朝の仕事

 家が汚い。


 父親が帰ってこなくなって、二週間が経った。

 九月の第四月曜日、真実は休みだ。次の土曜と日曜に亘って行われる文化祭の、土曜の分の振り替え休日だ。


 昨日と一昨日の土日は、美奈の部活の練習試合だった。

 その試合では、当番制の保護者の世話役が篠崎家に当たっていたので、真実は親の代理で世話役をこなした。

 両親ともに風邪だと言って。家にいたらうつりそうだし、月曜は代休だし、急だったので交代をお願いする連絡もできなかったので、と言って。


 かなり苦しい言い訳だったが、交代してもらっても、その時に親が参加できるか分からない。今回をやってしまえば次はだいぶ先になるから、今回でこなした方がいいと考えたのだ。


 真実は、土日に出た洗濯物を洗濯機にかけている。

 洗濯機に乾燥機能もついているが、量が多いし天気もいいので、外に干すことにしたのだ。その為に朝一で洗濯機を回している。


 母親はまだ起きてこない。夜、遅くまで起きているせいのようだ。

 遅くまで仕事だと言っている父親と連絡を取るため、仕事が終わるタイミングまで起きているのだ。

 でもそれは、うまくいってないようだ。


 真実も父親の帰宅を狙って何度か違う時間にLINEしているが、それの既読が付くのは翌日の午前中が多い。最近ではその既読もなかなかつかず、返信のタイミングもまばらで、内容もただ、仕事だ、というものが多い。

 母親も同じ状況だろう。


 真実は次に、台所で昨日の夕飯で使った皿を洗う。

 日曜の昼までは母親がやってくれていたが、昨晩はやってくれなかった。昨晩は真実も、慣れない二日間の美奈の部活の世話役で疲れ果てていたし、母親が夕飯を食べなかったからだ。


 皿を洗い終えると、母親の様子を見に行く。まだ布団の中だ。起きてくる気配がない。

 もうすぐ美奈が起きてきて、支度をしたら朝食を食べるだろう。

 母親を起こすのは気が引けるので、自分でなんとかすることにする。


 台所に戻る。

 炊飯器は、昨日の夜でタイマーをかけてセットしてあったので問題ない。

 味噌汁とおかずを作らなければならない。味噌汁はすぐに用意できる。


 おかずはどうしようか。母親のように手のかかるものはつくれない。冷蔵庫にあるものを見ても、レシピなんて全く思いつかない。仕方がないので、卵と鮭の切り身を焼くだけにする。真実と美奈と母親の三人分だ。


 美奈が起きてこない。真実はいつも美奈が寝ているうちに家を出るので、美奈がいつも何時に起きているかは正確には分からない。一人で起きられるのかも分からない。


 もしかしたら、真実が中学生の時と同じく、目覚ましが鳴って止めても二度寝して、母親に起こしてもらうパターンなのかもしれない。さっきまで台所で集中していたので、美奈の目覚ましが鳴ったのか鳴ってないのか分からない。でももう、真実が中学生の頃の起床時間を過ぎている。


 二階に上がり、美奈の様子を見る。ぐっすり眠っている。やっぱり目覚ましは一度鳴ったが、美奈によって止められたようだ。

 美奈を起こすが、起きない。昨日までの練習試合の疲れもあるのだろうか。寝かしておいてあげたいが、このままでは遅刻だ。

 真実は美奈の目覚ましをセットし、それを持って美奈の傍に立つ。


 ジリリリリ

 目覚ましが鳴る。美奈が目覚ましを止めようと手を伸ばす。でもそこに目覚ましは無い。


 ジリリリリ

 やっと美奈が起きる。嫌がる美奈に、早く支度して朝食を食べるよう伝えて、美奈の部屋を出る。


 二階から下りると、母親が起きてリビングのソファに座っていた。元気が無い。

 起き抜けの母親は、こんな感じなのかもしれない。

 美奈も下りてきたので、三人で朝食にする。


 学校へ行く美奈を見送って、台所に戻る。朝食で使った皿などを洗うためだ。

 母親は脱衣所にいた。洗濯機から洗濯物を取り出している。そして物干し場へ向かった。


 真実は皿を洗い終え、脱衣所を見てみた。まだ洗濯すべき衣類が残っている。母親はそれらを洗濯機にかけるまではやってくれなかったようだ。真実は洗濯機を今一度回す。


 リビングに向かう。リビングだけでなく、家全体が汚い。平日の日中、どうも母親は掃除ができていないようだ。掃除のなされていない家で過ごすのは、真実は記憶が残っている限りで、生まれて初めてかもしれなかった。


