水本

「いい匂い」


 コーヒーショップから、コーヒーのいい香りが漂ってくる。

 店の前で足を止める。

 バイト募集の看板が目に入る。


 店に入って、クリームがのって美味しそうな新商品を頼む。

 店内で一人で飲む。甘い。


 店のバイト募集の看板を読む。

 そこにある条件で、月額最高の給料を計算してみる。

 スマホからネットで、一人暮らしのやり方の情報を探してみる。


 この給料だと、カツカツの生活になりそうだ。

 ネットの情報には一緒に、毒親とかいじめとかの言葉が並ぶ。

 自分の母親は毒親と言えなくもないが、そこまで酷くはないとも思える。


 幼い頃は、愛情深く育ててくれる両親が好きだった。

 今でも十分な広さの家に住まわせてもらって、自室まで与えてもらっている。

 今手にしているスマホだってそうだ。


 身体的な虐待なんて勿論されてない。精神的には無いとは言い切れないが、全くかわせない程ではない。

 現に自分は母親に反抗しまくって、妹と父親から平穏な家庭生活を奪った。


 高校も、文化祭を機にクラスに馴染めた。

 進学校の部分にはまだ抵抗を感じるが、不登校になるレベルでもない。


 自分は恵まれている。

 そんな自分が家出とか、本当に切羽詰まって家出する人に笑われる。

 誰かが欲しいと思うかもしれない今の生活をしておいて、これ以上の自由が欲しいというのは、我儘に思える。


 いい加減、感情のままに行動するのは終えなければ。

 大人になる努力をしなければ。

 

 父親の家出は、その点ではプラスのこともあった。

 愛想笑いができるようになった。

 負の感情を表に出ないようにすることで、周囲との面倒な軋轢を予防するやり方を学んだ。


 前は気にしていた些細なことも、日々の家を回すプレッシャーと疲労から、どうでもいいと思えるようになって、ラクになった。

 なんだか今は、高校のクラスメイトのような、反抗期は中学で終えてる感じに近づけているかもしれない。


 近づいただけで同じではないのは、自分はキラキラはしていない、という点だ。

 高校でやりたいことも、高校の先にやりたいことも、何も分からない。

 大人になる予感がない。

 カウントダウンを始められない。


 コーヒーを飲み切ってしまった。

 店を出る。どうしよう。

 何かキラキラしたジョシコーセーらしい店に行きたい。


**


「真実?」


 コーヒーショップを出て街をふらついていると、知っている声に呼び止められた。


「……水本さん?」

「やっぱ真実だ~」


 綸の一回り上のいとこ、水本だ。


「どしたの? 今日、月曜だよね?」


 水本こそ、今日は月曜ではないのか?

 違うか。水族館は休日も営業している。

 水本にとっては、今日が週休日なのかもしれない。


「はい。昨日、高校の文化祭で。今日は、その振り替え休です」

「そうなんだ。私は今日が休日」


 水本がニカッと笑う。やはりそうだったのか。


「でもどうしたの? それ」


 水本が、両の手の人差し指をそれぞれ、自分の両頬にあてて上から下になぞる。

 涙が流れる様子を再現しているようだ。


 ヤバい。涙は拭ったつもりだったが、後が残っていたのか。

 真実は焦る。


「えと。これは。その」


 そう言うと、真実は急に、泣きたい衝動に駆られる。

 水本には小さな頃、よく遊んでもらった。

 今でも時折会うと、とても優しくしてくれる。

 第一子の真実にとって水本は、上のきょうだいのように思える存在だ。


「大丈夫? 何かあった?」


 水本が真実の肩に手をかけ、心配そうに訊いてくる。

 そんな水本の顔を見て、真実の何かが完全に緩んだ。


「……なにか。……あった。……うー……」


 真実は街中で、人目も憚らず泣き始めた。


**


 ひとしきり泣いて少し落ち着いた真実を、水本がカラオケ店に連れてきてくれた。

 平日の昼、すぐに部屋に入ることができた。


「で? なにがあった?」


 部屋に入って腰かけると、曲も選ばず、水本が真実に訊いてきた。

 真実は、その問いかけにすぐに答えることはできない。

 何をどこまで話せばいいのか分からない。

 でも街中であんな風に泣いてしまった以上、ことの顛末を話さねばならない。


「……父さんに、会いに行ったの」

「会いに行った、て? 何か、急用?」


 真実は首を横に振る。水本が訊く。


「違うの? でも、平日にわざわざ会いに行くって。……どうして?」


 水本は、分からない、不思議だという顔をしている。


「家出してる」


 不貞腐れた顔で真実は答える。


「家出? 真実……が?」


 また、真実は首を横に振る。

 水本が、恐る恐る訊いてくる。


「もしかして……おじさん。……帰ってないの?」


 コクン。真実が頷く。水本は驚く。


「……しばらく、帰ってなくて。……その理由は、分からなくて。……連絡も取れなくて。……だから父さんの職場に、昼休みに、会いに行った」


 水本の開いた口が閉まらない。

 しばらくして我に返り、口を閉じたと思ったら開いた。


「それで?」


 水本に問われて、今度は真実が黙る。言葉を探す。


「……父さんがそうなってから、母さんが、元気無くしちゃって……。それで、今、困ってて。だから父さんに、帰ってきてほしい、て、言いに行って」


 思い出すと、泣けてくる。さっきで泣きはらしたと思っていた涙が、じんわり滲んでくる。真実の顔が歪む。


「……美奈に、訊かれるの。父さん帰ってこないのかな、て。母さんは元気にならないのかな、て。そしたら私、どう答えていいか分からなくて……。美奈が、いつも、そうやって寝る時にぐずるの……。朝も、なかなか起きなくて、ぐずるの……。夕飯も私と美奈だけで楽しくないし……。美奈は、まだ、中学生なんだよ? ……私、本当に、どうしたらいいか分からなくて……」


 話ながら、真実はまた、胸が痛くなる。

 どんどん痛くなって、喉も締まり始める。

 喉が、きゅーっとなる。段々、ぎゅうーっとなる。


 言いたいけど言えない言葉が、喉の奥に押し込められる。

 胸がギリギリ痛み、言葉を刻みにかかる。


 泣きじゃくりながら、とつとつと言葉を紡ぐ真実の話を、水本は心配そうに訊いている。


「真実は? 大丈夫なの?」


 思いがけない言葉に、真実はハッとする。

 このセリフを聞くのは、今日二回目だ。


 分かっている。これが『思いがけない言葉』なんかじゃないことは。

 この流れでのこのセリフは、とても世間一般的であるということは。

 でもそれは、今の真実にとっては聞きたくないセリフだ。


 そんなセリフを言われてしまっては、なんとか形を保っている自分のカタチが、ガラガラと崩れ始めてしまうう。

 あの母親のように、何もできなくなってしまう。

 もう何も、頑張れなくなってしまう……。


 だから、やめてくれ。そんなこと、訊かないでくれ。そんなセリフを吐くのは、やめろ。


「だから、真実は大丈夫なの?」


 水本が再び訊いてくる。

 せっかく頑張って保っていた自分が、崩れ始めるのを真実は感じる。


「……うー……」


 真実は、声を殺して泣きじゃくる。


「……うー……ひっく……うーー……ひっく、ひっく」


 あんまりにも素直に泣かないものだから、横隔膜に変な力がかかったのか、シャックリが始まってしまった。

 水本が、背中をさすってくれる。


「……大丈夫なわけ、ないよね……」


 そう、水本が優しく言ってくれる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る