花火 平和

 中間テストは、散々だった。

 篠崎真実は、それについてだけは自信がある。あんなに分からなかったテストは、生まれて初めてだった。

 でもまあ、テストは終わった。その事実が大事だ。


「真実ちゃん、今日花火見に行くんでしょ? 何時に出るの?」


 母親だ。びっくりした。

 あれからずっと「ちゃん」付けだ。自分がそれやめてとは言わないせいもあると思うけど。……テストが散々だったなんて言ったら、この人はきっと荒れるだろうな。しばしの平和、大事に享受しよう。真実はそんなことを考える。


「そうだけど。何か用?」


 母親は、手に不気味な物を持っている。できればそれは、自分にとは言ってほしくない、と真実は思う。


「浴衣。去年は受験でそれどころじゃなかったじゃない? だから今年は。ね?」


 凄く嬉しそうだ。満面の笑みだ。母親は本当に、こういう『女の子』なことが好きだ。


「いや、でも。友達と行くし。江の島に行くから電車乗ったり歩きも多いし。浴衣は動きにくいからさ」


 真実としてはだいぶ穏やかに遠回しに言っているつもりなのだが、真実が言葉を継げば継ぐほど、母親の顔は曇っていく。これでは、折角の平和が崩れかねない。


「……分かった。母さんが折角出してくれたんだし、着るよ……」


 途端に、母親の顔がパアッと明るくなる。ああ、この人はホントに。

 浴衣を着るとなると、歩きが遅くなることが容易に想像できた。しかも下駄。

 綸にでかける時間を早められないかLINEする。すぐに既読が付き、了承してもらえた。


 予定していた時間より早くに支度を始め、母親に浴衣を着付けてもらう。

 それで終わりだと思ったら、母親に鏡台の前に座らされた。


「せっかくなんだから、髪飾りもつけましょうよ」


 だそうだ。真実はされるがまま、母親の人形になった。




「おお。なんか、そういうの久しぶりだね」


 やっと母親から解放され、綸と落ち合う。


「うん、そうだね。よし、綸、ビーサン買いに行こう」


 真実は間髪入れずに提案する。


「え? なんで?」


 綸が驚く。そりゃそうだ。真実も本当は、でっかいカバンに着替えとか靴とか入れて家を出たかった。でも母親は真実の髪をいじってから玄関を出るまで、真実の傍を離れなかった。出がけには小さな巾着かごバッグを持たされ、はい完成、と満足気な顔で送り出されたのだ。


 だから仕方ない。持ってこれなかったものは買えばいいのだ。それに慣れない下駄で長時間歩くと、鼻緒で足の指の間を擦ってしまうことが容易に想像できた。


 綸はいつもの普段着でスタスタ歩く。羨ましい。

 真実が遅れていることに気付いて、綸が待ってくれる。かたじけない。

 綸に追いついて、二人でゆっくり歩く。商店に着いた。


「お、真実ちゃん。いいね、浴衣!」


 店主のおじちゃんが気さくに褒めてくれる。


「ありがと、おじちゃん。ビーサンある?」

「あるよ。……あれ?」


 おじちゃんが綸に気付く。おじちゃんの目が、真実と綸の間を行ったり来たりする。


「デートか?」


 おじちゃんがベタな事を言ってくる。だと思った。


「うん」


 綸がベタじゃない答えをする。こいつは、また人を茶化して。


「そうなのか⁉」


 おじちゃんが真に受けてるじゃないか。綸の顔はニッコニコだ。


「違うから、おじちゃん。これ買います」


 真実はおじちゃんに会計を頼む。


「へ? 違うのかい、真実ちゃん? でもこりゃ、真実ちゃんキレーな浴衣だし、綸ニッコニコだし。これがデートじゃないんなら、なんなんだよ?」


 ああ、面倒くさい。


「浴衣は母さんの趣味で。だからせめて下駄は履きたくないからビーサン買いに来たんです。綸はおじちゃんのこと、からかって遊んでるだけだから、真に受けないで。ね、おじちゃん、会計お願い」


 真実がかいつまんで説明する。

 おじちゃんがやっと会計してくれる。

 真実は下駄を脱ぎ、ビーサンに履き替える。


「はー、やっと解放ー」


 凄い解放感だ。足の指をニギニギしてしまう。これで浴衣を着替えられたら……。考えても仕方が無いので、これでよしとして江の島へ向かうことにする。


「真実かわいかったのに。ヒヒ」


 綸に思わぬことを言われて、真実は赤面してしまう。


「じゃあ、綸が下駄履いたら?」


 下駄の入った袋を綸につき出す。冗談のつもりだったが、綸は袋を受け取って、持ってくれる。


「……別に。そういう意味じゃないから。自分で持つよ」


 真実は、綸に持たせてしまった袋を取り戻そうとする。


「ん? いいよ別に。これくらい」


 綸が返してくれない。まあいいか、これくらい。自分は浴衣で苦しんでいるんだし。


「じゃあね、おじちゃん」


 店を出て、おじちゃんに手を振る。


「ああ、楽しんどいで。遅くなりすぎるなよ~」


 おじちゃんが世話を焼いてくれる。


「は~い」


 綸が気の抜けた返事をおじちゃんに返す。


 やっぱりビーサンはいい。下駄と違ってサクサク歩ける。でもあまり歩幅を広げすぎると今度は浴衣を着崩してしまう。崩れたら自分では直せない。普段着の綸が、本当に羨ましい。


 駅に着く。江の島へ向かう電車に乗る。

 おお、混んでるぜ。

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