弁当
文化祭が終わった。
家の事があって、文化祭のことだけを考えて思いっきり楽しむ、ということはできなかったが、夏休みの三者面談など、真実が高校でやらかしてきた事々を考えたら、あんなにもクラスメイトと楽しく文化祭ができたことは、奇跡のように思えた。
今日はそんな成功裏に終わった文化祭の、日曜の振り替え休日、月曜だ。
真実は今、父親の職場に来ている。
時間はもうすぐ昼休みだ。
父親が今日も出勤していることは、受付をしてくれた人が教えてくれた。
真実はその人に、父親への取り次ぎをお願いした。
自分のスマホを忘れてしまって父親と連絡が取れないから、と理由を話して。
正午を知らせる音楽が鳴った。
ほどなくして、父親が真実の前に現れた。
「父さん。今日は文化祭の振り替えで休みだったから、来たの」
真実が父親に切り出す。
「そうか。お昼、一緒に食べるか?」
想定していた言葉が父親から返ってくる。
「うん。どっか、公園とかで食べながら話したい」
真実は、自分で作って持ってきた弁当の包みを父親に見せる。
見ると、父親も弁当を持っている。マンスリーマンションで自炊しているようだ。
「分かった。じゃあ、近くに公園あるから、行こうか」
父親と一緒に、公園へ向かう。無言で歩く。
公園に着くと、適当なベンチに座り、弁当箱を広げ、もくもくと食べる。
父親が、真実の弁当を見る。
何か言いたそうにするが、何も話さない。
「美奈が、寂しがってる」
真実が口を開く。
「母さんは塞ぎ込んでて、家事もできなくて、夕飯も食べない。弁当とか、私は自分の事自分でできるし、家の事もするけど、美奈が可哀想だよ」
父親は黙って聞いている。
「美奈はさ、不安なんだよ。一応ご飯とか、食べられてるし、それなりに家も回ってるけど、母さんが元気無いとか、夕飯、私と二人きりとか、不自然じゃん? だから、中学生だし、それだけで不安なんだよ。ご飯も私が作ってるから、そんなに美味しくないし、栄養バランスも取れてない気がするし。私はもう高校生だけど、美奈はまだ中学生だからさ。それじゃダメだと思う。これから受験もあるのに、可哀想だよ」
沈黙がおりる。
父親が口を開く。
「……すまない。本当に、悪いことしているって、思ってる。本当にすまない」
父親が言葉を探している。
「……真実は、……大丈夫なのか?」
父親が、真実が思ってもみなかったことを訊いてくる。
この人は何を言っているのだろう。
自分が? 大丈夫じゃなかったら? どうなるのか?
思いがけず父親に気遣われて、真実の中で、全てをぶちまけたい気持ちと、それは絶対にしてはいけない、という葛藤が沸き起こる。
どうしてそんな葛藤が起こるのか、真実には分からない。分からないが、今はそのことではない、と必死に自分を押しとどめる。
自分の問題はひとまず置いておいて、今はとにかく美奈のことだ。
母親はいい。あれは大人だ。自分のことは自分でするべきだ。自分の配偶者が家に帰ってこないだけで駄目になるならそのまま朽ちればいい。
でも美奈は違う。
まだ無邪気に我儘を言って、周りの大人を振り回して、でも悪びれることもせず、子ども然として、大人達に大切に扱われるべきなのだ。
この目の前の男は、家にいるあの女と同じに、それを放棄している。
幼い頃、あんなに熱心に自分達を世話して、母親に将来の夢のことで詰め寄られた日に、自分を助けてくれたあの父親は、こんな人だっただろうか。
さっきまで父親に対して持っていた希望が、薄らいでいくのを真実は感じる。
ただ、薄らいではいくが、どこかゼロではないという確信もある。
微かな希望にすがるべく、真実はそれを言葉にする。
「……父さんは、帰ってこないの?」
なぜか、胸が痛い。喉も締められるようだ。目頭も熱くて、手足が強張る。
体全体に強いストレスがかかっているようだ。
耐えられず、真実は俯く。
「私は……」
父親も俯く。言葉が続かないようだ。お昼時間は少ない。
たまらず真実が代わりに話す。
「……父さんと母さんが、これからどうなるのか、分からない。……分かりたくても、父さんとは連絡も取れない。……でも、家は回さなきゃいけない。……うちはまだ、家を回すためのお金があるから、それだけでも、恵まれてることは分かってる。……だから父さんにこれ以上、私から何かお願いするつもりはない。……でも」
うまく言葉が出てこない。一文一文の間がつかえてきれいに繋がらない。
いよいよ喉が詰まる。痛い。体の強張りも酷くなる。
真実は両の手を強く握りしめる。
「……でも。……どうにかはするべきだと思う。……今までのようにできないなら、違う形でいいから、落ち着けてほしい。……美奈に、これからどうなるんだろう、て訊かれるの。……何となく、心配しないで、とか、大丈夫だよ、とか言えばいいんだろうけど、私にはできない。……どうしてもできない。……だから代わりに、答えてほしい」
喉が、締まる。
こんなことは初めてだ。真実は息を整えて、続ける。
「……母さんはもう使い物にならない。……だから、父さんに答えてもらいたいの。……仕事もして、弁当も作れてるんだから、せめてそれくらいはして欲しい」
喉が完全に締まった。とても痛い。体も全部が強張る。握りしめた手の指が食い込んで、それも痛い。でも昼の公園。泣くわけにはいかない。
「……怖いんだ……」
父親が何か言った。
