食卓 カウントダウン

 母親の世界には前から、真実の反抗によって小さなヒビが少しずつ入っていた。

 そのヒビを大きくしたのが父親の家出だった。

 でも思いの外父親が早く帰ってきたことで、危うくバランスがとられ、保たれていた。


 そこに今、真実からダメ押しの大きな圧力がかかって、もう耐えられないとばかりに崩れていっている。真実には、その音が聞えた気がした。

 我を失いそうになっている母親を前にして、真実は、なんとか冷静さを保つ。


「ねえ……。分かった……。母さんが、『女の幸せ』っていうのを信じているのは分かった。……それで、母さんが、娘時代っていうのは、『女の幸せ』を掴む待期期間だって考えてるのも分かった。つまり、母さんは娘時代、もうすぐ自分は女の幸せを掴むんだって、カウントダウンしてたんでしょ? 母さんは、子どもの、女の子の頃から、真っ直ぐ女の人になってきたんだよ。それは分かった。ごめん。くどくなっちゃった」


 真実は深く息を吸い、吐く。


「分からないのは、立派な大人って、どういうこと? 母さんさ、私が小さい頃からすっと言ってるよね? 何、立派な大人って。どういう風になったら立派な大人なの?」


 母親は黙る。不意をつかれたようで、戸惑っている。

 しばらく言葉を探してから、口を開いた。


「……立派な、大人、っていうのは。……立派な、大人よ……」


 答えになっていない。拍子抜けだ。さっきまでの勢いはどこに行ってしまったのだろうか。


「だから、具体的にはどういうこと? 自立した女性とか?」


 真実は助け舟を出す。すると、母親が乗ってきた。


「そうよ。自立した、自分をしっかり持った女性っていうことよ」


 思いがけない質問に答えられて良かった、とほっとしている母親に、真実はたたみかける。


「つまりそれは、経済的に自立した、てこと? だからバリキャリ、じゃなくてキャリアウーマンになれってこと? それで結婚して、子ども産んで、仕事も続けるのが母さんの理想?」

「そんなキャリアウーマンって、わけじゃないけど……」

 

 母親はっきりと答えない。

 答えを探して悩んでいるようだ。

 これでは埒が明かない。


 真実はやはり、と思い至る。今年の盆、祖母宅で真実が睨んだとおりのことのようだ。


「もしかして母さん、自分でもよく分かってない?」


 母親が、気まずそうな顔になる。


「そんな! ことは、ありません……」


 図星のようだ。自分の母親ながら、ホントによく分からない人だ、と真実は思う。

 仕方がない。こちらは諦めることにする。分からないことをずっと考えても結局分からない。堂々巡りするだけだ。

 もう一方の問題を片付けることにする。


「よく分かんないけど、今日はそっちはもういいや。あの、『女の幸せ』の方だけどさ。……みんながみんな、母さんと同じ考えじゃないってことは分かってる? 私はさ、確かに生物学的にも性自認的にも自分は女だって思ってるよ。でもさ、だからって、母さんが思うような『女の子』の生き方をしたいわけじゃないの。それは、分かる?」


 母親が怪訝な顔をしている。分かってないな。


「だからさ、前にさ、一人暮らしの話したじゃん? 父さんが戻ってきた日の夕食。母さんさ、娘は親元から嫁に行くもんだって、結婚前に一人暮らしとか娘はしない、そんなこと教わらなくても分かるものだ、て、言ってたよね」

「そうよ。言いました。常識でしょ?」


 常識か……。これはハッキリ言う必要がある。

 真実は一呼吸置いて、続ける。


「だから、それは少なくとも私には常識じゃない。そんな理由で一人暮らししない人がいるなんで、想像したことも無かった。てか今時、大学生とかで一人暮らし始めることのほうが常識でしょ?」

「真実、あなた、そんな考えだったの⁉」


 母親は、またまた困惑している。娘にこんなことを言わせたことについて、親としての自分を責めていそうだ。


「分かった。分かったから。教育間違えたとか、今はいいから。とにかく。私は、母さんとは別の人間なの。同じ女でも、違う考え方をする、全く別の人間なの。それは分かった? じゃなくて分かってほしい。お願い。ていうことを分かった? ああ、日本語変になっちゃった……」


 母親の混乱がピークに達っしている。口をあわあわさせて、視線は定まらない。

 父親は何か言いたそうだ。でも何も言えない。

 美奈は、真実と一緒に固唾をのんで母親の様子をうかがう。


 しばらくして、母親は何かに思い至ったようで、口を開く。


「真実、あなた、変な事言って誤魔化さないでよ。あなた赤点取ったのよ。今まで一度も無かったじゃない! 私だって学生時代、こんなこと無かったわよ。いい加減にして。誤魔化さないで。ちゃんと反省なさい!」


 話が振り出しに戻る、てやつだ。

 真実は少し呆れて、母親に再度反論する。


「だからさ、私さ、この高校志望してない」


 母親は真実から同じ答えを聞いて、もどかしげにしている。


「でもあなたは今、高校生でしょう? 働かないで学生してるんだから、学生の本分を果たしなさいって、私は言ってるの。お母さん間違ったこと言ってる?」


 この女は。

 真実は思う。

 自分の配偶者が出て行った間の家事を学生である娘に任せていたことについての謝罪は無いのか。

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