街をふらつく。


 平日の午後の街は、こんな感じなんだ、と真実は思う。

 自分の両親はおかしい、と真実は思う。


 配偶者が家に帰ってこないだけで、あんなに落ち込む母親もそうだが、子どもの反抗期くらいで家に帰らない父親も相当だ。

 でも、と真実は考える。


 父親が家に帰って来ないことを、美奈が母親に詰め寄った時、その場にいた自分はとても居たたまれない気持ちになった。どちらの気持ちも分かって、どちらも悪くないと思えて、でも二人の対決をうまく納める方法も思いつかなくて、狼狽し、焦った。


 自分が母親に初めて反抗した日を、覚えている。

 十二歳の誕生日だ。

 この前の十五歳の誕生日と同じ理由で反抗した。


 いつ頃からか、乳幼児期の自分の姿を写したものに、母親が歓声を上げ、そんな頃覚えているはずがない自分に、可愛いわね~だの、そう思わない? だの、あなた覚えてる? だの言う行事が、嫌になっていた。


 うまく言えないのだが、気持ち悪いのだ。

 自分の幼少期について、配偶者である父親と、あの時はこうだった、ああだった、と思い出話に花を咲かせるのは分かる。

 でも自分にとっては、可愛いと言ってもらいたくて可愛くしていた時期ではないし、ひたすらに、毎日生きて、今に繋がっている、ただそれだけの過去だ。


 どうして自分に、あなた可愛かったのよ~そう思わない? なんて、可愛いの対象である自分に、自分で自分のことが可愛いと思うわよね? ていう趣旨のことを訊いてこられるのだろう。

 その神経が分からない。


 どうしてこんなに気持ち悪いのか、核心の部分を言葉で説明することはできないけど、その周りにある別のメッセージなら、分かる。

 お前は私の子どもなのだ、という母親のメッセージだ。


 お前は私の子どもなのだ、この関係から逃れることはできない、お前には私の子どもであるという自意識以外の意志は許されない。

 毎年、母親が自分に繋いでいる鎖を可視化するように、記憶にない頃の自分の姿を、静止画で、動画で、見せつけられる。


 だから、もう嫌だ、と言ったのだ。そんなものに興味は無い、何が面白いのか分からない、と。

 すると、母親は化け物を見るような目で自分を見た。

 何てこと言うのあなた、何て冷たいこと言うのあなた、あなた心が無いの? 


 そんな訳ない。

 逆に、何が面白いのか分からない、説明してと言うと、これを見て可愛いと思えないなんて、あなた人間じゃないわ、どこか欠陥があるのよ、どうしちゃったの? と。


 それまでも自分の意志を否定されるような躾を何度か受けてきたが、こんなにも自分を完全否定されるような事は初めて言われたので、どう受け止めていいか分からず困惑し、父親に助けを求める視線を向けた。

 が、父親は愛想笑いするばかりで、その場をやり過ごされた。


 もう一つは、我が家の伝統のフルーツケーキだ。

 母親の命じるままに学校で真面目に勉強すればするほど、母親の言う伝統のおかしさが分かってきたので、教えてあげようと思って指摘したのだ。

 そうすると、母親は烈火のごとく怒った。


 伝統とは、そういう事ではない。

 他所は他所、家は家。


 幼い頃からよく聞いていた台詞だった。

 でもこれは、学術的な話をしているのであって、生活方法や道徳観の話をしているのではない。意味が全く分からなかった。


 この時に、それまでずっと漠然とあった母親への信頼が、疑念に変わった。

 別に、伝統について母親と議論が成立しなくてもいい。

 自分の誕生日なのだ。自分の好きなケーキを出してくれてもいいのではないか、ということも指摘した。


 他所の家庭はそうしているらしいし、『伝統』のフルーツケーキはクリスマスとか雛祭りとか、行事行事で焼いているのだから、別に一年を通して食べる機会が無いということは無いのだから。