顔をあげると目頭が緩みそうなので、真実は顔を上げられない。
「……毎日、電車に、乗ろうとするんだ。……でも、どうしても乗れない。ずっとホームで何本も電車をやり過ごして、乗る電車が無くなって、駅を出るんだ」
この人は何を言っているのだろう。どういうことか分からない。
「……連絡も、しなきゃいけないって、分かってる。でも怖くて、スマホに触れない。何を言えばいいか考えるんだけど、どうしてもできないんだ。それでスマホは、職場に置いている……」
だから連絡がつかないのか。なら、母親は無駄に遅くまで起きていることになる。
「……なにが、こわいの?」
今にも崩壊しそうな自分を抑えて、真実が訊く。
父親は、答えるべきか迷っているようだ。でも意を決したらしく、堰を切ったように話し始めた。
「今でも、家に帰りたいと思ってる。ただ、怖いんだ。父親として、お前たちとどう関わるべきか分からなくて……。お前たちが小学生までは良かった。二人とも、子どもだった。考え方も振る舞いも、少しずつ大人びていったけど、まだ、子どもだった。素直に甘えてくれたしね。こうすれば喜んでくれる、こうすれば怒るってことが分かってた。……でも段々、二人とも何を考えているか、分からなくなった。どう接すればいいのか、分からなくなった」
父親が止まった。
どうやら怖いものは、自分の子どもらしい。つまり真実だ。
父親が続ける。
「でもそれより、恐ろしく、なってしまったんだ。お前と母さんの関係が……。昔から母さんは、お前にやり過ぎるところがあった。でもそれは、一番上だからだと思っていた。美奈の手本になるから、上の真実はしっかりと、ていう考えなんだって……。でも真実が大きくなるにつれて、そうではないような気がしてきた。母さんが、なぜ真実にこんなに執着するのか分からないし、それがストレスになっている真実が可哀想だった。でも私は、親に育てられていないし、親子とは普通こうなのだろうって思うようにしたり、母と娘というのは大なり小なり確執があるものなのかもしれないんだって、自分に言い聞かせていた。……でも真実とお母さんは、酷くなる一方だ。なぜ真実がそんなに怒るのか、なぜ母さんは真実の話を聞かないのか、分からなかった。……それで、そんな何も分からない自分がとても不甲斐なかった。父親として、何か答えを出したかった。でも出来なくて、戸惑うばかりで、自分が情けなくて哀れで……。家にいるのが辛くて、帰りたくなくなってしまった。……いつも、帰りの電車に乗ろうとしているんだ。でもどうしてもダメだ。足がすくんでしまって、どうにも帰れない」
そこまで言うと、父親は俯く。脚に肘をつき、手で頭を支えている。
今のは、父親の一世一代の告白であったことが推察された。
ああ、何という事だろう。
いよいよ本当に、自分は最低だ。
自分は、妹から父親を遠ざけた。
美奈に泣かれた夕食を思い出す。
寝る間際にぐずる美奈を思い出す。
「これからどうなるのかな?」
どうなるのだろう。どうしたらいいのだろう。
分からない。どうしたらこの状況が直るのか、方法が分からない。
せめて、自分にできること。何だろう。せめて、自分に、できること。
「……ごめんなさい」
真実は顔を上げ、父親を見て話す。
父親も顔を上げ、真実のほうを見る。
「……なんで、真実が、謝るんだ?」
父親は、とても驚いた顔をしている。
何を驚いているのだろう。だってそうではないか。自分が面倒くさい子どもだから、うまくやれない子どもだから、母親と対立して、父親を追い込んで、この状況を招いて、美奈を悲しませているのだ。
元凶はこの自分だ。ああ、本当に。どうして自分なんて存在が生まれてしまったのだろうか。
「父さん、私、もう母さんと喧嘩しないから。子どもだし、ちゃんと親の言う事聞いて、家の事やって、楽しい家にするようにするから。約束する。……だから、帰って来て。美奈と母さんのために。お願いします」
真実は父親に頭を下げる。
「真実! 違う! 悪いのは父さんだ! 真実はなんにも悪くない。本当に真実はなんにも悪くない! だから真実、なんで真実が謝るんだ⁉」
父親が何か喚きながら、真実の肩を揺する。痛いな。止めてほしい。
そうだ、もうすぐ昼は終わりだ。
真実は顔を上げ、もう一度父親に頼む。
「お願い。父さん、帰って来て。お願い。もう私の手には負えないの」
さっきまでの目頭の熱が、嘘のようだ。喉も胸も、正常だ。
父親に肩を揺さぶられたせいか、体の強張りもきれいに消えている。
真実の全てが、冷え冷えと正常だ。
「……真実?」
父親が困惑している。
ああ、これはダメかもしれない。自分はまた、この至らなさで何か失敗したのだ。頼りない姉で、本当に申し訳ない。
美奈に父親を、戻してあげたかった。
涙が一筋、流れる。
真実は立ち上がり、駅に向かう。
後ろから父親の声がする。耳に何かあるようで、涙のような何かで覆われているようで、言っていることが聞こえない。
涙は止まらない。
駅に着くと、幼い子が母親に抱えられて切符を買っている。
可愛い。お母さん大変そう。でも二人は楽しそう。
無事に切符を買って、親子連れは楽しそうに改札に消えていく。
嫌になって、真実は駅を出た。
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