 汚い家というのは、どうも居心地が悪い。一気に強いストレスがかかる感じはないのだが、日に日に溜まっていく家の汚れに比例して、少しずつストレスが溜まっていくようだった。


 今なら分かる。真実の母親は完璧な専業主婦だった。

 毎度のご飯が美味しいのはもちろん、家はどこも、いつでもピカピカで、家族の誰にも家事をさせなかった。

 だから真実は、今まで当たり前のように綺麗な家で過ごしてきた。


 そんな毎日を真実は、清潔監獄だと感じていた。

 あまりにも整った家の中に、母親の神経が張り巡らされているようで、息苦しいと思っていたのだ。


 今は、そんな風に思っていたことがどれだけ罰当たりなことだったか、母親がやってくれていた主婦業がどんなに有難いものだったか、分かる。

 清潔な家というのは、とても居心地が良い。快適とは、そういうことを言うのだ。


 物理的な快適さが、どれほど日々の生活を豊かにするのか、そしてそれを維持することが全く容易ではないということを、ここ最近の母親の不調で真実は学んだ。


 洗濯が終わるまで、真実は家の掃除をすることにした。

 母親が物干し場から戻ってきて、一緒に片付ける。でもその動きはゆっくりで、ぎこちない。母親は、朝起きてきた時と様子が変わらず、元気が無い。二人でもくもくと片付ける。


 洗濯が終わった。真実は洗濯物を干しに行く。掃除機かけは母親に頼んだ。

 真実が物干し場から戻ると、母親は掃除機かけを終えて、リビングのソファに座っていた。とても疲れた様子だ。

 真実を見つけると、疲れたから少し横になるね、と言って自室に戻っていった。


 慣れない朝の仕事を一通り終えて、真実も疲れた。

 自室に戻り、横になる。

 横になって考える。


 起きたら、母親と昼食の用意をしよう。

 買い物と夕飯作りも、一緒にやろう。

 母親の今日の様子だと、明日から朝食と弁当は自分で用意しないといけないかもしれない。


 自分にできるだろうか。

 でも、できなくてもやらなければならない。


 ひとまず今は、少し眠ろう。


**


 ヤバい。遅れそうだ。

 真実は家から高校まで走る。頑張ったかいあって、何とか間に合った。


「どしたん?」


 綸だ。


「あ、綸。おはよ! どうしたって、何が?」


 真実は努めて明るく振る舞う。


「どうした、て。最近走ってくるし。朝から変に明るいし。何かあった?」


 鋭い。じゃなくて、同じ高校に通うお隣さんなら気づくことだ。


 父親が帰ってこなくなって、二週間が過ぎた。

 最初こそ母親は気丈に振る舞っていたが、少しずつ家事ができなくなっていた。


 まず朝が起きられなくなり、朝食と弁当を作ってもらえなくなった。

 洗濯は洗濯乾燥機が全部やってくれるのでいいのだが、掃除が雑になり、家が散らかっている。

 買い物と夕飯作りは何とかやってくれるが、夕飯も、簡単な野菜炒めとスーパーの総菜が食卓に並ぶようになった。


 母親が朝起きられなくなったので、朝食と弁当は真実が用意している。といっても簡単にだ。

 夜に炊飯器をタイマーをかけてセットし、朝炊きあがったご飯を弁当に入れ、冷凍食品のおかずを入れ、おにぎりを作って終わり。


 自分と美奈と母親の分の味噌汁を作り、おかずは卵とか何かを適当に焼いて、飽きた時はご飯のともで変化をつけて朝食は終わり。

 美奈は中学で給食があるので弁当は必要ない。


 このように朝の仕事が増えたので、真実の登校時間はギリギリになっていた。

 父親が家出をする前は、真実は歩きがゆっくりなのと、途中で考え事で立ち止まることも考慮して、隣の綸より早く家を出ていて、学校の近くで綸に追いつかれていた。


「何もないよ。ホント。綸、変なの。ハハハ」


 真実は、いつもよりオーバーに明るく笑う。


「ホントに? 大丈夫なの?」


 綸は珍しく真面目顔だ。


「え? 大丈夫だよ~。綸の方が変だよ。大丈夫? ヒヒ」


 真実が茶化す。それでも綸は表情を変えない。笑ってくれない。


 予鈴が鳴る。


「ほら、急がなきゃ」


 真実は走って教室を目指す。


「……ああ」


 綸は、それ以上は訊いてこなかった。

 何か考え込んで、真実と一緒に走ってはくれなかった。

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