 しかしこれも母親は頑なに拒否した。

 そしてそれを機会に、母親の強権的な態度が強まった。


 小遣いをねだれば、こと細かに訊かれた。

 何に使うのか、誰とどこに遊びに行くのか、何のためにそんなことをする必要があるのか。


 それまでも小遣いは申告制で会計報告が義務だったが、あくまで金銭教育のていだった。

 でもそれに、束縛というか干渉というか、子どもの内面により踏み込もうとする、母親の気持ちの悪い行動が加わった。


 学校のテストもそうだ。

 中学校に上がったということもあると思うが、定期テストが返却されると、それを見せるよう要求されるようになった。

 小学校までは、学校で優秀にやっているという信頼があったようで、そんなことは無かった。


 真実ちゃんはしっかりしてるから大丈夫よね、という話を、いつもニコニコの顔でされた。

 うちは真実ちゃんがしっかりしてるから、テストのチェックだなんて無粋な事はしません、て、得意顔だった。


 それが中学に上がり、定期テストの結果を見せるようになると、何故ここを間違えたのか、どうしてそんな間違いをしたのか、どういう勉強をしているのかと、ネチネチ訊かれて面倒になった。


 逆に、母親の教育熱を利用して習い事を全部辞められたのは良かった。

 習い事をしていた時、中学に上がるタイミングでやめる子が多いのを見ていたので、いつか自分もそれを利用してやめようと思っていた。


 でも母親からは、もう中学生だから習い事はやめる? なんて提案は無かった。だから中学一年一学期の中間テストでネチネチ言われた時に、これはチャンスだと思い申し出た。もう中学生で勉強が多いから、と。


 するとあっさり了承された。真実もちゃんと考えてるのね、というよく分からない母親の信頼も獲得できたという、おまけ付きだった。


 他にも、中学に上がったことをきっかけに、学級役員になることや各種コンクールへの応募はやめた。

 それまでの漠然とした母親への信頼から言う事を聞いていた事柄を、ことごとくやめた。


 母親を信頼していた頃は、本当はやりたくないことも、やりたくないと思っている自分が悪くて、母親が正しいんじゃないか、という恐怖があって、母親の言うがままになっていた。

 でも少しずつ、怖くなくなっていった。


 母親が正しいと思えることは、徐々に減っていった。

 比例して、自分が正しいと思えることが増えていった。


 そうなると、生活の至る所で母親と喧嘩するようになった。

 学校であまり頑張らなくなったことは勿論、家でも、母親が早く起きろと言えば二度寝し、勉強しろと言えば怠け、たまには友達と遊びに行ったらと言われれば家にいた。

 母親の他愛のない世間話を理詰めでやり返し、綺麗な言葉遣いをしろと言われれば罵った。


 反抗を始めた頃は、これまでの鬱憤を晴らしたい衝動もあって、感情のままに反抗していた。

 でもその内、そんな自分を冷静に見るようにもなった。


 食わせてもらっている自分。

 身の回りのことを、全部母親にやってもらっている自分。

 生態は子どものままで、言う事だけ一人前のつもりの自分。


 別に、親に意見したいなら理路整然と話して議論すればいい。

 母親とは議論にならないことが多くても、それでも世話になっている身。

 同居する家族として妥協とかできるようになるのが、良い人間というものではないのか。


 なのに、一度タガが外れたものは戻せない。

 どうしても母親の些細なことが気に障る。

 反射的に苛立つ。


 そうなったとしても、表には出さないように自制すべきだと思うのに止められない。

 爆発してしまう。


 自分が自分を抑えられないほど、母親も頑なになっていった。

 最初の頃は優しく窘められもしたが、今はもう、喧嘩の気配が漂うとすぐに臨戦態勢だ。


 解決の糸口が見つからない。


 美奈は、そんな自分と母親の喧嘩に呆れ顔を向け、冷ややかに見ていた。

 父親は、この前の十五歳の誕生日の時のような、口元に笑み、目は困っている、という表情で、ただただ困惑していた。


 時には、家族全員で同じテレビ番組を観て、同じように笑ったりして、楽しい、一体感を感じる、ということもあった。

 でもそういう希少な事があるとそれだけ、自分と母親が喧嘩する事の悲壮さが増した。


 父親は優しい人だ。

 幼い頃から、心底怒っている父親というのを見たことがない。

 一度だけ、自分が将来の夢について母親に詰問されていた時だけ、それも母親に対して怒っていたことしか記憶にない。


 父親は、気持ちの悪い子ども扱いもしてこない人だった。

 そこは綸の母親と共通している。


 ただ、綸の母親と違うところは、強い物言いはしない、というところだ。

 総じて大人しい人だ。

 強くリーダーシップを見せるタイプでは無いと思う。


 そう言えば、母親も子どもの頃はそうだった、と祖母が言っていた。

 でも母親になったから変わった、と。

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