど、綸は何も悪くないよ?」
「いいえ、そんなことはありません。
有害? 自分の母親ながら、凄い表現をする。
父親と美奈も引いている。
真実は反論する。
「絶対にそんなことない。綸は私よりしっかりしてて、ずっと大人だし、おばさんは鎌倉のおばあちゃんみたいに素敵な人だし」
「おばあちゃんを引き合いに出さないで‼」
突然、母親がキレた。
さっきまでも母親は初めて見る怒りっぷりだったが、それとは違う。
これは完全にキレた、と分かった。
「おばあちゃんは、
母親は目に涙を溜め、顔を真っ赤にしてしている。
ああ、そいうことか。
真実は思い至る。
『私とは違って』か。凛々しい女性、か。
真実の祖母、真実の母親にとっての母に、委縮する母親が、幼い頃から不思議だった。何か負い目があるのだろうか、そう想像させる態度だった。
祖母は別に、母親のことを憎らしくは思っていない、むしろ可愛く思っているということは、この前の盆で確認済みだ。
真実の母親が自分で勝手に、自分とは違う、自分の母親の立派で頼りがいがあって凛々しい姿に、引け目を感じていたのだ。
これまでの謎が繋がって、一つの答えになる。そしてそれは、母親がずっと周囲に悟られまいと、必死に隠してきた秘密なのだと分かる。
「立派な大人って、おばあちゃんのこと……」
真実が、静かに言葉にする。
その場が、静まり返る。
母親の目が、より大きく見開かれる。
そして、涙が落ちる。
「母さんは、おばあちゃんにコンプレックスがあるの?」
真実は、努めて穏やかに尋ねる。
母親は、何も答えない。
美奈が訊く。
「母さんは、おばあちゃんが嫌いなの?」
「そんなわけ、ありません!」
母親は強く否定する。悔しさとか、恥ずかしさとか、怒りとか、悲しさとか、色々な感情がない交ぜになって、母親の顔に現れている。
つまり、こういう事だ。
「好きだけど、嫌いなんだよね?」
真実が、静かに核心をつく。
母親は、ずっとひた隠しにしてきた思いを暴露されて、酷く狼狽する。
「だから君、あんな……」
父親が、母親に手を伸ばす。
「違います! 違うわ! 何を言ってるの? 何を言ってるのよ⁉」
父親の手から逃れようとする母親を、父親が掴む。そして、母親の一番デリケートな領域にのりこんでいく。
「何が、違うんだい?」
父親が母親の目を真っ直ぐ見て、穏やかに告げる。
母親の顔が、みるみる崩れていく。
「違うわ! 違う‼ 私はそんな酷いこと、一度も考えたことない!!!」
母親は父親から目を逸らし、もがき、必死に逃れようとする。
そんな母親を、父親は力強く捕らえて離さない。
父親が大きな声を上げる。
「君は!」
母親が父親の方を見る。その顔は、悲痛な願いで歪んでいる。真実には母親の願いが聞こえる。お願い、これ以上、私の醜さを暴かないで―――。
途端に、真実は母親が可愛そうになる。こんな風に自分の中の醜さを暴かれたら、自分なら絶対に平気でいられない。現に、目の前の母親の狼狽ぶりはとても哀れだ。これで更に父親に
真実は父親を止めて、母親を守ろうとしようとする。でも父親の、今までに見たことのない気迫におされて、怖気づいてしまう。
父親はそんな真実を意に介さず、母親の両腕を強く掴んで、母親の目をしっかりと見据えて、言葉を発する。
「君は。苦しかったんじゃないのかい?」
父親の言葉が響き渡る。
父親のこんな言葉は、真実は想定していなかった。てっきり、母親を
君はなんてひどい母親なんだ、と。
そんな自分勝手なコンプレックスで、娘を追い詰めていたのか、と。
でも、違った。
真実が父親に期待していた言葉は、真実自身の抗議の言葉だ。
父親は違う。
そうか。母親も、人間なのか。
いつからか、母親を悪の塊のように見ていた。
そうか。母親のこれまでの態度は、苦しみの……。
母親も、驚いている。母親も真実と同じく、父親に
でも違った。
母親が抵抗をやめた。
母親の目から、大粒の涙がボロボロと流れる。
父親が、自分の妻を、優しく抱き寄せる。
「大丈夫。大丈夫だから」
穏やかに、妻に言い聞かせる。
母親は、小さな子どものように泣き声を上げて、夫の胸にすがって泣く。
夫が、妻の背中を柔らかく、ポンポン、とする。
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